身躱し斬り
こちらで三章は終わりとなります。
あれから二ヶ月近くが過ぎた。日々親衛隊の任務を全うしながら、自己鍛錬を重ねる毎日だったのだが、あの日以降、確実に変わったと断言できることが二つだけあった。
一つは、ミルフィの態度だ。
自分と話すときは、あからさまな緊張が互いの間に漂うようになったのだが、どこか嫌な緊張感ではなかった。
目の合う回数が増えた代わりに、怒鳴られたり、突っかかられたりする回数が減った。穏やかな顔つきをすることが増えて、ほんのわずかだが、立って歩くときの距離が近づいた。
いや、まあ、何が言いたいかというと…悪くはない、ということだろうか。
そして、もう一つ。
「まだまだ甘い」弾き飛ばした相手を見下ろし、冷たくそう言い放つ。「そんなことで、竜王祭の代表が務まるのか」
辛辣な言葉に、悔しそうな顔をして表情を歪めた彼女は、吐息混じりに愚痴を垂れた。
「まだ、根に持っているのか?」
「何をだ、ローザ。私が何を根に持つ」
チンッ、と音を立てて、白の太刀を鞘に納める。
訓練所の芝生の上で、大儀そうに体を起こしたローザは汗だくになっており、天から降り注ぐ陽の光が、どれだけ夏の匂いをその身に染み込ませているかを示している。
対して燐子はというと、ほとんど汗をかいていなかった。少し前に休憩していたというのもあるが、燐子のほうはまるで無駄な動きをしていないというのが最も大きな理由だろう。
何人か手の空いた見物人が軒下のほうから二人を観察していたのだが、最近ではそれも当たり前の光景になっており、もうどちらも気にしていなかった。
ローザは両手を後ろに着いて、いよいよ呆れ果てたといった口調で答えた。
「ミルフィとの情事を邪魔され――」とんでもない単語が飛び出したことで、燐子は即座に彼女の声を遮るように叫んだ。「わ、私は!」
「私は?」と当然のように聞き返すローザ。
「私は、相手が誰だろうと、訓練と名の付くものにおいては手を抜かない主義なのだ。決して、私怨でお前を叩きのめしているわけではない」
「ああ、そう」と疲弊した体を引きずるようにして立ち上がったローザは、首を左右に動かして骨を鳴らすと、もう一度両刃の剣を構えた。
まだやるのか、と目だけで確認すると彼女は浅く、しかし、しっかりと頷いて答えてみせる。
正眼の構えで剣をこちらに向けるローザ。教科書どおり、というかこれ以外は知らないらしい。騎士団共通の構えだったのだが、まるで変化の無い浅い立ち回りに、時折ため息が零れる。
「何度も言ったと思うが、正攻法しか出来なさすぎだ」
「仕方がないだろう、これが私のやり方なのだから」
自分の主戦術を持っている、というのは決して悪いことではなく、むしろ推奨されることだ。ただ、彼女の何が問題かというと…。
「それしかない、というのが不味い。一度見切られればどうにもならなくなるぞ」
「でも、燐子が言っていただろう。戦場において二度目はない、必殺の一撃があればいいんだって」
構えを解いて問答を始めたローザに向け、肩を竦めてみせる。
この実力と戦術論で、自分と同じ代表者に抜擢されているということが嘆かわしい。これではとてもではないがあの二人には勝てない。
彼らの代表者がどれほどの腕を持っているかは分からないが、結局、アテになるのは自分だけになりそうだ。
「それは、一つの技を必殺のものにまで磨き上げている場合だ」
どんなふうに燐子が説明しようと、ローザは納得いかない様子で口元を曲げていた。仕方なく、もう一度刀を抜く。
左側の白の太刀を滑らせて、同じように正眼の構えを取る。
こうなればしょうがない。言って分からないのであれば、見せて分からせる必要がある。
自分が最終的に勝ち抜けば良いわけだが、ローザに怪我をされても目覚めが悪い。せめて死ぬようなことがないくらいには、強くなってもらわなければ。
鏡写しのような構えを取った燐子を見つめるローザは、相手の意図を理解したのか、深く息を吐いて、再び気合の入った佇まいで燐子と向き合った。
「一度見せたほうが早いようだ」ピリっとひりつく雰囲気をまとった燐子が、無感情ながらも、一瞬の隙もない口調で呟く。「殺す気で来い」
その一言を受けて、わずかに怯み喉を鳴らしたローザだったが、彼女の矜持がそうさせたのか、すぐさま気圧された顔色を消して燐子を睨みつけた。
「本当に全力で行くぞ」と再三の確認を終えたローザが、夏の湿った空気が城壁を越えて稽古場まで届いたと同時に踏み込んだ。
