約束
約束、という響き、私は好きです。
重いと感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、
一種の契約のようなものは、人と人との信頼を深めるのではと思うのです。
まぁ、もちろんそれも、守られればの話ですが。
さて、大事な『約束』、みなさんにはありますか?
燐子は、ぐるりと円を描くように設えられた観客席を下から眺め、どうして人間は何かを観賞するのが好きなのだろうと不思議に思いながら、控え室のほうへと踵を返した。
控え室は観客席の真下を抉るように作られており、窓枠だけのような穴から直接試合場が見えるようになっていた。
燐子は、以前、父が連れて行ってくれた京の有名な庭園を思い出していた。
戦いには何の役にも立たないことだったからだろうか、今の今まで自分にそんな経験があったことを忘れてしまっていた。
侘び寂びが何だ、芸術が何だ、というのは到底自分には理解のしようのないことだった。
父が自分のためにしてくれたことの中で、お見合いの次に意味を感じられなかったのが、この芸術に関するものである。
まあ、お見合いに関しては、一度か二度相手を叩きのめしたら、父も二度と次の男を連れて来なくなった。
当然、理由もなくそのような目に遭わせたわけではない。
一度目は私の許可もなく、私に触れようとしたから太刀の峰で滅多打ちにした。
二度目は、私から剣と戦いを奪おうとしたから鞘で滅多打ちにした。
どちらにせよ、私に触れかけた腕を切り落とされることもなかったし、私の戦いを下らない男の真似事とほざいた口が、二度と利けぬようになったわけではなかったのだから、むしろ、寛大だと感謝してほしいものである。
王族たちが務めるセレモニーが終わってからは、早速、試合のトーナメント表がコロシアムの入り口に張り出されるらしかった。一応、公平を期して相手の抽選が行われるそうだが、本当のことかは分からない。少なくとも、同じ候補者の代表者同士が当たることはないそうだ。当然ではあるが。
そして今、その対戦表をローザが走って見に行っているというわけだ。
(それにしても…)
燐子は、そわそわしながら向かい側のベンチに腰掛けているミルフィを盗み見た。
今日もいつもの衣装である。つまり、ヘリオスが絶賛した太腿が、スカートの裾からはみ出ているということ。
竜王祭には当然あの男だっているのだから、もう少し警戒した服装をしておいてほしいものだ。
頭の中では、そうしてアレやコレやと理由を重ねていた燐子だったが、その視線の先には健康的な太腿が映っていた。
ふと視線を感じて、目線をミルフィの太腿から顔へと移動させる。すると、怒っているような、困っているような表情をしている彼女と目が合った。
てっきり、またいつものように罵声を浴びせられると思っていた燐子は、直後にミルフィが零した言葉に胸をドキリと脈打たせることとなる。
「もう、あんまりジロジロ見ないでよ…」頬を赤らめて視線を逸らすミルフィ。「え、あ、ああ、すまん」
叱責を身構えて待っていた燐子は、その軽い注意にいっそう体を硬くした。
ジロジロではないなら見ても良いのだろうか、とか、拍子抜けする態度だが、大人しい彼女も悪くはない、とか…、そういうことを考える。
戦いとは無縁だった、存在するはずもない自分が顔を出して、ハッと燐子は首を小刻みに振った。
「いや、そうではなくて、あの男もいるのだ。多少の警戒はしておけ」
自分の中に宿った、滅多に会わない親戚のような劣情を誤魔化すように、燐子は真剣な口調で言った。
その警告に、意外そうな顔をしてミルフィが反応する。
「ヘリオス王子のこと?」それ以外に誰がいるのか。「そうだ」
「あぁ、アイツなら心配要らないわよ」
「どうしてそう言い切れる」
警戒心の感じられない発言に少し、苛立った声が出る。しかし、ミルフィはその問いに対して曖昧な返事をするだけで、こちらが納得できるような回答はしなかった。
