ミルフィのご飯
私が切腹を申し出てから、数日が経った。
いつまで経っても腹を括らないドリトンに嫌気が差したが、やはり背に腹は代えられない。後始末もなく、そこいらの野ネズミや野犬に辱めを受けるのは死んでもご免である。
そこでの生活は、皮肉なことに、こちらへ来る前となんら変わらないものであった。
朝早くに目を覚まし、日が昇る前から刀を振る。
日が昇ってからは、ドリトンの手伝いをする。
望んでなったわけではないが、居候の身である。
毎日美味い飯を準備してもらい、寝床を用意してもらっている以上、何らかの形で恩に報いらなければ武士の名折れ。
そうして武士や、侍のいない世界でも、それらに縋っている自分が哀れでもあるが、少しばかり誇らしくもあった。
ドリトンの手伝いと言っても、薪を割ったり、水を汲んだり、他の村人のところに届け物を運ぶくらいのものである。
そうしてあちこち歩き回っているうちに、次第にこの村のこと、そしてここに住む者たちのことが分かり始めた。
まず、若い男がいない。
これに関しては、徴兵でほとんどの者が兵役に出ているのだそうだ。
ここから相当離れた場所にある王国という国がこの土地の所有者らしく、他の国との戦争に若者が駆り出されているとのこと。
ただし、だからといって皆が前線で戦っているというわけではなく、多くが作業や工事に勤しんでいるようだ。
まあそれも当然だ、まともな訓練も積んでいない人間が、戦闘のプロ集団と戦えるはずもない。
次に、この世界での武装集団のことだ。
国家公認の武装集団、つまりは武家のようなものがあって、それは騎士団だとか何だとか呼ばれていたのだが、侍の代わりにこの世を席巻する紛い物の話は聞くに堪えず、適当に受け流したため、知識は曖昧だった。
世界が変わっても、人間は争うばかりか、と何だか燐子は嬉しくなった。
確かに紛い物集団のことは反吐が出るほど忌々しかったが、それでも二つの世界の共通点を見出すことができたのはどことなく安心する。
人間の根本が同じものならば、割腹に関しても、そう遠くないうちにドリトンも納得するだろう。
木材でできた階段を数段上がって、玄関をくぐる。両手に担いだバケツの中の水が静かに揺れている。
リビングに入る前に、廊下でドリトンと出くわして声をかけられた。
「おお、いつもありがとう。助かっとるよ、燐子さん」
「この程度で大げさです。水はいつもの場所で?」
懇切丁寧な礼を口にしたドリトンに首を振って答えた燐子は、水の置き場所を尋ねたのだが、彼が何かを答える前にちらりとリビングの奥に視線をやったので、燐子は内心渋面を作りながら、無言で頷いて見せる。
ドリトンは苦笑を浮かべて謝ったのだが、何も彼が謝ることではない、と燐子はまた首を振った。
彼の視線の先に足を運ぶと、そこには慌ただしく料理を作っているミルフィの姿があった。
赤い三編みを左右に揺らして野ネズミのように俊敏に駆け回る彼女に、どんなタイミングで声をかけるべきか悩んだのだが、先に彼女のほうから声が上がった。
「お祖父ちゃん、お水まだ?」
「…持ってきたぞ」
燐子の気配を祖父のものだと誤解していたミルフィは、その未だ聞きなれぬ声に飛び上がるようにして振り返ったのだが、声の主が彼女だと知るや否や、舌打ちをしてまた正面を向いた。
あの日以降まともに燐子と口を利く気がないらしい彼女は、自分はおろかエミリオにまで燐子と口を利くことに禁止令を出しているようであった。
もちろんあの優しい少年は、隙を見てこっそりと燐子に話しかけるのだが、バレたときは鉄拳制裁を受けていた。
それについて誰が諫めようが咎めようが、「私はエミリオの姉よ」の一点張りである。まさに暴君である。
時折こうしてミルフィの元に、水や道具を届けなければならないことがあるのだが、彼女は往々にして親の仇のような扱いをしてくる。
初めのうちは文句をつけていたのだが、何を言っても無視されるため、こちらも諦めている。
どうせ今日もそうだろうと思って、さっさと退出しようと考えていたら、思わぬことにミルフィのほうから声をかけられた。
「まだ死にたいの、アンタ」
どう答えたって、彼女が満足する答えは返ってこないというのに、何のためにこのような質問をするのかが理解できない。
世界の隔たりがこの数日で埋まるとは思えない、と頭の中で考えた瞬間、それはドリトンに関してもそうだ、と思い至り胸が重くなる。
