異変
いつもより更新が少し遅れてしまい、申し訳ありません。
今回は短く、ミルフィ視点になっております。
上の階から、凄まじい熱狂に満ちた歓声が聞こえてくる。
それを聞いていると、自分が今、一体何をしているのかとため息を吐きたくなるが、大きく息を吸い込んで、気合を入れ直す。
油断していて獲物に逃げられては、目も当てられない。燐子の試合を見逃すという対価を払ってまでこんなことをしているのだ、無駄にはしたくない。
――しかし…。
(どうして、私がこんなことを…)
ミルフィは、自分の前を気怠げに歩いている男の背中を、角から身を乗り出し確認した。
わざとらしくフラフラと歩くその人物は、第二王子ヘリオスだ。
燐子とアストレアの戦いの直前、ミルフィはセレーネに頼まれて、ヘリオスの監視をしていた。
大事な一戦を見逃すなど冗談じゃないと思ったが、セレーネがやけに一生懸命頼み込んでくるものだから、渋々引き受けたというわけだ。
それに、この竜王祭において、自分だけが役に立っていないことも、未だに気になっていた。
ヘリオスは先程、王族専用の観覧席に入っていったかと思うと、すぐに鼻歌を歌いながら出てきた。その後を尾行しているわけだが、彼は十分ほどの間ずっと建物の中をぐるぐるしている。片手には、グラスが二つとボトルワインが一本握られている。
初めのうちは、怪しい行動も見せないし、誰とも会う気配はなかったので、本当に無意味なことをしているものだと思ったが、時間が経てば経つほど、ミルフィの眉間には皺が寄っていった。
リングでは、この国の行く末を決める試合が行われているというのに、ヘリオスは一体何のためにふらふらしているのか。
それ以上に、何か大事なことがあるというのであれば、それは余程のことなのだろう。
「…王族ってのは、みんな変人しかいないのかしら」
これで燐子も王族であれば、この持論は正しいと胸を張れるのだが、彼女は元の世界でもしがない傭兵だったらしいため、私の決めつけに過ぎない。
事態が動いたのは、それから数分ほどしてからだった。会場のほうでは雌雄が決したのか、歓声が大きくなっていた。
一人の女性が、ベンチの前をうろうろしていたヘリオスに声をかけた。距離的に顔までは見えないが、雰囲気からしてヘリオスの取り巻きをしていた女性のようだ。
ふにゃふにゃとした不思議な動きで彼と話をしている女性は、何を言われたのか大笑いしていた。この位置までは、会話の内容は聞こえてこない。
二人はベンチに腰を下ろし、しばらく他愛のない会話をしているように見えたが、やがてヘリオスはグラスにワインを注ぎ始め、女性に対し、一緒にどうかと勧めているようだった。
こんなところで昼酒か…。何かを祝っている?記念?とにかく、まともな行為のようには思えない。少なくとも彼は王位決定戦に敗れたのだから。
喜んでグラスを握った彼女は、ヘリオスのグラスと打ち合わせて音を鳴らすと、一気に赤い液体を飲み干した。
同じように液体を嚥下したヘリオスは、ゆっくりとグラス片手に立ち上がり、女性のほうを振り返ったのだが、それから何か彼女に言い放つと、持っていたグラスを女に投げつけた。
「ちょっと…」と思わず声が漏れたミルフィだったが、直後、女性を襲った異変に戦慄することとなった。
自分の体を掻き抱くようにして蹲り、わなわなと震えていた女性は、さらにいっそう激しく体を揺らし始めたかと思うと、床の上をのたうちまわった。
目の前の異常事態に、傍観している場合ではないと判断したミルフィは、大急ぎで彼らの元へ走り寄った。それから、自分のほうを驚くこともなく一瞥したヘリオスを睨みつけた。
「ヘリオス!何をしたの!」その場に蹲っている女性に近寄る。「その女に触らないほうがいい。どうなるか分からないぜ」
「ど、どういう…」
困惑した表情を浮かべて尋ねたミルフィを、ぐっとヘリオスが引っ張り、立ち上がらせた。触れられたことに驚きと、かすかな怒りが生まれたが、直後、女性が絶叫して身を捻ったことでそれどころではなくなった。
「何が起こってるの…?」
「よく見てな、ミルフィちゃん」とても冷ややかな口調だった。「こいつが、俺の大嫌いな世界を壊してくれる」
柔らかそうな女性の体が突然膨れ上がり、硬い外皮のようなものに変貌していく。そればかりか、白い骨が全身を突き破って、みるみるうちに太く、鋭くなっていた。
化け物だ、とミルフィは思った。呟いていたかもしれない。
元が人だったとは考えられないほど肥大化した体躯は、以前燐子が仕留めた大トカゲに近いサイズ感で、ぞっとするほどの鱗に覆われ始めていた。
歌うような高い呻き声を聞いたミルフィは、二、三歩後退しながら、無意識のうちにロングボウに手を掛けた。
感情の死んだような目で怪物を見ていたヘリオスは、失望したようにため息を漏らすと、り言のように声を発する。
「おいおい、随分と弱っちそうだな。所詮は試作品ってことか?」
「アンタ、アンタがこう変えたの…?な、仲間でしょ、いや、そういう問題ですらないわ、これじゃ…これじゃあ、もう…」
「…こいつらみたいに、全身欲塗れの人間には相応しい末路だ」
「ヘリオス!」
「はっ、最後ぐらいは、せいぜい役に立ってもらうさ」
ヘリオスは心底忌々しそうに吐き捨てると、ミルフィが来た方向とは逆の通路へと歩き出した。
この災厄の落とし子を放置したまま、闇の中に消えようという無責任な男の背中に大声でぶつける。
「待ちなさいよ!」
そのまま彼の背中を追おうかとも思ったが、そうはいかなくなった。
今やただのトカゲの化け物となった女が、両側の壁にぶつかりながら、会場の中心を目掛けて突き進み出したのだ。
怪物が衝突した拍子に、壁が崩れ、建物全体が揺れているような気がする。
予想していたよりもずっと速い動きで前進を続ける怪物に焦りながらも、ミルフィは弓を構えた。
止めなければ、あれは絶対に危険だ。猟師としての勘が言っている。
矢を番え、引き絞る。
風泣きのような音とともに、一気に距離が離れていくトカゲの背中に狙いを絞る。
ぴたり、と照準が定まる。
指を離せば、矢は真っすぐアイツへと向かい、貫くだろう。
しかし、それが分かっていても、ミルフィは依然として矢を番えたまま動けなかった。
彼女の背中に、首筋に、冷や汗が流れる。
…撃つのか、人を。
どれだけ危険な化け物になっても、あれも元は人間、しかも、自ら望んでああなったわけではない。
ここで兵士でもない彼女を殺したら、それはただの『人殺し』ではないのか。
ドン、と一際鈍い衝撃を生じながら、突き当りの壁にトカゲがぶつかる。
ぱらぱらと小石か砂を散らした壁には、大きなひび割れが入っていた。
あの向こうは、試合会場のはずだ。
ミルフィの脳裏に、燐子の姿が浮かぶ。同時に、多くの観客たちの姿も。
ゆっくりと細められた彼女の瞳に、きらりと紅蓮の炎が灯った。
怪物は緩慢な動きで頭を左右に振ると、少しばかり後退し、再び壁のほうを目掛けて前進を開始する。
呼吸を止め、指先から力を抜いた。
「――…ごめん」
呟きが先か、矢が先か。
放たれた鋭い一撃は、怪物がその巨体で壁を叩き割るのと同時に、その背中に深々と突き刺さった。