触れる、赤い花びら
人と人が親しくなるきっかけって、不思議ですよね。
腹の中をさらけ出しあったとき、
苦しいことを共に乗り越えたとき、
ぶつかりあったときだって、そのきっかけになります。
やっぱり、嘘は駄目ですね。
それなのに、嘘を吐いてしまうのは何故でしょう。
この物語の二人には、正直であってほしいものです。
一つ、深いため息を吐き出した燐子は、くるりと踵を返し室内に戻った。いつまでも硬直しているミルフィを目の当たりにして、もう一つ追加でため息を零す。
それを耳にした彼女は、途端に椅子を膝の裏で押しやりながら立ち上がると、おろおろと部屋の中を歩き回り始めた。
あまりに落ち着かない様子のミルフィに、呆れて何も言えなくなった燐子は、無言のままベッドに腰掛けた。
ミルフィはそうして数分ほど辺りをうろついていたかと思うと、燐子がいることに今気が付いたと言わんばかりの様子で彼女に声をかけた。
「な、何でああいうこと、言うかなぁ、ほんと」
吃るようにそう口にした彼女は、新調したばかりのカーテンのそばに寄って、その先端を両手で弄り、チラチラとこちらを警戒するかのように何度も振り返って見ていた。どことなく、その姿が小動物じみていて口元が綻んでしまう。
「すまんすまん」一切悪びれる様子もなく燐子が口を開く。「ちょっとぉ!何を笑ってんのよ!」
顔を真赤にして詰め寄ってくるミルフィに、ふっと相好が崩れる。
「だが、ミルフィが勝手に私との思い出話をしていたのが、そもそもの原因ではないか」
ミルフィが、「うっ」と言葉に詰まる。
「何だかな…。色々と考えているのが馬鹿らしくなってくる」
「色々?」と小さな声で問い返す。まだその顔は茹でたタコのように赤い。「あぁ…。なぁ、ミルフィ」
自分を見下ろしてくるミルフィの顔を真っすぐ見つめ返す。どうしてか、今は随分と素直に彼女と向き合うことができていた。
不透明で、消えそうな安らぎが胸の中に満ちていくのを感じる。それと同時に、肩の力が抜けて自然と背筋が伸びた。
「すまなかった。この間は私の至らなさのせいで、お前に恥をかかせてしまった。このとおりだ」
手を床につけて、深く頭を下げる。
「え、ええ?何よ、急に…」ミルフィが、両手を重ねて胸に当てた。「いや、そのぉ、でも、私もごめんね」
謝りながら燐子の隣に腰を下ろしたミルフィは、肩から前に垂れた三編みをパッと手で払い、重ねた指先を何度も擦り合わせていた。
ミルフィは、「意地を張りすぎちゃった」とか、「無視してごめん」とか、それから、「燐子と話してなかったから、その、燐子の話だけでもしたくなって…、いや、勝手に周りにしてごめん」なんてことを、ぼそぼそと言った。
謝るのが大の苦手な彼女としては、きっと夢中だったのだろうが、燐子の耳には、途中から、その言葉が十分には届いていなかった。
何故なら、燐子の頭はもっと別の、大事なことに全力を注いでいたからである。
(――こんなに、ミルフィは愛らしかっただろうか)
気もそぞろといった様子で何度も瞬きを繰り返し、視線を右往左往させている姿も、どこか抱きしめたくなる。
普段がツンケンしていて、まともに人の話も聞かず、明らかに自分が悪いときでも全く謝ろうとしない彼女だからこそ、今みたいに素直に、申し訳無さそうに謝る姿がとても可愛らしく見えた。
自分のほうへと何度も顔を向けたミルフィに、御しがたい気持ちが溢れてくる。
ぽつりぽつりと桜の咲き始めた初春のような、未熟だが、確かに満開に近づきつつある感情。
自分の中にもあって、きっと彼女の中にも存在するその感情は、いつか、ミルフィの紅蓮の瞳を覗き込んだときに、自分が知りたいと願っていた輝きそのものであった。理由は分からないが、そう断言できた。
ついさっきまで抱えていた苛立ちや嫉妬心が、距離を詰めた蜃気楼のように消えていく。
まるで、最初から無かったみたいに。
胸の中に宿る温みに、自分がそういうものとは無縁の剣士だったとは思えなくなって、じっとミルフィの瞳を見つめ返した。
――そういうもの?
自分が辿り着いた答えに、目を丸くする。
丸々と見開かれる夜空を模写した瞳が、両手を広げて抱きしめるようにミルフィの姿を映し込んだ。
そんなふうにあまりに無遠慮に見つめられ、驚いたように目を見開いた彼女も、同様にそのガラス玉へ燐子の姿を投影させている。
まだ不明確で、絶対そうだと言えないこの気持ちを伝えたら、ミルフィはどんな顔をするのだろうか。
ハッキリしなさい、とか。
知ってたけどね、とか。
強がるだろうか?
