懐かしい味
今は思い出せないけれど、ずっと昔に食べていた、故郷の味。
みなさんにもありますでしょうか?
祖母が作ってくれていた、里芋の煮物…。
懐かしむ過去があることは、素晴らしいことだと思います。
なんやかんやと言いましたが、
是非、お楽しみ下さい!
見上げるほどに大きな城門がそびえ立っている。プリムベール城の正門である。
その堂々たる装飾と規格は、日の本では見たことも聞いたこともないもので、初めて見たときは、本当に度肝を抜かれたものだった。
今回は、その横にある通用口から出て行く形になっている。脇に立っていた老齢な騎士に許可してもらい、通り抜ける。
普段とは全く違う格好をしているとはいえ、当然、騎士も王女に気が付いた。だが、セレーネがやんわりと微笑み、人差し指を自らの唇の前で立てると、騎士は苦笑いしながら軽く頭を下げた。
軍隊が通るための幅広の道はもう何度か通ったことがあるのだが、その道の、ちょうど半分辺りで交差するように伸びた大通りのほうには行ったことがなかった。
遠目から見ても分かるほど賑わう街並みに、いつも燐子は胸を高鳴らせていたのだが、あいにく足を伸ばす暇が、というか許可が無く諦めるほかなかった。
そして今回、ようやくその願いが果たされるというわけだ。
(人で賑わう、良い城下町だ。故郷を思い出すな…)
階段を下りて、門から真っすぐ伸びた道へ足を下ろす。隣にいる王女の手を取るべきか迷ったが、彼女がすっと手を差し出してきたので、結局は握り返す。
やはり、昔を思い出す。
日の本にいたときも、こうしてお姫様相手に庭まで手を取って歩いたことが何度かあった。確か、お忍びで城下町に出かけたこともあったはずだ。
そのときはまだ子どもで、何も考えずに二人で出かけたものだが、今になって考えてみれば、かなり問題のある行動だったと乾いた笑いが出そうになる。
「たまにこうして、こっそり出られるのですか?」
「そうですね、今はあまり。昔は頻繁に抜け出していたものですが」
セレーネは、さっきの門番は、その頃の自分を知っているのだと付け足した。
なるほど、だから何事もなかったかのように送り出したのか。
「それは運が良かった」と口にしたところ、セレーネは目を細めて微笑み、ぱちりとウインクした。
「ふふ、そういうふうに警備を変えましたから」
清濁併せ持つ、と口にした彼女だったが、もしかしたら、元々こういう気質の人間だったのかもしれない。
悪戯好きで、責任感が強く、優しさの中に王族としての冷淡さが息づいている女性。
そんなことを考えているうちに、残り一段で階段を下り終えるというところまで来た。すると、セレーネは自ら燐子の手を解き、はにかむような表情を浮かべて言った。
「ここから先は、私はただの小娘に戻ります。ですから、特別扱いは不要です」
「承知しました」
やけにあっさりと承諾した燐子を意外そうな顔で見つめたセレーネは、少し面白くなさそうに唇を尖らせると、「物分かりが良いですね」とぼやいた。
「ええ、正体を知られては危険もあります。そうならないように、普通に接しろと仰られるのでしょう?」
「まあ、そうですが…」
どうやら、慌てふためいてほしかったようだ。
こういうところが人の気持ちが分からない、ということなのだろうか、とも考えたが、分かっていたとしてもそんな情けない真似はしたくなかった。
「参りましょう」短く声を発した燐子に、セレーネも頷き一歩階段を下りた。「行きましょう、燐子」
呼び捨てにされると、どこか身が引き締まる思いがする。ただ、今は叱責されているわけではないので、普通にしておくべきだ。
今日は燐子も親衛隊の正装を脱ぎ捨て、普段の黒のズボンに白シャツという服装だ。王女のほうも青のロングスカートに、フリルのついた白のシャツを着ているだけだったので、一見すれば王族にも、騎士にも見えないだろう。まあ、太刀はぶら下げているので、一般人には見えないだろうが。
「まずは、どこに向かうのだ?」
さらりと普段の言葉遣いに切り替えた燐子を横目で一瞥し、ますます面白くなさそうにセレーネが呟く。
「随分と上手に切り替えますね」
「まあ」と曖昧に返事をする。経験がありますので、とは口が裂けても言えない。
「何だか面白くありません」身も蓋もなくセレーネがそう言った。「もう少し、慌ててくれると思ったのに」
「そんなことを言われてもな…」
横目で彼女の姿を捉えながら、そのまま大きな十字路に出る。
