沐浴抒溷
「――っと」
魔王の拠点に辿り着いたレイは、何事もなかったかのようにふんわりと着地する。
「あぁ、疲れました」
レイはそう呟くと、髪を掻き上げる。ふんわりと舞い上がった白髪は、落ちながら伸びていく。瞬く間に、魔王軍副官のテウメの姿へと変貌した。
「無駄に怪我するのも大変ですわ」
あれだけボロボロだった体も、嘘のように元通りになっていた。ただ、汚れだけはそのままだった。
(さて、体を綺麗にしましょうか。こんな汚れたままでは、魔王様には会えません)
「とてとてちゃん」
そう名を呼ぶと、どこからともなく小さな魔物が現れる。その名の通り、とてとて歩く。頭に、新しい服を乗せていた。
けむくじゃらの丸にうさぎの耳のようなものが生えていて、魔物にしては愛らしい。彼女の前に辿り着くと、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「ありがとうございます。いい子いい子してあげますね」
彼女は拾い上げると、優しく撫でた。とてとてちゃんは、心地良さそうに目を細めた。
「あぁ、ごめんなさい。貴方のふわふわな毛に、土の汚れがついてしまいましたわ。一緒にお清めに参りましょう」
「とととぉ!」
独特な鳴き声で、とてとてちゃんは「ありがとう」と答えた。
そして、テウメはとてとてちゃんを抱えて歩き始める。
(こんなに汚れた姿は、魔王様に見せられません。ちゃんと自分自身で綺麗にしなくては)
体や服を綺麗にすることくらい、魔術を使えば容易いことだった。けれど、それでは彼女が満足できなかった。自分自身の手で、綺麗にしたかったのだ。
(人間のことはほとんど理解できないけれど、体の清潔を保ちたいという気持ちは共感できるようになりました。あの頃は、馬鹿にしていたけれど……)
魔王に出会うよりもずっと前、まだ誰にも仕えていなかった頃。彼女は、別世界の住人だった。そして、生まれながらの悪で、穢れとして恐れられていた。そんな彼女と戦っていたのは、巫女と呼ばれる者達。彼女に、良くも悪くも影響を与えた存在。
穢れそのものである彼女には、自らを美しく保つという概念がそもそもなかった。お清めとして毎日入浴する巫女の行為が、不思議でならなかった。
(魔王様にこの体と名を頂いた。大切にしなくては。汚れは落とさなくては。ちゃんと意味のある行為だったのですね。はぁ……もしも、彼女達が生きていたらお礼がしたかったです)
もう、数百年も前のことだ。その世界はとっくに荒廃し、巫女達も亡くなっている。世界を跨ぐ力こそあれど、時を駆ける力は魔王ですら持ち合わせていない。感謝を伝えることは不可能だった。
(まぁ、もう、生きていないので……どうでもいいですね)
彼女は、小さく鼻で笑う。それを、とてとてちゃんは不思議そうな瞳で見上げていた。
「うふふ……さ、到着しましたよ。穢れも汚れも全て清めて、美しくなりましょうね」
そう言って、踏み込んだ空間には、不自然に扉だけがあった。
彼女らが根城にする空間は、歪でぐちゃぐちゃだ。どんな形にでも、どんな姿にでもすることができる。そのため、わざわざ移動する必要もなかったのだが、これは彼女のこだわりだった。人間達は、自由自在に場所を変形させたりはしない。決まった場所が必ずあった。
(この世界の人間達も、体を清めています。けれど、私が元居た世界とはまるで頻度が違いますわ。あの巫女達は、毎日毎日……朝と夜、戦いの後はお清めを行っていた。きっと、あれくらいしなければ清めたとは言えないのでしょう)
この場所は、絶対に浴場だと定義する。ある意味、ここだけは歪みのない特別な空間だった。見た姿を全く同じように再現することで、彼女は安心していた。
それほど、彼女は本気で清めることを理解したかった。全ては、親愛なる魔王のために。
「さあ、開けますよ」
