竜星の痕
今回は、長々と説明っぽい雰囲気になってしまいました。
ご覧になられるのが大変かとは思われますが、
よろしければ、お付き合いください。
燐子は、これからどう言い訳をすれば、先ほどの発言を撤回できるか悩んだ。だが、結局は良い案が浮かばず、口をつぐむ。
すると、鈴の音を鳴らしたような声で小さくセレーネが笑った。
まるで呼ばれているような気がして、しょうがなく彼女のほうを振り向くと、もうその表情は王女のものに切り替わっていた。
「大丈夫ですよ」優しく呟く。「もう、知っていましたから」
「何と、それは本当ですか?」
セレーネの言葉に目を丸くしながらも、彼女の雰囲気が変わったのに合わせて口調を戻した自分の器用さにも驚く。
王女がちらりとモルドのほうに目配せした。それに応えるように老人は恭しく頭を下げると、また奥のカウンターのほうに下がって行った。
もしかすると、初めからこの話をするつもりだったのかもしれない。
「燐子さん、左手のグローブを外して頂いても宜しいですか?」
「グローブ?ええ。分かりました」
一体どうしてだろうと不思議に思いながら、革手袋を外す。通気性が良いため、別に汗をかいたりはしていない。
セレーネはじっと燐子の掌を見つめていたかと思うと、おもむろに手を取り、手の甲を上に向けた。それから、ため息を吐くかのように吐息交じりに告げる。
「これは、流星痕と呼ばれるものです」耳慣れぬ単語に、眉をひそめて尋ね返す。「流星痕?」
こくりと頷いた彼女は、じっと燐子の手の甲を見つめた。
まざまざと焼き付いた火傷の痕――のような紋章。これが何か特別なものだということは何となく察していたが、名前まであるとは知らなかった。
セレーネの視線を追うように自分の手の甲に目線を落としていた燐子へ、彼女が続ける。
「流星痕は、流れ人がこちらの世界へ落ちてきたときに、体のどこかに刻まれるとされている不思議な紋章です」
「流れ人が…」
その説明に、だから気が付いていたのかと合点がいく。
「そろそろ、色々と貴方に話しておいたほうが良いと思います」
「この力についてですか」
「それもですが…」と言葉を区切ったセレーネは、珈琲のほうを一瞥すると、非の打ちどころのない笑顔で、「冷める前に頂きましょう」と言った。
今は力の話を優先したいと感じたが、四の五の言う前に王女がカップを口元に運んだので、大人しくそれに従った。
彼女にならって、その液体の香りを嗅ぐ。やはり、この行為に何の意味があるかは分からなかった。
「良い香りですね」と王女が微笑む。こちらも曖昧な返事をするほかない。
遠くのほうから聞こえる喧騒以外は、何も聞こえなくなった店内に珈琲を啜る音が響く。
ほうっ、とため息のようなものを漏らした王女を見て、そんなに美味いのだろうかと燐子も口を近づける。もう彼女の興味は、流星痕よりも珈琲に大きく傾いていた。
湯気を昇らせる熱々の液体が唇に触れ、それから口内へ流れ込んでくる。それが舌の上を過ぎた瞬間、思わず顔をしかめてしまった。
(に、苦い。何だ、この飲み物は)
とてもではないが、まともに飲めたものではない。味もしない。この苦味と酸味が味だというなら、率直に言って不味い。
ちらりと盗み見たセレーネの表情は安堵に満ちたもので、自分と同じものを飲んでいるとはにわかに信じがたかった。
「独特な味ですね」ことり、とカップを置きながら、オブラートに包んだ感想を述べる。
「お気に召しませんでした?」
「私には苦すぎます」
その苦みがうつったような苦笑を浮かべたセレーネは、「それなら」と砂糖とミルクを燐子のカップに注ぎ込み、スプーンで混ぜた。
泥水みたいな色をしていた液体が、一瞬でクリーム色に変化する。
片手を差し出して、「どうぞ」と飲むように促したセレーネに従い、もう一度口をつける。
あの程度の砂糖とミルクで、この極悪な苦さが中和されるとは思えなかったのだが、いざもう一度飲んでみると、意外にこれが美味かった。
「美味い」つい感想が口から零れる。「そうでしょう?」
確かに苦みは残っているが、ほのかに感じられる砂糖とミルクの甘味が、いい具合にその味を引き立てている。
苦すぎず、甘すぎず。まさに清濁併せ持つかのような味わいだ。いや、意味が違うか。
もう一口、とカップを引き寄せた燐子を、柔らかな目つきで見ていた王女は、一度咳払いをするとそのまま本題に戻った。
「私たちが、アズールで初めて出会ったときのことを覚えていますか」
忘れようもない。はっきりと頷く。
「変わった方だと思いました。騎士でもないのに私に膝をついて頭を下げるものですから」
「あぁ、お恥ずかしい限りです。こちらのしきたりなど全く分からなかったもので」
「それはいいのです。悪い気はしませんでしたから」首を左右にゆっくりと振る王女。「興味本位でそばに寄ったとき、本当に私はびっくりしました」