「ほぉ、これはまた圧巻だな」未だかつて見たことのない巨大な商店街に、思わず感動の声が漏れた。
激しくうねる人波が、まるで大河の流れのようだ。アズールの町とは比べ物にならないくらい大規模な市場が、連綿と両脇の城壁まで続いている。
色とりどりの織物、美味しそうな食材、よく分からない道具から、ちょっとした武器まで。大抵の物は、ここだけで揃えてしまえるだろう。
「活気のある都だ」と感心したように燐子は辺りを見回す。
江戸や京都も華々しいものがあったが、ここはまた違った生命力に満ちていた。
その差異は何だろうと、目を皿のようにして観察する。
流れる人の群れと、人々の間で交わされる会話、それらに注意を巡らせているうちに、ふと、思い至る。
(この国では、様々な文化が共存している。様々な生活様式、武具、人種。それらを柔軟に取り込み、新しいものにも決して拒否感を抱かず、前向きに向き合う文化が育まれているのだ)
もしかすると、流れ人という存在が一般化している以上、自然とそうした文化形態になったのかもしれない。
スミスやフォージといった鍛冶師が良い例だ。異世界の文化である太刀を吸収し、何の苦もなく、自らの世界の技術と融合してみせている。
もしかすると、我が国日の本も、いつかこんな時代が来ていたのかもしれない。
そんなふうに、最早見ることも叶わない景色を空想していると、セレーネが一つの店舗を指差して燐子の腕を引っ張った。仕方なく、引きずられるようにそれに従う。
そうして、何件かの店を巡った。
セレーネがおすすめする果物を一つ噛りながら、小屋のカーテンを選ぶ。
どんな色が良いだろう、と考えているうちに、自然と赤のカーテンに手が伸びる。それを見ていたセレーネが、「それはちょっと安直過ぎませんか?」と笑った。
燐子の脳裏に、ミルフィの臙脂色の瞳が浮かんでいたことを察してのことだろうか。
新鮮で美味い、という嘘臭い宣伝文句のわりには本当に美味しい果実を堪能し、生活に使う小物を揃え終わると、今度はセレーネのショッピングが始まった。
ああでもない、こうでもないと口にしながら、髪留めを選ぶセレーネの隣で、何となく自分も並んだ商品を見回す。
豪華で派手な装飾の付いた物から、質素でシンプルな物、それから簪に似た髪留めもあって、何だか懐かしい気分に浸ることができた。
そういえば、と自分の後ろ髪を結んでいる髪ゴムへと手を伸ばした。
髪を結わせることは、相手からの愛を受け入れることを意味する――不思議な風習だ。
後々になって聞いた話だが、籍まで入れる正式な結納の際には、リングの形をした髪留めを使って相手の髪を結ぶらしい。
確かに、カランツの村でサイモンの妻と少し話をしたとき、彼女の髪にはリングが付いていた気がする。
それを思い出すに伴って、あの日の夜のことが目蓋の裏に蘇った。
自分の髪を結んだミルフィ。
髪を結ばれ慌てふためく彼女の、星夜が灯す輪郭。
ふっと、笑いが漏れた。
(早く、いつものように下らない言い争いがしたいものだ)
そんな燐子の笑みを見逃さなかったセレーネは、一つ意味ありげに微笑むと、最後に喫茶店にでも寄って帰ろうと提案した。
喫茶店が茶屋のようなものだということは予習済みだ。少し荷物が多い気がしたが、まあ、この程度は平気だろう。
「良い店を知っているんです」
王女らしからぬ無邪気な表情を覗かせた彼女は、歩く速度を速めて細い道に入った。
一瞬で暗くなった周囲の風景は、まさしく静かな裏通りという感じで、これはこれで趣のある道になっていた。
このまま進めば、いつの間にか違う世界に足を踏み入れてしまうのではと夢想したのだが、よくよく考えれば既にここは違う世界だった。
人気の少ない路地を進んでいくと、天馬の形をした看板が揺れている、古ぼけた喫茶店が見え始めた。
(どうやら、ここが目的地のようだ)
店頭に立てられていた看板の文字は、『ペガサスの羽根』と読むのだと、後でセレーネに教えてもらった。
「お邪魔します」
セレーネが塗装の剥がれたドアを押して開けると、心地の良いベルの音が鳴った。来客を知らせるために備え付けられた鐘のようだ。
中は、閑散としていた。
いくつかのアンティーク調のテーブルとチェアが三点セットで設置されており、部屋の中心から二分するように伸びているカウンターで、老齢の男性が船を漕いでいる。
起こすのも気が引けるくらい、気持ちよさそうに寝ている。
燐子がそう思っていると、セレーネが躊躇なく老人に声をかけた。
