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竜星の流れ人  作者: null
一部 二章 抜き身の刀
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太刀乱舞 壱

 ミルフィとエミリオが裏手で洗濯をしているときに、その事件は起きた。


 彼女とエミリオが互いに小言を言い合いながら手を動かし、泡立てながら日々の仕事に打ち込んでいたのだが、突然、空を切り裂く警鐘が一帯に鳴り響いた。


 エミリオが驚きのあまり飛び上がって、桶の中の水をひっくり返して撒き散らしたものの、二人とも、それどころではなくなっていた。


 火事か、それとも他の災害か、と周囲の様子を窺っていたのだが、直ぐさましゃがれた年配の男の声が天に響いた。


「ハイウルフだぁー!」


 ひゅっと息を吸い込み、口を開ける。


 ハイウルフが、何故森林を離れてこんな丘の下まで降りてきているのだ。


 隣で警鐘に怯えていたエミリオが、「もしかして…」と呟いたことで、ミルフィにも彼の口にしたいことが理解できてしまった。


 数日前、燐子がハイウルフを倒したということへの報復か、あるいはその残り香につられてこの村まで下りてきたのかもしれない。


 ミルフィは、エミリオに安全なところに隠れておくように命じて、直ぐに村の中心部へと駆け出した。


 その途中で自分の家の玄関に置いてある、狩猟用の弓矢とナイフを引っ掴むようにして持っていく。


 ナイフと矢筒は腰のベルトに固定して、弓はしっかりと左手に握って声の大きいほうへと飛ぶように進んでいく。


 エミリオが森の奥に入ってハイウルフを刺激したことが、事の発端なのだとしたら、この騒ぎの責任は姉である自分にある。


 自分の尻は自分で拭くのが私の流儀だ。


 両脇に並んだ民家の軒先に、村の各々で分配したハイウルフの毛皮が鞣してぶら下げてあるのを見て、やはりこれに引き寄せられてきたに違いないと臍を噛んだ。


 村の中心は酷い騒ぎで、店先の食べ物は荒らされ、逃げ惑う人々を追いかけ回す獣の姿があちこちに散見された。


 幸いまだ死体は転がっていないが、それも時間の問題だ。


 年老いた人間が塊になってハイウルフに対抗しようとしているが、あんな農具ではろくな時間稼ぎにもなるまい。


 瞬時に最も命の危険性が高い場所を見極め、矢筒から矢を抜き取り、それを番え、引き絞る。


 今にも小さな子どもに飛びかかろうと唸り声を上げている獣の脳天に狙いを定めて、矢を放つ。


 ハイウルフへの反撃の嚆矢となった一本の矢は、わずかに脳天を逸れてハイウルフの首元に食らいついた。獣が短く悲鳴を上げてよろめくが、やはり致命傷には至らない。


 二本目の矢を構える前に、獣は地を蹴ってこちらに走り寄ってくる。


 次の矢は間に合わない、ならば――。


 ミルフィは弓を左手に、ナイフを右手に構えて獣へと真っ向から突っ込む。


 ハイウルフが大きな顎を開いて飛びかかってくるのを瞬きもせずに観察しながら、宙を飛んだ獣の下に滑り込むようにスライドする。

 すれ違う瞬間に、ナイフの刃先を獣の首元に突き立てて転がり抜けた。


「よしっ、まずは一匹」


 確実にトドメを刺した感覚から、思わず喜びの声が出てしまうも、気を引き締め直してナイフを抜きに戻り、辺りをもう一度確認した。


 思いのほか数が増えすぎている気がする。


 五、六匹を想像していたが、一見しただけでも十匹はいるように思える。


 喜んでいる暇はない、と次の矢を番えて、女連中を狙っている次の標的へと放つ。


 流星のように尾を引いて空を裂いた矢は、今度こそ目標の脳天に吸い込まれて、一撃のもとに絶命させた。


 調子は良好、後は万事、タイミングの問題だ…!


