二人の王女
王女の秘密、お気づきの方もいらっしゃったかもしれません。
相手のためを思って離れても、結局は忘れられない人…。
みなさんにはいらっしゃいますでしょうか?
何はともあれ、お楽しみください。
自分を呼ぶ声がして、セレーネは弾かれるように地上を見やった。
眼下に見えるアストレアの顔は、自分が想像していた以上に必死そうで、どこか顔色も悪く見えた。ただ、彼の白銀の頭髪だけは、赤光を浴びて美しく輝いている。
「セレーネ!下りて来るんだ!」
もう一度、高い声でアストレアが自分の名を呼んだ。
(まるで、あの頃みたいだわ)
悠長に過去を思い出している場合ではないことぐらい分かっているのに、かつて、アストレアと共に過ごした幼い頃の記憶が蘇る。
こっそりと下町に出かけた、春の真昼。
清冽な水が流れる川の畔で遊んだ、夏の日暮れ。
積み重なった落ち葉を蹴飛ばして歩いた、秋の早朝。
皆が寝静まった頃に星月を見上げた、真冬の深夜。
春夏秋冬、私はアストレアと共にあった。
ヘリオスは、昔からローザと仲が良く、自分やアストレアと親交がなかったこともあって、家族の中では、二人だけがまともな絆で結ばれていた。
幸せだった。あの頃は、確かに満ち足りていた。
美しくも脆い、ガラスの破片のような思い出たちを胸に、セレーネは上体を起こす。橙色の表皮を持つ羽の生えた怪物が、再び、自分と愛馬リリーの前をかすめたからだ。
(あの人のおかげで、私は幸せだった。でも、それを壊したのも、間違いなくあの人)
下から呼びかけるアストレアの声を無視して、セレーネは宙を駆けた。
怪物と天馬では、力比べならば分が悪いが、速度なら天馬が圧勝だ。
こちらから敵に接近し、槍を振るう。
疾風のように空を薙いだ穂先は、怪物の左脇腹を抉り、鮮血を地上に雨の如くまき散らした。
天馬に声をかけ、大きく旋回する。目まぐるしく変わる景色の中で、リリーの首筋だけが不変だった。
体勢を崩した怪物の背中を捉える。よたよたと飛んでいることから、かなりの深手を負わせられたらしい。
一気に接近し、後ろから翼膜を破ろうとするも、途端に向きを変えた尻尾の動きに驚かされ、セレーネの攻撃は空を切った。
「くっ…」今度は、自分が背後につかれる。
後ろから聞こえてくる獰猛な唸り声に、ぞわりと肌が粟立つも、冷静に天馬を操作し、急降下した。
遅れてついて来た怪物を振り切り、側面に回る。相変わらず、覚束ない飛び方だった。
腹目掛けて、そのまま一突きしようと、セレーネは槍を構えた。ところが、突然、自分の下のほうから、もう一頭同じ怪物が現れた。
「もう一匹いたの…!?」
驚きの声を上げたセレーネは、数秒の逡巡の後、天馬を加速させて、予定通り、傷を負ったほうに槍を突き立てた。
セレーネは、つんざく悲鳴を追い越すようにまた加速した後、もう一体の敵とすれ違うようにしてその場を離脱しようとした。
しかし、想像していたよりも相手の体が大きかったのか、天馬と怪物はわずかに衝突し、大きくバランスが崩れる。
「きゃっ」
ぐるん、と天馬の体が回転する。
鞍にしがみついて振り落とされまいとするが、素早く体勢を立て直した怪物が接近してきており、その狡猾さを体現したような細く鋭い爪で、天馬の脇腹を引っ掻いた。
その衝撃で、鞍から落ちかけ、宙に投げ出されそうになるも、必死の思いでしがみついた。ただ、傷が深かったのか、天馬は下手くそな紙飛行機のような軌道で地面に近付いたかと思うと、やがて、城壁にぶつかってしまった。
衝突の拍子に、とうとうセレーネの体が宙へと投げ出され、地面に叩きつけられた。
幸い、高さはさほどのものではなかったため、命に関わるような怪我は負わなかったが、息ができなくなるくらいには、体が悲鳴を上げていた。
苦悶に喘ぎながら、急いで起き上がろうとしたそのとき、茜色の光を遮るようにして飛んできた影が、自分の体を覆った。
顔を上げれば、上空から真っ直ぐ降下してくる怪物の姿があった。爪を剥き出しにして、今にも哀れな人間を掴み殺さんとしている。
――逃げないと。
体に力を込めるも、いつもと違って反応が悪い。どうやら、捻挫してしまったようだ。立ち上がりかけて、また崩れ落ちる。
癒やしの力を使うか、とも思ったが…。
(駄目、足りない…!)