セレーネはそう言うと、燐子の手の甲に指先で触れて、ぼそりと独り言のように付け足した。
「流星痕が、貴方にはあったから」
思っていたよりも深刻な話になるのかもしれない、と燐子は考えた。セレーネの表情が真剣を通り越して、必死さをたたえていたからである。
彼女は言うべきかどうかを逡巡するように口を何度か開閉し、最終的には覚悟を決めたのか、ハッキリと言い放った。
「この人は使えるかもしれない。そう思いました」
「なるほど」段々と、今まで理解できなかった王女の行動の全容が見え始める。
「そして、その想いは、カランツでの貴方の戦いを見て確信に変わりました。無数の帝国兵の屍の中に倒れ込み、満身創痍ながらも再び立ち上がった姿を見た…あのときに」
セレーネはきっとそのときから、自分を竜王祭の代表者にしようと考えていたのだろう。
そのために自分を助け、追いかけ、仲間に引き込もうとした。
少し俯いた彼女の顔に影がかかる。
「軽蔑するでしょう。私は、貴方を助けるためにその命を救ったのではありません」
その声が悲愴に溢れていくのを耳にしながら、どうしてこんなにも彼女が自責の念に駆られているのかが分からなかった。
こんなところでも相手の気持ちが分からないのは、もはや笑える。
弾けるように顔を上げたセレーネのグレーの瞳は、灰の上に朝露が降り注いだかのように濡れていた。
「私は、私を助けるために貴方を死なせなかったのです、燐子さん」
苦しそうに言い切ったセレーネを見て、それからまた珈琲を口に含む。
(美味い。これは紅茶よりも確実に美味い。)
真っすぐ向けられた王女の視線に、こちらが何か発言するのを待っているのだと気づき、とりあえず返答する。
「そうですか」
揺れる水面に視線を投げ込む。ミルクと溶け合い、クリーム色に変わった液体はどこか暖かそうな雰囲気を発していた。
「それで、お話したいこととは」
本題に戻れるように気を遣ったつもりだったが、かえってきょとんとした顔つきになられて、燐子は頭の後ろを掻いた。
「待ってください、私の話を聞いていましたか?」
「もちろんです」と頷く。
「だったら、他に何か言うことがあるのではないですか?」
一度目を瞑って、彼女が何を求めているかを考える。だが、結局は何も思い浮かばず、首を左右に振るだけだ。
そんな様子の燐子に、何故か苛立ったように眼尻を吊り上げたセレーネが、歯切れの良い口調で言う。
「私は、貴方を利用します」
「はい」大して興味はなさそうに答える。「はいって…」
「ああ」王女が望んでいることがやっと分かったような気がして、燐子が淡白に尋ねた。「責めてほしいのですか?」
燐子の不躾とも言える言葉に、かあっ、と頬を紅潮させたセレーネは、羞恥に耐えるように唇を噛んで、燐子を横目で睨みつけた。
「そういうことをハッキリと言ってしまうのが、貴方の悪いところです。ミルフィさんと喧嘩した原因が分かっていないようですね」
王女は最後に「空気を読んでください」とツンとした様子で吐き捨てたのだが、これ見よがしにミルフィとの件を引き合いに出されて、燐子もムッとしてしまった。
「そう言われても、セレーネ様が気になされているのでしょう」
「だって…」少女に戻ってしまったかのような弱々しい呟きに、燐子も肩を竦めた。「前にも言いましたが」
珈琲を再度口に運び、口を潤してから続ける。
「私にとって、自分の剣の腕を買われることは至福の喜びです。たとえ、その流星痕とやらの力が目当てであったとしても、それを使うのは私です」
そもそも、とさらに前置きして畳みかけるように燐子は続ける。珈琲のおかげか、やたらと舌が回る。
「私は侍の娘です。己が魂を研ぎ澄まし、技を磨く。国亡き今、ただそれだけが私の剣の存在意義となっています」
「侍…?」オウム返しに繰り返したセレーネに向けて、「身分の高い剣士のようなものです」と噛み砕いて説明を行う。セレーネはそれを聞いて、分かったような、分かっていないような返事をした。
「この侍の概念は、どうやらこの世界の方には理解し難いようです。まあ…別にそれで構わないと思いますが
」
「そう、ですか」煮え切らない様子の王女。
「どうでも良いのです」
ぞっとするような暗がりが、クリーム色の水面に映った自分の瞳の奥に広がっているのを見ながら、燐子は淡々と口を動かす。
「利用されようと、頼りにされようと、何だろうと」
少し捨て鉢になってしまっている自覚はあったが、それでも、彼女なりに本音を吐き出しているつもりであった。
「私が私の信念を裏切るようなことにならない限り。とどのつまり、私にできることは、人を斬るという行為以外はないのですから」
みなさん、お疲れさまです。
みなさんのちょっとした楽しみになれればと、執筆しておりますが、
一ミリくらいはそうなれているでしょうか?
何はともあれ、ご覧になって頂きありがとうございました!