腹切り 壱
強烈な喉の乾きを覚えて、燐子は身動ぎしながら瞳を開けた。
数秒だけ続いた倦怠感も、窓から入ってくる新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んでいるうちに霧散して、一分と経たずに完全に覚醒した。
何か、夢を見ていたような気がする。懐かしい夢を。
なのに、それがどんなものだったか思い出せない。
夢などそんなものかと、燐子はもう一度目を瞑って、開いた。
体を起き上がらせながら自分が床ではなく、寝台の上に寝かされていたことに驚く。
頭上の窓の外へと視線を向ける。
そこには美しい山々と、緩やかな流れを湛えた幾筋もの細い川が見える。
ここまでくると、一つの大きな湖に小さな陸地が浮島のように存在しているような印象を受けるが、川の横幅の細さから考えても、きっと元からこの辺りはこういう地形だったのだろう。
異なる世界、か。
そんな理解の範疇から飛び出した場所に居ても、腹も減れば、眠くもなる自分がどこかおかしかった。しかし口を開いてみても、漏れるのは不気味で渇いた笑いだけだ。
鳥の囀りが川の上に浮かぶ朝靄の中から聞こえてくる。
空気感や気温は日の本の春を連想させる暖かさに包まれているのだが、当然、鶯の声も、梅の花も、桜の花も、ない。
それどころか、私自身さえもない。
笑えるものだ。最後の最後は家名のために、父と同胞たちとともに命を賭して戦ったというのに、今やその家名も存在ごと燃え尽きた。
あの日の火炎が、私の体と心だけを残して、周囲の物を軒並み焼き尽くしてしまったかのようだ。
最早、この命に意味はない。
誇りも誉れもないのであれば、腹を切って死のう。
そうすることで、私は侍として消えることができる気がしてならない。
侍としての身分がないこの世界では、魂さえ清廉で誇り高くあれば、それはもう名実共に『侍』なのではないか?
その考えが、燐子の中の薄暗い炎に薪をくべた。
善は急げだ、と燐子は割腹の準備をしようと決めたのだが、ふと気がつけば自分が身につけていた一切の道具が消えてしまっている。
腰の鎧も、小太刀も、己の魂とも言うべき太刀もない。いや、それどころか服さえ違うものに変わってしまっていた。
慌てて布団を捲り、それから寝台の下を探すも、埃一つ見当たらない。
今唯一、自分と日の本とを繋ぎ止めていた宝物を失ってしまい、燐子はちょっとした錯乱状態であった。
不意に、どこを探しても見当たらず途方に暮れていた燐子の後方から、誰かが声をかけた。
「探しものはコレ?」
声を耳にして素早く振り向くと、そこには昨日燐子が斬りかかった高飛車な女が――ミルフィが立っていた。
エミリオの姉だと説明されていた彼女は、両手に一本ずつ、太刀と小太刀を握って左右に振っていたのだが、それを目撃した燐子は、血相を変えて彼女に飛びかかるようにして掴みかかった。
彼女の短絡的とも言える行動を予想していなかったらしいミルフィは、彼女に飛びかかられて、まともに躱すこともできずに二人して床に倒れ込んだ。
情けのない声と共に派手な音を立てた彼女たちだったが、あまりに燐子の顔が近すぎたためか、動揺を隠せずに叫び声を上げたミルフィへ、燐子は迷惑極まりないといった表情で睨みつけた。
「貴様、どういうつもりだ…!」
「わ、ちょ、冗談だって」
「お前たち異世界人は、随分と下らない冗談を好むのだな」
「何よ、ちょっとからかっただけじゃない、どきなさいよ!」
こっちは敗戦から先、肉親の血で手を染めながら、恥を晒して生き延びてしまった上に、違う世界なんてワケの分からない御伽噺の中に迷い込んでしまったのだというのに。
限界なんだ、もう。
まともではいられない、まともでいたら壊れてしまう。
「知るものか、私は、このような、このようなことでっ…!」
ミルフィと揉みくちゃになりながら、燐子は自分が何をしているのか分からなくなってしまっていた。
自分の下で彼女が「どこ触ってんのよ!」と大声を上げているが、今はそんな声でさえも燐子を困惑させた。
ぎらりと鈍色に輝いた燐子の瞳に射抜かれて、ミルフィはようやく観念したように謝罪を繰り返し、太刀と小太刀を燐子の胸に突き返した。
ミルフィは、その二本を大事そうに抱きしめた彼女を、息を荒げながらもじっとりとした目つきで観察していたのだが、次第に罪悪感に駆られて、もう一度だけ真摯な口調で謝った。
しかし、燐子はそれを聞いてもいじけたように「黙れ」と吐き捨てるだけだったので、ミルフィは謝罪したことを後悔した。
刀を抱きしめて、腕と膝の間の隙間に顔を埋めた燐子に、渋々といった様子で再び彼女は声をかける。
「あのさぁ、ご飯食べないの」
「…」
「ねぇ、とりあえず食べなよ」
「馬鹿者が、向こうへ行け」魂の抜けた人形のように弱々しい声で相手を拒絶する。
「あぁもう!行くわよ!」
彼女の態度に我慢の限界が来たらしいミルフィは、無理やり燐子の腕を掴み立ち上がらせた。
彼女の力が想像していた以上に強くて、引っ張り上げられた燐子は、驚きに小さな声を漏らした。
そうして、猪突猛進に突き進むミルフィに押され、連れられるがまま部屋の敷居をいくつか跨いだ。
そうして昨日ドリトンと話を交わした、大きな机のある部屋に移動させられると、そこにはスプーンを片手にこちらを見つめるドリトンと、口の周りをミルクで白く染めたエミリオがいた。
最初のうちは、自分の孫が力ずくで客人を引っ張ってきたことで、呆気にとられていた様子のドリトンだったが、直ぐに苦笑を浮かべてミルフィへ手を放してあげるように伝えた。
彼女自身、それを言われるまで腕を掴んでいたことを忘れていたため、慌てて燐子から離れた。ただし、突然放り棄てられたようにされた燐子は、かすかに顔を曇らせる。
胸に掻き抱いていた二本の刀を、置き場所に迷うようにして机の上に乗せた彼女は、自分の正面に、ミルフィの手によって運ばれてくる食べ物を不思議そうな表情で見守っていた。
木の器に入った白いドロッとしたスープの中に、よく分からない野菜のようなものが角切りにされて浮かんでいる。
そして香ばしい香りを放つ謎の小麦色の食べ物。それから、細長い筒になみなみに注がれた真っ白い飲み物。
まさかこれは私の分なのか。
食事を運んできた彼女をまじまじと見るが、ミルフィは鼻を鳴らして、「残すんじゃないわよ」と小言を漏らしただけだ。
それを優しい声で諫めたドリトンが加えて食事を勧める。
「こ、こんな得体の知れないものを食えと申すのか?」
「じゃあ食べなくていいわよ」とミルフィが、焼き魚のようなものを乗せた皿を片手に声を荒げる。
あれは美味しそうだ。
そう考えた瞬間に空腹感が目を覚ましたようで、口内に唾液が充満した。
腹を斬ろうと決めたのに、腹を満たさねばその気力すら湧かない自分が腹ただしい。
彼女のやるせなさを漂わせた面持ちをどう勘違いしたのかは分からないが、エミリオが元気づけるように明るく笑って「食べよう、燐子さん」と告げた。
こんな子どもにまで気を遣わせて、恥と思わない大人は大人ではあるまい。
腹を切る前から気品を損ねては意味がない。燐子はエミリオの提案に従って席に着いた。