そして、約束は破れて
『タブーは破るためにある』のなら、
約束は、何のためにあるのでしょうか。
そんなことはどうでもいいですが、
二人の約束の行方、ご覧になってください。
振り向けば、鬼のような形相になったミルフィと、虚ろな目つきでララの骸を見つめるルル、それから、何人かの使用人の姿があった。
すうっ、と視線が小さな亡骸に落ちる。
血の気が失せた青白い肌、彼女の小さな体の下に広がる赤い血溜まり。
義憤でいっぱいになっていた頭の中が、水を打たれたように冷え冷えとしていく。
(ララが死んだのは、自分のせいだ。私は間接的にではあるが、また年端もいかない少女を殺したこととなる)
自分の無力感に、無意識に太刀の柄に手を伸ばす。
ずっと死線を共にしてきた愛刀が、慰めの呟きを漏らすように、カチャリと鳴った。
今までにない感情を込め、視線を投げかけるミルフィが口を開いた。
「…どこに行くの?どこに行こうってのよ、アンタはっ!?」
燐子が口を挟む暇もなく、ミルフィが片手でルルたちを指して続ける。
「この子たちを放ったらかしてまで行かなきゃいけない場所って、一体全体、どこだって言うのよ!」
「港だ。私は追わねばならん」
「もっと大事なことが、目の前にあるでしょうが!」
ずかずかと芝生を踏みつけにして、ミルフィが燐子の眼前に迫った。それから、燐子の目をじろりと睨みつけた。
もちろん、彼女の言わんとすることが分からない燐子ではなかった。
油断から致命的な隙を晒してしまった私を庇い、ララは死んだ。
遺す言葉もなく、この世を去らねばならなくなった少女の無念は、計り知れない。
明朗に笑う少女の姿が、脳裏に蘇る。思い出せばつらいだけだと分かっていながら、共にテーブルを囲んだときのことを思い出してしまう。
まだ、やりたいことが沢山あっただろうに…。
使命から解放され、野に解き放たれた駿馬のような心地になった過去の自分を振り返り、燐子はいっそうの後悔を覚えた。
撃たれ、死ぬべきだったのは自分かもしれない…、そう思えるほどに。
だが…。
「ミルフィ」ぴくり、とミルフィの眉が動く。「何よ」
燐子はミルフィに殴られる覚悟で、言葉を発した。
「今、私が成すべきことは、死者を悼むことではない」
燐子の言葉を受けて、唖然としたミルフィだったが、数秒もしないうちに瞳から、ギラリ、と鈍い光を放たれた。
直後、頬に痺れるような痛みを感じ、燐子は体をよろめかせる。
驚いて、セレーネが飛び出しかけるも、素早くアストレアが制した。どうやら、彼女は二人に行く末を委ねたいらしい。
世界が反転したのではと錯覚するほどの衝撃に、一瞬だけ現実感を失うも、覚悟していただけあって、意外にすぐ平静に戻った。
顔を上げれば、息を荒くして立つミルフィの姿があった。
「じ、自分が何を言っているのか、分かってんの…?」
「心得ている。その少女がどうして死んだのかも、私が少女のために何をするべきかも」
「燐子、アンタってば、本当に――」燐子が、すぐに言葉を遮った。「ミルフィ、お前も来い」
丸々と見開かれるミルフィの臙脂色の瞳。苛烈な憤りの中に、かすかな迷いが滲んで、美しかった。
「お前は私の相棒だろう。頼む、共に来てくれ」
この言い方はずるいと理解していたが、それでも、渾身の想いを込めて放った言葉だった。
実際、その想いがミルフィには届いていたのだろう。彼女は瞳を震わせ、激しく葛藤しているようだった。
ルビーのような瞳が、あてもなく方々をさまよう。
困っているのがありありと分かったため、申し訳無さを覚える一方、それだけ自分との関係を大事にしてくれていることが伝わり、奇妙な高揚感も覚えた。
やがて、ミルフィが小さく口を開いた。言いづらい言葉を、堪えきれず口にしようとしているようだった。
「…ずるい。そんな言い方されたら、私――」
揺れる瞳が真っ直ぐ自分を貫いていたそのとき、不意に、虚無を覗くような声が聞こえてきた。
「ララは、燐子様に憧れていたんです」声の主は、虚ろな目をしたルルだった。「…私に?」
燐子がそう尋ね返すも、ルルはまるで聞こえていなかったみたいに、二人のほうを向いて言葉を重ねた。
「お願いです、燐子様。ララを弔う間だけ、そばにいてあげてください。お願いします」
縋り付くような声だったが、失ってもなお、毅然とした態度を保とうという、芯の強さを感じさせる声でもあった。ただ、燐子は平然と首を左右に振るだけだ。
「無理だ。それでは、逃げられてしまう」
そんな、と絶望の声を漏らしたルルのそばで、他の使用人がすすり泣く声を強くした。その声を受けて、誰よりも強く燃え上がったのは、ミルフィだった。
「燐子!言い方ってものがあるでしょう!」