 そのとき、四方で悲鳴が上がり、場の緊張感が、高温で熱された水が沸騰するように高まった。


 再び女連中と子どもが狙われ、ついに老人の団体も数匹の獣に囲まれてしまっていた。

 自分の視界の外でも誰かが襲われている気配がする。


 くそっ、駄目だ、全部は間に合わない、犠牲が出てしまう。


 ミルフィは一瞬のうちに優先順位をつけて、弓矢を構えた。


 その矛先は子ども狙っているハイウルフに定められていた。


 子どもは村の宝だと、誰もが口を揃えて言っていた。

 恨んでくれても構わない、だが今の私には迷っている時間は一寸たりともないのだ。


 弟のいる私に、子どもを見捨てる真似はできない。


 明日のために、生きている。


 子どもは明日、すなわち未来だ。


 何足も草鞋は履けないことを、私は知っている。


 極力狙いを定める時間を絞り、早撃ちで一匹仕留める。


 これならもう一匹、間に合うか、そう焦りながら矢筒から矢を取り出した次の瞬間だった。


「おーい!犬ども、こっちだー!」


 空鍋を床に落としたときのようなくぐもった爆音が、周辺に割れんばかりに鳴り響くと同時に、自分の聞き慣れた必死な声が耳に入ってきた。


 獣も、人も、みんながその轟音のほうを一斉に振り向いた。


 大通りに見える小さな人影が、お玉で鍋を懸命に叩いて音を出していた。

 その影と声に、ミルフィは真っ青になりながら叫ぶ。


「エミリオ!逃げなさい!」


 まるで自分の声が攻撃の合図であったかのように、人々を狙っていたハイウルフたちが、一斉にエミリオのほうへと駆け出した。


 そのうちの何匹かは自分を無視して横をすり抜けていく。


 どうして逃げていなかったのよ、と今更になって背を見せて駆け出した弟を追って、ミルフィは矢を番えながら全速力で前進する。


 しかし、地を蹴って進むことに特化した、四足歩行の加速の前には手も足も出ない。


 嘘だ、間に合わない。間に合わない、このままじゃ、間に合わない。


 もっと遠くへ、早く逃げて、お願い、それじゃあ追いつかれる!


 次第に獣たちとエミリオとの距離が縮まっていくのを見て、ミルフィの心臓の鼓動は今にも破裂しそうなほどに早鐘を打っていた。


 どうすればいいかを必死に模索している一方で、間に合うはずもないと凪のような冷静さも頭の中に宿っている。


 大通りに並んだ木箱や食べ物、ありていに言うと一切合切を薙ぎ倒しながら、ハイウルフはミルフィたちの住んでいる家のほうへ逃げるエミリオを追い続け、ついに、彼の足がもつれて土の上に倒れこんだ。


「エミリオ!」


 慌てて矢を射るが、ろくに狙いも定めていない一射は、大きく的を外れて民家の軒先に突き刺さる。


 波浪の中で揉まれるように呼吸が荒々しくなって、自分の足ももつれそうになったミルフィは、少しでも獣の注意が引ければと大声を上げたのだが、獣たちはわずかに振り向いただけで、功を奏さなかった。


 獣が蹴り上げた砂塵で、辺りが一気に煙たくなってしまう。


 私の命より大事なものが、獣風情に奪われてしまう。


 そんなことが許されていいはずがない、神様がいるのなら、そんな、残酷なことができるはずはないのだ。


 それなのに、獣たちは汚らしい涎を垂らしながら、足を抑えて蹲るエミリオに近寄っていく。


 やめろ、エミリオに触るな、そう叫び声を上げそうになったとき、ハイウルフたちは示し合わせたように表を上げて、通りの向こうを睨んだ。


 一体何が起こっているのか、と獣の双眸の先を辿ると、そこには西日を逆光に受けて悠然と歩いてくる一人の女の姿があった。


 獣たちはそれを見ると、極度に緊張した様子になり、唸り声を強くして殺気立ったものの、その矛先となっていた女は、まるで他人事のように瞳を伏せていた。


 彼女は気でも狂ったかのように、獣が織りなす死の包囲網に自らその身を投げ込み、エミリオの隣に凛とした佇まいで立った。

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