それとも迷惑がるだろうか。
…分からない。
セレーネ王女も、ミルフィも、誰も彼もが私に言ったが、やはり、人の気持ちなんて、どれだけ生きていても分かりようもない。分かるはずもないのだ。
でも、もう決して繰り返しはしない。
分からないなら、知ろうとすれば良い。
そのための口と言葉を、私は持っている。
何も答えられずに赤面する彼女を脳裏に描きながら、燐子は、その閉じられた唇を優しく引き剥がした。
「なあ、一つ聞いてもよいか?」
「な、何?」
そう尋ね返されてから、果たして、どのように聞けばよいのだろうか、と今更ながらに考えた。しかし、どれだけ考えても気の利いた質問の仕方は浮かばず、結局は一つ一つ、自分の思っていることを率直に口にするしかないのだ、という考えに行き着く。
深く、呼吸を行う。周囲の酸素が以上に薄い気がして、自分が緊張しているのだということに気が付いた。ただ、それがどうしてかは分からずに、燐子は自分で自分がおかしくなる。
どこから話そう。まずは、それが大事だ。
水底から沸き上がる気泡を集めるように、小さな言の葉を紡いでいく。
「私は、お前といると楽しい」
「は?急に何」眉をしかめるミルフィ。「いいから、黙って聞いてくれ」
「お前と一緒だと、何もかも新鮮だ。どうでもいいことで一喜一憂するところは、見ていて面白いし、子どもみたいに拗ねたり、怒ったりするところも飽きない」
「…もしかして、私、喧嘩売られてる?」
違う、自分が伝えたいのはこういうことではない。これでは勘違いされるのも当然だ。
もっと、もっと違う言葉を。
本当に自分が伝えたい、真実の言葉を。
「お前が私抜きで誰かと喋っていると苛々する。他の奴になんて笑いかけてほしくない」
これも違う、本質からずれている気がする。いや、本質に近づいたものの、見ている場所が違う。
そうだ、この胸に宿った温みを、真っすぐに伝えよう。
「お前の作る飯が好きだ、お前の赤い目と髪が好きだ、お前の…何だかんだ言って、世話好きなところが好きだ」
もう限界を越えたのではないかと思えるぐらい、彼女の瞳がいっぱいに見開かれる。そのルビーの瞳には、夕焼けを透かしたような涙の粒が光り輝いていた。
「教えてくれミルフィ」その涙を少しでも早く止めるために、早口で呟いた。
「なぁに?」
右手で、零れる涙を拭い続けるミルフィの顔を覗き込む。
破裂しそうな勢いで収縮と拡張を繰り返す心臓が、ドクンドクンと全身に向け血液を送り続けているものの、その多くは、脳味噌へと注ぎ込まれているように思える。
もしかすると、本当に血管が破裂してしまうのはないだろうか。
こんな緊張を感じたのは、生まれて初めて一騎打ちをしたときぐらいなものだ。別にあのときと違って、負けたからといって命を失うわけでもないというのに。
私は、ここで負けたら何を失うのだろう。
そのまだ見ぬ恐ろしさを斬り捨てるように、燐子は淀みなく告げた。
「これが、人を好きになる、ということなのか?」
どうしてこんなにも緊張しているのか考えたとき、ハッ、と一つの事実に気が付いて、よりいっそう思考が硬直する。
(私は今、ミルフィに睦言を、愛の言葉を囁いたのか。いや、別に直球では言ってない。しかし、どうだろう、もはや、『好きだ』と言ったようなものではないか)
頭の中を整理するのに、どれくらいの時間を要しただろうか。
気が付けば、燐子とミルフィの間に空いていた隙間が埋まっていた。頭が真っ白になっている間に、ミルフィが一人分の空間を詰めたようだった。
ミルフィが、ほんの少しだけ自分よりも低い目線から、上目遣いで見上げてくる。
つい数秒前までは、恥じらう乙女といった様相を呈していた彼女も、多少は落ち着いた様子だった。
「知らないわよ」ベッドの縁を掴んでいた燐子の右手に、涙で湿ったミルフィの右手が重なる。「自分の気持ちでしょ、自分で決めなくちゃ」
「そ、それが分からないから困っている」
半分本当で、半分嘘といった言葉だった。
普段の自分が、殻を突き破って生まれ出でようとしている新しい自分を上から押さえつけて、邪魔をしている。
あぁ、ままならない。
自分のことさえ、自分で制御できないこの人間という容器を、今日ほど忌々しく感じたことはなかった。