「言い方?」きょとん、とした表情の燐子を見て、ミルフィは心底苛立ったふうに眉をひそめる。「どうして、こんなことも分からないの…?」
今度は、燐子が眉をしかめる番だった。
「言い方やら、追悼やら…。そんな些細なことに、気を遣っている暇はない」
ぴしゃり、と言い放たれた一言で、辺りは水を打ったように静まり返った。人の気持ちが分からない、と揶揄される燐子でさえ、失言を漏らしたことに気付いた。
しかし、今更、言葉を翻すほどの面の皮の厚さは持ち合わせていない。
ぐっ、と胸倉を掴み上げられる。予期していたことだったが、力の強さは想像以上だった。
「だからぁ!言葉を選びなさいって言ってんのよ!」
力任せに頭を揺さぶられ、燐子のほうも段々と冷静さを失っていく。
「この状況下で、伝え方などというものが、そんなにも大事か!?」
「大事よ、大事に決まってるじゃない!」
「私はそうは思わぬ。真に大事なことは、あの少女を無駄死にさせないことではないのか」
「初めから無駄死にじゃないでしょ。アンタは生きてる。ララのおかげで」
「それはそうだが、そうではない。あの子が私を助けたのは、自らの骸を前に嘆き悲しませるためではないはずだ」
ミルフィの後ろで、ルルが、「骸…」と呟くのが聞こえる。それでいっそう、自分の襟首を掴み上げるミルフィの腕に力が入った。
「それが、ララの犠牲を悼まないで済む理由になるって言うつもり…!?」
そのうち、燐子は、何度も同じ話をループしているような気がして、唇を噛んだ。
どこまでも闇が続く、長い坑道を抜けるようなものだ。ちょうど、シュレトールの坑道みたいな。
「だから、そうではない!それよりも優先するべきことが、成さねばならぬことがあると言っているのだ!」
「優先するべきことって…、よくも、ルルやララの前でそんなことが言えたわね!」
息が出来なくなるくらい、ぎゅっと締め上げられる。それでとうとう、燐子も猛る憤りが抑えきれなくなった。
「いい加減にしろ、ミルフィ!」
彼女の両腕の内側から、自分の腕を入れて振りほどく。組み手は得意ではないが、素人相手ならこのくらい造作もない。
互いに肩で激しく呼吸をしながら、見つめ合う。
信頼と怒りの狭間でたゆたう想いが、二人の瞳にはっきりと浮かんだ。
「よく見ろ!」鋭い口調で叫び、蹲るルルのほうを指差した。「もう、あれはララではない」
一瞬のうちに、ミルフィの顔から血の気が引いていく。硬直する使用人たちのそばに立っていた二人の王女が、慌ててこちらに向かっているのが見えるも、口は止まらなかった。
「ただの――肉と骨の塊だ。魂など、あそこにはない」
「り、燐子さんッ!」
燐子の名前を怒鳴りつけるように呼びながら、セレーネが駆け寄ってくる。アストレアも、それに続いた。
刹那、発した言葉の白刃が閃き、ミルフィの心を斬りつけたことを悟った。いつも強気な彼女が、膝から崩れ落ち、ぺたりと芝生の上に座り込んだからだ。
ぽろぽろと零れる涙の雫を見て、セレーネが慌てて彼女のそばに屈み込んだ。
嗚咽混じりに紡がれる私の名前が、酷く恐ろしいもののように感じたのは、何故だろう。
気付けば、使用人たちも泣いていた。それどころか、セレーネも薄っすらと涙を浮かべている。
泣いていないのは、自分とアストレアぐらいのものだ。だが、アストレアの瞳もどこか潤んでいるように見えた。
私だけが、同じではなかった。
彼女らと同じものには、なれなかった。
――私たちは同じだね。
虚無の彼方から、とろけるように甘い少女の声が聞こえた気がした。
「行って」ぼそり、とミルフィが曖昧な滑舌で言った。「み、ミルフィ、私は――」
「どこへなりと、消えなさいよっ!」
俯いたままでそう怒鳴った彼女の声に、私は、言葉の全てを失った。
「すみません…、私の力が、足りないばかりに…」ぼそり、とセレーネがそう呟いたのを聞いて、アストレアがそばで肩を抱いた。「セレーネのせいじゃない。お前の力だって、万能じゃないんだ…」
逃げるように、私の体が彼女らに背を向けた。そんな私に、アストレアが失望に満ちた暗い声で告げる。
「やはり、お前は剣鬼だ。いや…、もはや、修羅と言ったほうがいいのかもしれないな」
「ミルフィを…、彼女らを、頼む」肯定が否定か、アストレアは燐子の言葉を耳にして、目を閉じた。「…御免」
燐子は、そのまま振り向くことなく駆け出した。
目指すは港。
隣に誰もいなかったが、もう、それでいいような気さえしていた。
修羅の道を行くのは、自分独りのほうがいいと考えたのだ。
優しい女の居場所は、修羅の隣ではないのだ、と。
明日、三部最後のアップとなります。
いつもの時間に上げますので、そちらもよろしくお願いします!