間合いに入るのが、あまりに雑すぎる。
向こうの得意な間合いに飛び込まなければならないときは、細心の注意やフェイントを交えてから詰めるべきだ。相手が格上なら尚の事。
本来ならば、死の境界線となるべきラインを跨いで、ローザが中段突きの構えを取った。
一挙手一投足に無駄がなく、技単体で見れば、自分と比肩しているようにも思えた。ただ、戦いにおいて肝心なのは、技の精度だけではない。
どのタイミングで打ち出せるか。
躱された後のことを、どれだけ先まで考えているか。
もしも、防がれたらどうするか。
連続して攻撃するのか、距離を取るのか、ギリギリまで待つのか。
戦いは、死臭漂う刹那が連続してできている。
よっぽど腕の差がない限り、あるいは極限にまで研ぎ澄まされた技がない限り、数多もの選択肢と場面が存在し、選び抜かれた末に勝敗が決するようにできている。
自分の鳩尾目掛けて繰り出される刺突を、ギリギリのところまで引きつける。
すんでのところで刃で弾き、前のめりに姿勢を崩したローザの足をかける。勢いよく芝生の上に転がった彼女が、どこか滑稽だった。ローザが立ち上がるよりも早く、そばまで近づき項に剣先を当てる。
何か小言を呟いているようだが、地面に埋まるように頭をくっつけているため、よく聞こえない。
頭の悪い女ではないので、これだけで、ある程度こちらの伝えたいことは届いたであろう。
すっと白刃を引き戻し、鞘に納める。
小気味の良い音が鳴り、完全に太刀がその身を休めてから、ローザから離れる。数歩離れたところで立ち止まり彼女を振り返ると、もうローザも身を起こしているところであった。
自分と同じ黒のズボンを履いている彼女が、その太腿の辺りについた芝を手で払って言った。
「燐子、お前、ずっとこんな戦い方をしているのか?」
始めの頃は自分を下民だと言ってまともに口も利かなかったくせに、最近はもう親しげに名前を呼んでくる。ついでに言うと、ミルフィとはもっと親しげだ。
呆れたような口調のローザを見つめる。後ろに昇った太陽の輝きのせいで、目を細めなければ眩しくて仕方ない。
網膜に焼き付いてしまった黒い影を視界の隅で追いながら、その問いかけに頷く。
「身躱し斬り」ぽつりと唱える。「危険過ぎるだろ」
「私はこうして生きてきた」
自分のやり方にケチを付けられているような気がして、少し強めの語調で言い切った。想像では、しっかりとこの技の冴えが伝わっているはずなのだが。
「凄いことには凄いが…」
「確かに、まだ一斬必殺の技には遠い」だが、と燐子は続ける。「並大抵の相手なら、これで終わりだ」
身躱し斬りを見せて、仕留めきれなかった相手は数え切れるほどしかいない。残念なことに、こちらに来てから一人増えてしまったわけだが。
ジルバーの顔を思い出す。一度目は、失敗したわけではなかったものの、装甲の隙間を狙うわけでもなく技を繰り出したせいで鎧に阻まれ、二度目は、見た後に反応されて反撃を受けた。
もう一度、手合わせしたいものだ。今度は負けない、負けはしない。
数ヶ月前の記憶に思いを巡らせていた燐子を引き戻すように、ローザが癇に障るため息を吐き出した。
「ミルフィが可哀想だ」
彼女の口から出てほしくない名前が零れて、ついムッとした顔つきになる。そして、不機嫌な声音で返してしまった。
「そこで何故、ミルフィの名前が出る」
「何故って…お前、二人はそういうものだろう?」
当然のように首を傾げたローザの問いに、燐子は急に話についていけなくなって目をパチパチさせた。
「そういうもの?何の話をしている?」
燐子のその発言に、怪訝な表情で目を細めたローザだったが、しばらくして、ぽかんと口を開け放った後、「何でもない、忘れろ」と呟いた。
どこか哀れみに似た暗い光を、その眼差しから感じた燐子は、コイツは人の気持ちが分からないのだ、とまたレッテルを貼られたような気がして苛立ちを覚えた。
「チッ」と舌打ちをしながら、稽古場から離れる方角へと足を進める。そして、その途中で首だけで後方、つまりはローザのほうを振り返り告げた。
「竜王祭は目と鼻の先だ。せいぜい死なない程度には強くなれよ、腰巾着」
燐子は、ローザがもう一度ため息を吐くのを背中に感じながら、皮肉ったからといって、特段気が晴れるものでもないのだな、と不服そうに口をきゅっと閉じた。
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