「こんにちは、モルドさん」
その透き通る声にぴくりと反応した老人は、開けているのかどうか分からない目をシバシバとさせてから、大きな欠伸をしてみせた。
その様子に、彼女が楽しそうな声で笑った。
「まぁ、良い夢でも見ていましたか?」
この廃れた場末の喫茶店においては、あまりにも不似合いに感じられるセレーネの美しいさえずりが室内に広がり、年季の入った古い木製の家具や壁たちに吸い込まれ、消えていく。
それだけで、ふっと肩の力が抜けるのが分かった。
モルドと呼ばれた老人は、ようやく彼女たちの存在に気が付いたかのように微笑むと、嗄れた声で尋ねた。
「いらっしゃい。いつもので良いかい?」今にも擦り切れそうな声である。
「うん。あ、燐子は甘いもの大丈夫?」
唐突に、子どものような雰囲気に変わったセレーネがそう問いかける。一瞬だけ静止した燐子だったが、すぐに気を取り直すと、「甘味は嫌いじゃない」と答えた。
「良かった。じゃあモルドさん、いつものを二つお願い」
「はいはい」
分かったのか、分かっていないのかが分からない返事をしたモルドは、一度こちらのほうを首だけで振り向くと、人当たりの良い調子でゆっくりしていくように告げた。
燐子はセレーネに導かれるようにカウンターの一番奥の席に腰を下ろすと、辺りを見渡してから頷いた。
(なるほど、確かに良い雰囲気の店だ)
年季の入った内装も、モルドの雰囲気も、窓から差し込む薄暗い陽の光も…。
何もかもが、忙しない時間の流れから解き放たれていて、とても落ち着くことができる。
人がいないこともそれに拍車をかけるが、その点に関しては、店としてはどうなのかと思うので、あまり考えないことにした。
「ここには良く来るのだな」
「ええ、モルドさんは、私がずっと小さい頃からお世話になっているの。王女だってことを知ったうえで、昔から何か嫌なことがあったらここに置いてくれていたから…ついつい大きくなってもここに来ちゃう。お祖父ちゃんみたいなものね」
そう言ってはにかんだセレーネには、もうどこにも王女の影も、重責も見当たらなかった。これが彼女本来の姿なのか。
――清も濁もない、ただの水のような女。
やたらと高い椅子が落ち着かない以外は、居心地の良さを放っている内装に目を向けていると、隣のセレーネが鼻歌を歌い始めた。
本当に上機嫌だ。こうしていると、見た目以外は普通の娘と変わらない。
(いや、それが自然なのかもしれない。生まれや血筋だけで、人間という生き物が全く違うものに変化するわけではないのだ)
しかし、と燐子は小一時間前とは別人のように笑うセレーネを見て、心の中だけで眉をしかめた。
肉と臓器が詰まっていて、それから赤い血が流れている。ほとんど同じもので出来ているのに、時折、周囲が違う生き物の群れに見えることがあるのは、きっとここが異世界だからという理由だけではない。
時と場合に応じて違う顔を使い分けられる。そんな人々が、いつもどこか不気味だった。
しばらく中身の薄い、しかし、何となく孤独の埋められるような会話を続けていると、カウンターの奥のほうに引っ込んでいたモルドが、お盆を両手にこちらのほうへ戻ってきた。
「お待たせしました」相変わらずほっとするような笑みだ。
彼は運んできたお盆を二人の座っているカウンターの前に置くと、さらりと食事の内容を説明した。
カップの中に入っている泥水みたいな茶色の液体が珈琲といって、好みによって砂糖とミルクを混ぜる。そしてもう一つは、四角形をしたティラミスとかいう名前の甘味だ。
どちらも初めて見るものではあったのだが、燐子はティラミスの上にかかっているものに見覚えがあった。
「これは…抹茶か?」
燐子が驚いたような口調で確認すると、モルドは綻んだ口元のまま浅く何度か頷いて、彼女の言葉を肯定した。
それを聞いて、ぱあっと明るい表情になった燐子は、久しぶりに旧友と再会するような高い声で告げた。
「そうか、こちらの世界にも抹茶はあるのだな」
不意に、沈黙の帳が下りた。
気分の舞い上がった燐子はそれにも気付かず、鼻をひくつかせて抹茶の香りを楽しんでいた。
しかし、フォークを片手に今すぐにでも食べられる準備を整えた瞬間、すうっと顔色を変え、真剣な面持ちになった。
(しまった。今、私は下手を打ったのか)
日曜日は、二度更新致します。
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