せめて、抵抗する手段を、と思って槍を探すが、落下の衝撃で遠くに転がってしまっている。
考える間もなく、怪物が襲い掛かってくる。
悲鳴を上げる暇もなかった。
ところが、セレーネの肉体をかき切る爪は、彼女に触れることはなかった。
ふわり、と体が浮いた。
香る甘い花のような匂いに、自分が『彼女』に抱きかかえられていることを直感する。
視界の中に、ところどころ赤くなった銀糸が舞う。扇のように広まった糸は、そのままゆっくりと重力に引かれ、パサリと垂れる。
怪物の忌々しそうな唸り声を聞きながら、ぎゅっと、セレーネは『彼女』の肩を握りしめ、絞り出すような声で叫んだ。
「どうしてっ、私を助けるの!」
「姉が…妹を助けて、何が悪い」
その言葉を聞いて、セレーネは途端に大粒の涙を浮かべる。
「今さら、家族ぶったりしないでよぉ!」
痛烈な指摘を受けても、『彼女』は何も言い返したりはしなかった。ゆっくり怪物から距離を離すと、安全な場所で王女を下ろした。
ふらつきながらも、なんとか両足で立ったセレーネをじっと見つめた『彼女』は、無言のままでくるりと体の向きを反転し、背中を向けた。
するりと両手を伸ばし、『彼女』は襟の中に押し込んでいた長い銀髪を引き出すと、軽く首を振った。
銀の竪琴のようなロングヘアを空気に晒した彼女――アストレアは、背中を血で赤く滲ませた姿で、ぼそりと呟く。
「すまない。セレーネ」カチリ、と鯉口をわずかに切る。
真っ直ぐ、羽付きの怪物が飛来する。
翼を広げれば、およそ2、3mはありそうな怪物は、あっという間に間合いを詰めてきた。
アストレアは、危険が迫っているというのにまるで微動だにしない。
「お、お姉ちゃん!」不安になって、セレーネが叫ぶ。
怪物とアストレア、二つの影が一つに重なろうという刹那、目にも留まらぬ銀閃が二度煌めいた。
セレーネの目では、何が起こったのかまるで分からなかった。分からないままに、怪物が両断され、血しぶきを上げているようにしか見えなかったのだ。
もちろん、無理もないことだった。動体視力が人並み外れている燐子でさえ、目で追えないのだから。
アストレアが放った居合は、抜き打ちの時点で、怪物の胸部から首筋にかけて致命傷を負わせ、相手の勢いを殺していた。
そのまま流れるような――おそらく、幾度も、幾度も繰り返し鍛錬したであろう動きで、二の太刀が袈裟斬りに繰り出されると、怪物は、右翼を体から切り離されて絶命したのだ。
燐子がその場にいたら、思わず感嘆の息を漏らしたであろう剣閃を振るったアストレアは、髪についた血を払うように首を振り、それから、血振るいをして、剣に付着した怪物の血液を弾き飛ばした。
高い金属音を奏で、剣があるべき場所に戻った後、アストレアは、王子としてではなく、王女として再びセレーネの前に立った。
何かを言いかけて、また口をつぐむ。傲岸不遜な様子を見せていた王子アストレアとは、まるで違う、年相応の躊躇を抱え、彼女はセレーネの言葉を待つように沈黙した。
それがセレーネにも分かったのだろう、キッ、と涙に濡れた力強い瞳を輝かせたかと思うと、ハッキリとした口調で言い切る。
「私からの言葉を待っているのであれば、無駄です」
「…そう、か」
そう伝えても黙っているアストレアに痺れを切らし、セレーネは唇を震わせて言った。
「お姉ちゃ――お姉様は、あの日、お姉様自身の手で自分を殺したではないですか。『さよなら、達者で』と言って、私の制止を振り切ったのは、貴方です」
「…ああ」
「私は、何年も待ちました。幼少の私は、死ぬほど長い時を待ったんです…」
「…」
「それなのに、お姉様は帰って来なかった!私と国を捨てて、どこかへ行ってしまったんです!」
「捨てたつもりは――」
「捨てましたッ!」
アストレアが言葉を挟もうとした瞬間、すかさずセレーネがそれを遮る。ヒステリーを起こしている、と自覚できたのだが、止めることまではできなかった。
「ろくに説明もしないで、貴方はこの城を、この国を出て行った!どうして…どうして、私を置いて行ったの…?」
とうとう涙が滝のようになって流れ出したセレーネの頬を、アストレアの白魚のような指先がなぞった。
アストレアの指先を厭うように、セレーネが顔を背ける。それを見て、彼女もハッと表情を曇らせた。
「セレーネ…」
嵐にでも遭ったみたいな、際限ない悲しみを瞳に宿して、アストレアが妹の名を呟く。
その声を聞いて、セレーネもぴくりと体を揺らした。
幾ばくかの沈黙の後、おそるおそる、といった様相でセレーネが顔を上げた。
言葉はなかった。
ただ、濡れた瞳の奥に映ったいじらしさが、アストレアの心を突き動かした。
ぎゅっと、強く、妹を抱きしめる。自分と同じくらい華奢なセレーネの肉体を。
「お前を忘れたことなんて、なかったんだ」
どれだけ抱きしめても、一つにはなれないもどかしさを払うように、あるいは、極寒の寒さに耐えるため、温もりを求めるように…。
「…嘘よ」
「本当だ。嘘なんかじゃない」
「そんなの、信じません」
手をアストレアの背に回しながら、セレーネが言う。言葉とは裏腹に、彼女の顔には安らぎが芽生えている。
「セレーネ…、お前に逢いたかった」
亡国の危機だというのに、二人は完全に混沌とした現状も忘れ、ただ二人の本当の再開を祝していた。
流れる時すらも、凍り付けばいいと思うほどに、この時を噛み締めていた。
――あの雨の日に失ったものが、再び今、私の手の中にある。
そんな彼女らに水を差す、もとい、現実に引き戻す声が響く。
「…これは驚いたな」
振り向けば、そこには燐子とミルフィが立っていた。
ミルフィは頬を朱に染めて、見てはならないものを見てしまったと言わんばかりに、燐子の陰に隠れた。それでもやはり気になるのか、顔を半分だけ出して、こちらを観察していた。
本日は2回アップする予定です。
2回目はいつもどおり、19時以降にアップします!
個人的には、男装女子もアリだと思っています…。