困り果てて視線を彷徨わせた燐子を見かねたのか、ミルフィが声を裏返しながら、「じゃあ」と前置きして提案した。
「く、くっついてみたら、分かるかも…なぁんて…」
さっきまで、これ以上無いと思っていたのに、今までの人生で一番強く鼓動が鳴った。
鼻や口から漏れる息が一瞬、荒くなる。
それを耳にしたことで気が引けたのか、「冗談だけどね」と慌てた口調で前言を撤回した。
だが、もう自分を止められない。
我に返った刹那、自分がミルフィの右手を掴んだままベッドに押し倒していることを自覚した。
頭の中には、もう何もなかった。
がらんどうで、夜の闇よりも暗い景色が広がっている。
見たことがあった。これは、目蓋の裏に巣食っている暗がりにとても似ている。
誰の心にでも巣食う、闇。
誰もが毎日目にしているのに、それでも知らないふりができてしまう黒壇の闇。
この闇には、何もないわけではないのだ。ただ、気が付かないふりをしているだけで。
自覚した途端に、自分が今圧倒的な欲と衝動に支配されていることを察した。
欲だ。欲望。
彼女を、この手にしたいという独占欲。
今すぐにでも、自分の中を彼女でいっぱいにしたい。
そして…、叶うのならば、彼女の中も自分でいっぱいにしたい。
磁力で吸い寄せられるように、二人の顔が近づいていく。もちろん姿勢から考えれば、近づいているのは自分のほうだけだ。
「お前が、言ったんだ」ぴくりとミルフィの体が跳ねる。「するからな」
「あ、そ、そういう意味じゃ…」
「知らん。もう、知らん。ミルフィ、お前が悪い」
相手のせいにして、自分の欲望をぶつけようとしている。
これが相棒に、好意を抱いている相手にしていい行為なのか?
醜く、俗物的な、普段の自分なら、憎悪すら感じてしまいそうな欲求が、私の清廉な魂をジリジリと黒く焦がしていく。
煌めく紅い彗星のような瞳が、スローモーションで閉じられていく。
真っ白のシーツを絵画の下地のようにしたミルフィが、目をつむったまま、小刻みに震えて何かを待っている。
自分の真っ黒の髪が純白のシーツにかかる。
まるで、自分と彼女だけが取り残されたような静寂。
断絶された世界で、これ以上、私たちがバラバラにならないように…。
互いを繋ぎ止める楔を打ち込もうと、必死になっている。
「…ミルフィ」零れる言葉は、きっと歌人の和歌を上回るほどの情熱を帯びていた。
直後、その二人だけの静けさを切り裂くように、蝶番が軋む音が室内に鳴り響いた。
「おーい、入るぞ」反射的に声のしたほうを振り向く。
「あ…」そこには、目の前の光景に言葉を失ったローザがいた。「悪い…これは、私が悪かった。すまない、本当に…」
「ま、待て」
バタン、と扉が閉まる。
再び視線を元に戻すと、目を見開き、さっきとは違う意味で震えていたミルフィがこちらを見上げていた。
(…これはまずいな)
さっ、と離れようとするが、それよりも速く、ミルフィを掴んでいた手が乱暴に振り解かれた。そして、続けざまに固く握られた拳が振りかぶられる。
そのままの勢いで振り抜かれた鉄拳が自分の頬を思い切り殴り、体がゆるやかな軌道を描いて宙を舞った。
死ぬほど痛いだろうと覚悟していたが、思いのほか痛みは軽かった。
もはや笑えるのだが、どうやら、流星痕の力が発動して衝撃が和らいだようだった。
「ぐふっ」
床に叩きつけられ、天井を見上げた姿勢の燐子の耳に、申し訳なさそうではあったものの、少し責めるようなローザの声が聞こえた。
「ノックもしなかった私が悪いんだが…。鍵ぐらいは掛けてから、な。そういうことは、な」
「…黙れ、腰巾着」
ローザは、怒りのままに吐き捨てた燐子の言葉にも反論することはなく、一つため息を吐いてから、「終わったら教えてくれ」と呟き小屋から離れていったようだった。
…終わったら?
何とか体を起こして、ベッドのほうを向く。
見れば、ミルフィは毛布で自分の体をくるんで、カエルが轢き殺されたときのような悲鳴を上げている。
「あぁ、もうっ!あああああっ…うぅ」
もう一度チャンスがあるとはとても思えないな、と燐子は大きく肩を落として、ため息を吐く。
あと少しで、自分の気持ちが完全に理解できる気がしたのに。
互いに気になっている二人の関係って、
きっかけさえあれば、ぐんと近付いてしまいますよね。
つい先刻まで、他人同士だったとは思えないくらいに。