星月すらも追いつけない貴方
決勝前夜の、最後のひとときです。
のんびりとした描写も、この章では最後になるかもしれません…。
二人で並んで歩く夜の回廊は、夏の夜気に飲み込まれたかのような静謐に満ちていた。
見張りの兵隊こそいるものの、彼らもこの静けさの価値を知っているのか、とても寡黙だ。
そして、その静けさは、燐子とミルフィの仮住まいに近づけば近づくほど、より顕著になっていった。
月の明かりに体の下半分ほどを照らされたまま、燐子たちは石畳の床から、整地された土の上へと足の踏み場を移動させた。
左奥には王女の私室から見えた庭園が広がっている。行ってみたいと思っていたが、中々そのタイミングもなかった。
(いつまでこの国にいるのかは分からんが、竜王祭が終わってからでも、時間はまだ十分あるだろう。そのときにでも行くとするか)
そう燐子が考えていた矢先、右隣を歩いていたミルフィが足を止めた。それに従うようにして燐子も足を止めると、ミルフィが視線を庭園があるほうに向けたまま言った。
「ねえ、あっち行ってみない?」
あっちとは、彼女の視線から察するに庭園のことだろう。
数十秒前まで自分も庭園のことについて考えていた燐子は、彼女と同じ気持ちになれたようで少し嬉しかった。
「構わないが、今でなくとも良いだろう?竜王祭が終わってからでも別に――」
言葉を口にしている途中で、ミルフィの面持ちが残念そうな色に変わっていくのが分かった。
それを見た燐子は言葉を濁すように唸ると、「そうだな、確かにまだ眠くない」と呟いた。
直後、表情が明るくなったミルフィに、燐子はどこか満たされるような心地になる。
(やはり、私の胸を温かくするこの想いが、『人を好きになる』ということなのだろうか。だとすれば、どうしてこんなにも素晴らしい温みを知らずに、私は生きてきたのだろう…。ふ、この世界で学ぶことは、本当に多い)
ミルフィがお礼の言葉を口にするのを軽く相槌を打って返すと、足を庭園のほうへと向ける。
それほど歩かないうちに、庭園の門が見えた。
美しい木々と花々で出来た場所を囲む柵の中心に扉がある。黒い鉄の柵だったが、侵入防止のためか柵の先端は尖っていた。だが、これで何が防げるのかも怪しい。
門には鍵が掛かっておらず、誰でも通れるようになっていた。だとすれば、どうしてこのような門を作ったのか。
扉を開け、中へと入る。
中には色とりどりの花が咲いているが、そのどれもが見覚えがなく、あっても、よくよく観察してみると微妙に違うものだったりした。
実際、上機嫌に歩き回るミルフィが花の名前を何度か口にしていたが、どれも聞いたことがなかった。まあ、花の名前など元々たいして知らないのだが。
「わぁ、素敵な場所。ね、燐子」
「ああ。月の光が染み込んだような場所だ」
「え?ふふ、うん、そう。とっても静かで…カランツを思い出すわ」
「寂しいか」燐子が目を細めて問う。「故郷から、遠く離れてしまって」
「少しね。でも、私はいつでも戻れるんだから、燐子ほどツラくないわよ」
「…すまん。そういうつもりで言ったわけではないのだ」
「ふふん、こっちだって、そんな気ないわ。故郷から離れたって、独りじゃないもの。それに…今はもう、燐子だって独りじゃないでしょ?」
気恥ずかしくなるような言葉に、二人ははにかんで頷き合う。声を発すると、余計な強がりを口にしそうだったので、これで良いと思った。
月の青白さと闇の黒に照らされ、花の形が浮かび上がっている。そのどれもが自らの彩りを失わずに天を見上げている。
舗装された道の上をゆっくりと歩く燐子の前を、ミルフィがくるくる回りながら進んでいく。その自然な笑顔に、自分の口元も綻ぶ。
庭園の一番奥には、いくつかのベンチが置いてあった。彼女を置いて一人ベンチに座る。
(夜の庭園は彼女の目にはどう映っているのだろうか。きっと、私が見ているものよりも、もっと美しく見えているに違いない)
そうして月を見上げているうちに、ひとしきり楽しんだ様子のミルフィがご機嫌な笑顔を浮かべて戻ってくる。
「燐子は花にあんまり興味ないの?」燐子の隣に腰を下ろす。「嫌いではないが…私はあっちを見ているほうが好きだな」
そう言って燐子は頭上を見上げる。それにつられるようにしてミルフィも視線を上げた。
満点の星空、美しい瑠璃色の雲、そして、寡黙な月。
地表は暗くても、空は明るい。
輝きは、見えないときも必ずそこにある。
ミルフィは興味深そうに長く息を吐くと、燐子と同じようにベンチに腰掛けた。拳二つ分ほどの隙間がもどかしい。
しばらく、互いに無言の時間が流れた。
月に煙のような薄い雲がかかったところで、ミルフィが改まった様子で足を揃えた。それから歯切れ悪く、「あー」だの「うー」だの口にしてから本題に入った。
「ありがとね、色々」
「な、何だ、急に…。別に、私は何も」
「セレーネ様に聞いたのよ、私と喧嘩したとき、色々と頑張ってくれたんでしょう?」
「なに?」
「仲直りするために美味しい喫茶店探したり、色んな人の気持ちを分かるように努力したり…」
そこまで言われて、セレーネが余計なことを口添えしたことを悟った。しかも、かなりの脚色が加えられているようだ。
「それは、何というか…」
「いや、いいのよ。何も言わなくて…そのほうが――」こてんと、彼女の頭が燐子の肩にもたれかかった。「燐子らしいから」
伏せられた目蓋に乗ったまつ毛が、つややかな輝きを宿している。燐子が言葉を失っているうちに、臙脂色の瞳が月の光を吸収してキラキラと瞬いた。
美しい、と燐子は思った。
星も、月も、この輝きには敵わない。
――…そして、触れたいとも思う。
それは、流れ星みたいな一瞬の煌めきにも見え、掴まえておかなければ、触れておかなければ、夢のように消えてしまいそうで…。
心に従い、ミルフィの頬に手を伸ばす。いざ触れてみると、夢などではなく、確かにここに彼女がいることが分かった。
くすぐったそうに目を細めるミルフィは、燐子の手に頬を寄せてはにかんだが、こちらが身を近づけるとやんわりと片手でそれを制した。
「だーめ。全部が終わったら、でしょ?」
「…そんなこと言ったか?」言った気がするが、覚えていないフリをしてしまった。情けのない自分が少し恥ずかしくなる。「言ったわよ、とにかく駄目」
ビシッと断言されて、燐子は肩を落とした。それからになって、自分が何をしようとしていたのかが分かってきて、強い羞恥心に襲われる。
照れ隠しのように頭の後ろをかいていると、急にミルフィの良い香りが強くなった。
それから、一瞬だけ頬に何か柔らかいものが触れて、離れていく。
何が起きたのかを頭が理解できる前に、バッと素早く立ち上がったミルフィが、背中を向けたまま早口で告げる。
「明日負けたら、承知しないんだから…」
くるり、と首だけで燐子を振り向いた彼女の頬は、紅葉を散らしたように赤かった。きっと、自分の頬も同じような色で染まっていることだろう。
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