それが気に入らなくて、燐子は立ち上がり、彼女の隣に座り直した。燐子の行動に驚いていたのか、ミルフィが端に詰める暇もなかった。
二人の距離が、突然、ほぼゼロになる。白昼夢でも見ているような、非現実感を覚えるも、それはきっと、幸せで甘い幻だろう。
「どうしたの、燐子」
分かっていて言っているのではないかと思えるほど、ミルフィの声は嬉しそうだった。
「苛ついている」あまりに率直な答えが自分の口から出て、自分で驚く。「どうして?」
「言っただろう、お前が誰かと喋っていたりするだけで、苛立ちを感じるのだと」
「うん」
「誰かがお前のことをジロジロと…、下心丸出しで見ていると思ったら、喋られる以上に苛々する」
「随分勝手ね、燐子は」
ミルフィが笑う。先程までとは別人のように女性的で、美しい。
「別に、触られるわけじゃないんだから。というか、万が一、王子が触れようとしたらぶっ飛ばすだけよ」
そう言って拳を握り、正拳突きのポーズを取ったミルフィを見て、思わず笑みが漏れてしまった。
こういう時間が増えればいいと、心の底から想う。
鍛錬の時間と同等、いや、もしかすると、それ以上のものとして、彼女と過ごす時間が、自分という剣士の人生を侵食し始めていた。
だが…、悪い気分ではない。
そのために私はあの夜に死なず、この世界へ来たのかもしれない、とさえ思えた。
さっきのミルフィの言葉を思い出して、燐子は急に意地悪い顔つきになって問いかける。
「ならば、あの日私がミルフィに触れてもぶっ飛ばされなかったのは、どういうことなんだ?」
「え、あ、アレは、そのぉ」
あたふたとする彼女を両目でしっかりと見つめて、それからその光景を切り取るかのようにゆっくりと、燐子は目蓋を下ろした。
「今なら、お前の気持ちが分かる気がする」
「ちょ、ちょっと…」ぎゅっと手を握られたミルフィが、形ばかりの抗議の声を上げる。
「ミルフィ」
彼女が何か返事をする前に、誰かに背中を突き飛ばされるかのようにして、燐子が言葉を続けた。
「竜王祭が終わったら、この間の質問の答えが欲しい」
「それって、その、燐子の気持ちが何なのかってヤツ?」
こくりと燐子が頷いた。だが、それだけではなかった。
「そして、そのときはお前を抱きしめたい」
「だ――…」ミルフィが顔を真赤にして、視線を右往左往とさせた。「そ、それって、ギュッてするってこと、で、いいのよね…?」
「ん?あ、ああ。そうだ。…聞き直すな、勇気を出したのだから」
「ごめん、ちょっと、そのぉ…」言い淀んだミルフィは、一度咳払いをすると、首を左右に振った。「いや、なんでもないわ。別にい、いいけど。それって何の意味があるのよ」
顔を逸したミルフィの顔を覗き込むように体を傾ける。
今だけは、ガチャリと鳴る太刀が無粋に思えた。
自分が命を預ける刀に、こんな思いを抱くことになる日が来るなど、想像もしたこともなかった。
「そうすれば、きっと、答えが出る。何もかも、分かる」
この世界に来た意味も、とはさすがに恥ずかしくて言えなかった。
今にもその約束を果たしてしまいそうな距離にいた二人だったが、誰かが走ってくる音が聞こえ、慌てたようにミルフィが立ち上がった。
そのために、互いの距離はまたゼロから無限に近い間隔まで広がった。
それがとても惜しく感じた燐子は、滑り込むように控え室に飛び込んできたローザを見て、思わず舌打ちしてしまった。
幸いそれが聞こえなかったらしいローザは、対戦表を机の上に広げてみせると、淡々と、しかし、どこか興奮したような口調で説明を始めたのだった。
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
ミルフィが発した不安そうな声に、着込んだ親衛隊用の鎧をガチャリと鳴らしながらローザが振り返る。
燐子にはそれが何に対する確認なのか分からなかったが、ローザはすぐにピンと来たらしく、心外そうに語気を荒くした。