扉を開けると、中から熱気と湯気が溢れ出す。
(どんな反応をしてくれますかね? 驚き過ぎて、死んでしまわなければいいのですが……)
「とててて!?」
お風呂を初めて経験したとてとてちゃんは、毛を逆立てた。その反応は、彼女にとって想定内だったが、思わず笑ってしまった。
「大丈夫ですよ。怖がらないで? 私がいます。それに、ほら……よく感じて下さい。とても温かくて、落ち着きませんか?」
「とて? ととととぉ……ふぅぅぅん……とてとてぇ~」
警戒していたとてとてちゃんも、緊張の糸を解く。そして、言われた通りに浴場の雰囲気を堪能してみた。すると、確かに温かく心地いい。とてとてちゃんは、とろけるような表情を浮かべた。
「ね? 何も怖がらなくていいんです」
彼女はそう言って、中へと入る。内部は、文字通りの大浴場。ただ、先客はいない。魔物には体を洗うという概念はないし、必要もないからだ。
(身を清め、私達は美しくなるのです。もう穢れなどとは言わせませんわ……)
一度、とてとてちゃんを台上へと降ろす。
「ここに、着替えを置いておいてくれますか?」
「とて!」
とてとてちゃんは頷き、ずっと頭に乗せていた服をそこに置いた。それを確認した後、彼女は素早く服を脱ぎ捨て、共に浴室へと入った。
「さ、私が先に洗うので、とてとてちゃんはここでちょっと待っていて下さいね。心身共にびっくりしてしまわないように、お清め……お風呂がどういうものか見ておきましょうね」
「とてて~♪」
彼女は微笑み、椅子に座る。そして、浴槽からお湯をくみ取り、頭から被る。少し熱過ぎるくらいが、心地良い。そして、その心地良さが今日という1日を自然と振り返らせる。
(本当、演じるというのも楽でありませんわね。でも、本番はこれから。これくらいで音を上げていては、最後の最後で失敗してしまうかもしれません。ここから、気合というものを入れて、より私の作り上げたレイナルを極めませんと。終焉を、より意味のあるものとするために。アレの心に刻まれるようにするために)
レイナル――レイは、元々本当に人間だった。テウメが、彼として語った経歴はほとんど真実だ。貴族の血筋であること、命乞いをし、魔王軍へと下ったこと。その後、オースと同じ細胞を移植されたのも、それに耐え切れず右腕が壊死してしまったことも。
嘘は、それから先にある。レイは、壊死した右腕から菌が全身に広がって衰弱した。そして、そのまま意識を失い、瀕死状態に陥った。そこに、テウメが目を付けた。年頃と出身国が同じというアドバンテージを利用したのだ。魔王軍の下に来た時期は、本来オースと大差はない。
結果、わがまま貴族として有名だったレイの意識は消えて抜け殻に。そこにテウメが憑依し、黒髪が白髪に、透き通るような青い目が黄色い目と変化した。
(飴と鞭を使い分けることが、アレにとっては重要。優しいだけでは、アレの心は掴めません。かといって、厳しさだけでは反発を抱くでしょう。絶妙なバランス、レイナルという人間に依存させることで、失った時の絶望と怒りは計り知れないものになるはずです。1番の問題は、人間達が思った通りに動いてくれるかどうか……)
「――とててて! とーて! とてとてててっ!」
「はっ!」
とてとてちゃんの声に、彼女は現実へと引き戻される。すっかり、考え込んでしまっていたようだ。しばらく硬直して動かない彼女の姿を見て不安になり、とてとてちゃんはその位置から叫んだのだ。
「あぁ、ごめんなさい。すっかり思案に耽っていました。心配しないで下さい。さ、おまたせしました。とりあえず、お湯で土はある程度取れたと思いますので、次はとてとてちゃんの番にしましょう。こっちにいらっしゃい。ふわふわにしてあげますよ」
「てぇー!」
彼女は笑顔を浮かべ、手招きをする。とてとてちゃんは、待っていましたと言わんばかりに飛び跳ね、勢いよく駆けていった。