彼女が納得しないのを分かっていたが、短くその質問に肯定する。
それを受けてミルフィはわざとらしく深いため息を吐いたので、互いに不快な思いをするだけではないかと馬鹿馬鹿しくなった。
ミルフィは竈に火を点けると、ちらりとこちらを一瞥した後、また大きなため息を吐いて、点けたばかりの火を消した。
それから体に巻いていたエプロンを脱いで乱暴に机の上に投げると、こちらを睨みつけた。
そんな意味不明な行動を見つめていた燐子は、真っ向から彼女の視線とぶつかった。
「私がアンタなんかにわざわざご飯を作っているのは、何でだと思う?」
「ついでだろう」
「ええ、ええそうよ、ついでよ。でもそれだけじゃないわ」
「アンタには分からないだろうけれどね、毎日ご飯を作るのって、凄く大変なのよ?そんな面倒を、一人分多くやってるのは何故だと思うの」
そんな想像のしようもない質問をするな、と文句を言いたくなったが、思いのほか、彼女の赤みがかった瞳が真剣な色に染まっていたので、燐子は無言で首を左右に振った。
それを確認したミルフィは、点けた瞬間に消されて、苛立ちに燻った竈が残した煙に目を細めてきっぱりと断言した。
「アンタがまだ生きてるからよ」
「…それはそうだろう」
だから死のうとしているのだ、と口にしかけたところで、彼女は燐子を凝視して口を開いた。
「私とエミリオの父は、気がついたら兵役で死んでたわ」
彼女が砥いでいたのか、砥石と包丁が洗い場の端に並べて置いてあった。
どちらもほとんど擦り切れていて、もうどちらでどちらを研磨しているのか分からないぐらいであった。
燐子は、彼女の真剣な瞳に射抜かれながらも、そういえばミルフィの持っていたナイフはよく手入れがしてあったな、などと関係のないことを漠然と考えていた。
「名前を聞いたってピンとこない、この世の果てみたいな土地でね」
私からしたら、この世界の全域がそうだ。どこもかしこも、この世の果てだ。
ミルフィの話を聞けば聞くほど違うことを考えたくなるのは、自分が何か恐ろしいものから逃げ出したいからなのだろうか、それとも、異界の住人の身の上話など、知りたくもないと心が拒絶しているのだろうか。
燐子の視線を追ったのか、ミルフィは流し場のボロボロの包丁と砥石に目を向けた。
そして忌々しげにそれらを掴むと、台の下の戸棚に投げ込むように片付けた。
「私たちの母親は、まだエミリオが小さい頃にどっかの流れ者の男と駆け落ちしたわ」投げ込まれた包丁たちが中で崩れる音がする。「私たちを捨ててね」
争いや邪な恋情が二人から両親を奪い去ったのか。
しかし、そういうものだ。
不幸な身の上話など、戦乱の世と人間の情の最中にあっては、掃いて捨てるほどある話だ。
私だって、戦って、戦って、戦った。
父も斬った、母は短命でよく覚えていないうちに死んだ。
腹違いの兄弟たちだってとっくの昔に墓石の下だ。
その中の何人かは私が殺した。
それが戦国の世だ。
あるいは、人間の世だ。
世界を隔ててもそれが変わらないのであれば、その事実は、真実と呼んで然るべきであろう。
「この近くでだって、争いは起きる」
私はそれが当然だった。
その中で生きてきたのだから。
「私もエミリオも、お祖父ちゃんも、いつ死んだっておかしくない」
そんなことを、偉そうに私に語るな。
血飛沫と、怒号と悲鳴が飛び交う戦場を知らぬ、ただの村娘風情が。
「でも、今日も、明日もご飯を食べるのよ。死なない限りずっとね」
なのに、何故彼女の言葉がこうも熱く感じるのだろうか。
「何故か分かる?」
「まだ、生きているからか」
「ええ、そう。明日も、明後日もしっかり生きるためには、まず食べなくちゃいけないから」
あぁ、そうか。
彼女はきっと私と変わらないくらいの年齢だ。
形や身分は違えども、彼女もまた戦っている。
何と戦っているのだろうか。
「私は、時代に殺されるのも、誰かの都合に振り回されるのも、まっぴら御免なの」
それを耳にしたとき、燐子は思わず口元を綻ばせた。
時代と来たか、なるほど、それは随分と負け戦に励むことだ。
全くもって阿呆らしい。世間知らずの村娘らしい。
「とにかく、これだけは伝えとく」とミルフィは燐子を指差して前置きした。
燐子も素早く薄ら笑いを引っ込めて、淡々とした無感情な顔つきに戻っていた。
「私に、アンタが死ぬためのご飯を作らせないで」