「当たり前だ、逆に何がそんなに心配になる」
「何って…」と言い淀むミルフィ。
「私が負けてボロボロになるんじゃないか、という心配か?」
ふんっと鼻を鳴らして、余裕のある笑みを浮かべたローザだったが、それが虚勢であることは、いくら人の気持ちが読めない自分でも良く分かった。
それを証明するように、俯き、地面を見つめた彼女の顔には、はっきりと不安が現れていた。
ローザは、竜王祭の記念すべき初戦を飾ることとなっていた。
相手は、ヘリオス第二王子である。
後で使用人たちに聞いたところによると、対戦表を確認した彼女とヘリオスの顔は、一言では言い表せない感情に満ちていたそうだ。それでもあえて言葉にするのであれば、不安や躊躇、そして、その中でもありありとした輝きを放つ敵愾心だ。
互いの顔を見合わせた二人は、何でもない様子でその場を後にしたらしいが、決して振り返ろうとしない意思が、かえってその隔絶を示していたようである。
そんな二人に対して、そのほかの者は淡白だったようである。
ヘリオスが連れていた女性の一人が参加者だったらしいが、彼女はどうでも良さそうな表情で、大きく張り出された表を見上げていたそうだ。
アストレア、それから彼が連れてきたらしい、粗野さがその毛むくじゃらな腕から連想されてしまう巨体の男も、みんな無関心だったそうだ。
勝負の行方など、どうでもいいと言わんばかりに。
今もああして俯いている横顔を、燐子はじっと観察していた。
負けるかもしれない、という不安なのか、それとももっと別の何かか。
ローザは腰の剣を軽く引き抜き、三分の一ほど刀身を空気にさらしたかと思うと、黙ってそれを押し戻した。不穏な静けさの中、鞘滑りの音だけが多弁だった。
石壁に囲まれた控室は、外の照りつく日差しを感じさせないほどひんやりとしていた。あるいは、戦う前の緊張感がそう思わせているのかもしれない。
いよいよローザが部屋を出て行こうというときになって、ぎこちない作り笑いを浮かべてから、ミルフィが口を開いた。
「ま、まあ、負けたからって死ぬわけじゃないし。肩肘張らずにやってきなさいよ」
「ミルフィ」思わず強めの口調で名前を呼んでしまう。「剣士にかける言葉ではない」
それについては彼女も何となくは察していたのか、言葉を詰まらせて私から視線を逸らしてしまう。
「剣士にとって、負けることは『死』と同義だ」
燐子の深刻な響きの言葉を耳にして、ミルフィは一瞬息を呑んだような表情をしたが、すぐに片眉を上げて、「それは燐子だけでしょ」と呟いた。
「そんなわけがなかろう」ムッとして言い返す。「あるわよ、馬鹿」
「馬鹿だと?」
「何よ」
「お前のような暴力馬鹿に言われたくない」
「はぁ?」
「おい、二人とも…」二人のくだらないやり取りを聞いていたローザが、堪えきれなくなってため息を吐いた。「どうして私が仲裁しなければならないんだ?」
ローザがジロリと私たちを睨みつける。彼女の呆れに満ちた眼差しに、互いの顔を見合わせた燐子とミルフィは、不服そうに口元を歪めた後、顔を背けた。
「仲が良いのか悪いのか…」と呟くローザの声が聞こえる。
自分でも頭の中で似たようなことを考えていたので、言い返すこともなかったのだが、ミルフィは違ったようだ。
「別に、良くないから」
さすがにつまらない意地を張りすぎだと反感を覚えて、彼女のほうを再び見た。だが、その頬が明らかに赤らんでいたため、そっと顔の向きを戻す。
もしかすると、今ので、自分も色が移ったかもしれない。
私たち二人をじっと眺めていたローザは、何かに区切りをつけたように姿勢を正すと、低く、聞き取りやすい声で告げた。
「だが、負けることは死ぬことと同じだ、という話には、少しだけ同感だ」
その言葉に目を丸くしたミルフィが、慌てたように聞き返す。
「え、も、もしかして…し、死罪?」
「あのなぁ、そんなわけがないだろう。姫様は、たとえ私が無様に負けても、温かい労いの言葉をかけてくれるさ」
「じゃあ、どうしてそんなこと言うのよ」
多少責める響きがあったが、それ以上に、ミルフィはローザが心配なのだと思う。身内には情の厚い女だ。
(…きっと、ミルフィには剣士の魂など一ミリも分からないのだろうな…)
そう判断した燐子は、素早くローザの言葉の続きを代弁する。
「切腹だな」
「え?」とローザが目を少し大きく開いた。「何だ、そのセップクとかいうものは」
「…違うのか?」
念のため確認してみるが、違うということは彼女の表情から分かり切っていた。
「アンタはもう黙ってなさいよ」横目で燐子を一瞥したミルフィは、小馬鹿にしたふうな口調で続ける。「そんな頭のおかしい風習、ウチにはないの!」
ずばりと断言されてしまい、久しぶりに胸にぽっかりと穴が空いたような寂しさを感じる。
この世界には、忠義の徒などいない。
故に、武士道もない。
身を焦がして尽くすほどの主君も。
肩を落として、部屋の壁に寄りかかる。冷たい石の感触に、慰めを放棄されてしまったような気持ちになってしまい、さらに気分が萎んだ。
「そ、そんなに落ち込まないでよ…」
「よい、気にするな」普段よりもいくらか低い声で応える。「たまに、たまに忘れてしまうだけだ…」
「も、もぅ、ごめんってば」
ミルフィの珍しい謝罪も、今や何の慰めにもならず宙を漂うばかりだ。
そんな私たちの様子を訝しがったローザであったが、それに関して深入りするようなことはなく、まるで、それはそちらの問題だろうと言わんばかりに呆気なく話を戻した。
「私は、私が苦しんでいるときに助けてくれた姫様に恩を返したい。そして、今がそれを成すのに絶好のときだ」
凛とした口調でそう断言する彼女の面持ちを、燐子は驚いた様子で見返していた。
「だからこそ、ここで負けるということは、許されない。許されないのだ」
覚悟を決めるように言葉を繰り返した彼女は、まるで目の前に愛しの姫君がいるかのように目を細めた。
数秒前までのショックも忘れて、ほう、と燐子は感心した様子で相手を見据えた。
そうだ、これが私の失った強さ、その源だ。
日の本の忠義、奉公には遠く及ばないが、ローザと王女の主従関係の強さにはそれに近いものが感じられる。
腰巾着と揶揄することも少なくはないが、だらだらと哨戒任務に当たっている愚か者どもに比べたら、彼女は遥かに優れた兵士だった。
精神的にも、技術的にも。
だからこそ、ローザが最後に発した言葉が燐子をかすかに動揺させた。
「燐子」背筋を伸ばしたままこちらの名を呼ぶ。「何だ?」
「私の試合、きちんと見ておいてくれ」
「…最初からそのつもりだが」カチャリと両脇に差した刀が音を立てる。気づかない間に手を置いていたようだ。「どうしてそんなことを言う」
「万が一に備えてだ」
「お前が負けたときに備えろ、というのか」
苛立ちが言葉の端に滲んでいたのだろう、こちらの態度を諫めるようにミルフィが声を発する。
「ちょっと、燐子」
「黙っていろ」
ミルフィのほうは振り向かず厳しく言い放つ。彼女が反感を覚えることは分かっていたが、今はそんなことに気を回す余裕はない。
多少、ローザを見直していたというのに、このような情けの無い話があるか。
「自分の忠義だろう。自分で果たせ」
彼女は何も答えない。ただじっとこちらを見つめるばかりだ。
その開き直ったような実直な瞳が気に入らず、燐子は壁から背中を離した。
「ふん、意気地のない、腰巾着め」
「燐子!待ちなさいよ」
ミルフィの制止の言葉を振り切り、くるりと背中を向ける。
「負けられないと言いながら、負けた後のことを考える奴があるか。たわけが」
みなさん、お疲れさまです。
みなさんのちょっとした楽しみになれればと、執筆しておりますが、
一ミリくらいはそうなれているでしょうか?
何はともあれ、ご覧になって頂きありがとうございました!