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The other side story ~the passed days~  作者: 長谷川るり
9/10

9話

 幹夫と景子の破局から、およそ3年近くが経った頃だろうか。その日、景子は休日を利用して 久し振りに写真展に出掛けようと車を走らせる。駅前のターミナルを徐行しながら通り過ぎようとしたその時、一人の婦人が背中を丸めてしゃがみ込んでいるのが目に飛び込む。気になった景子は、急遽ハンドルを切って、ターミナル内に車を停めた。こういう時、躊躇なく自然と体が動くのは、看護師という職業柄かもしれない。車から降り、景子はその婦人の周りにちらほらと出来かけた小さな人だかりに近付いた。

「どうしました?」

周りの取り巻きは、何も返事を返さない。ただ情報を持っている者を探して皆キョロキョロしているだけだ。景子は更にしゃがみ込んで、背中を丸めている婦人に声を掛けた。

「どうしました?どこか具合でも悪いですか」

「ちょっとふらふらっとしちゃって・・・。でも大丈夫です。少し休んだら、歩けると思いますので」

そう話を聞きながら、景子はその婦人の手首に指を当てた。

「私、看護師をしている者です。ちょっと脈取らせてもらいますね」

そう話しながら、問診が続く。

「普段、血圧はいかがですか?」

「・・・高いです。ずっとお薬飲んでたんですけど・・・ここ最近ちょっと飲んでなくて・・・」

バツが悪そうに、語尾が尻切れトンボになる。

「こういう事、よくありますか?」

一通り脈拍を確認した景子に、その婦人が顔をゆっくりと上げて声を上げた。

「・・・景ちゃん?!」

そこで景子も初めて しゃがみ込んでいる婦人の顔をまじまじと覗き込んだ。

「・・・おばさん?!」

「景子ちゃん?・・・本当に景ちゃんなの?」


 そこから母は、景子の車で家まで送ってもらう途中、懐かしさと嬉しさで気分が高揚し、倒したシートに横になって目を瞑ったまま、口だけが別人の様に元気に動いた。

「景ちゃんに声掛けてもらえて、本当助かったぁ。景ちゃんが一緒なら、安心だわ」

「病院、行かなくて大丈夫ですか?お送りしますよ」

「きっと家で少し休めば治るわよ」

「さっき、お薬飲んでないって・・・。それって・・・今の担当医の先生の判断ですか?」

母は少しだけバツが悪そうに、答えの歯切れが悪くなる。

「いや・・・そうじゃないんだけど・・・」

景子はゆっくりと運転しながら、言葉を選んだ。

「・・・まぁ・・・私が言うまでもないとは思うんですけど・・・血圧のお薬は、決められた通りに飲み続けないと・・・。ま、充分お分かりだとは思いますけど・・・」

「・・・そうよね・・・」

母も素直にそう答えた。

「なんで・・・お薬、飲むの止めちゃったんですか?以前はそんな事、なかったですよね・・・」

母の声のトーンが下がる。

「最近・・・病院さぼっちゃって・・・」

「・・・・・・」

信号で止まった景子が、助手席に横たわる母にゆっくりと視線を移した。

「おっきな病院って、待つのも長いし、診察終わっても薬もらうのに又時間掛かって。病院行くだけでぐったりしちゃって。そう考えると、どんどん億劫になっちゃってね・・・体調も落ち着いてたから、つい いいかなって・・・」

母は額に手を当てた。

「それじゃ駄目ね、やっぱり。景ちゃんにも、こんな迷惑かける事になっちゃって・・・」

「私は全然迷惑だなんて。そんな事より、本当に血圧は油断すると怖いですから・・・」

「そうね」

素直に認めるや否や、母の声のボリュームが上がる。

「街でバッタリ会ったら、美味しい物食べに行こうって言ってたのに・・・これじゃあね・・・。あ!じゃ、今度今日のお礼にどこかご飯行きましょ。ね?」

景子がはっきりとした返事をしないうちに、車は家のある団地の下に到着する。早速シートベルトを外して起き上がろうとする母に、景子は待ったを掛けた。

「歩けます?もしまだ目が回ってる様なら、少しここで休んで様子見ましょうか」

倒したシートから背中を起こしてみる母だ。

「ゆっくり歩いてみるわ。景ちゃんにちょっとつかまらせてもらいながら」

景子はエンジンを切らずに、ハンドルから手を離した。

「・・・幹夫さん・・・お家にいらっしゃいますか?」

「あ・・・」

思い出した様に母の声が漏れる。

「居ないんじゃない?多分この時間だし、仕事に行ってるわよ」

「・・・・・・」

曖昧な答えでは納得できない景子に、母も同調する。

「そうよね・・・顔合わすの、気まずいよね・・・」

そして母が「あっ!」と声を上げた。

「駐車場見てみて。あの子、出掛ける時は決まって車だから。あっちの角から三つ目の53番」

車がない事を確認した景子は、少しほっとした顔で母を車から降ろし、家のある3階まで介助する。

 まだ幹夫と付き合っていた頃に訪れた時と、家の中は何も変わっておらず、ただ懐かしさだけが漂う部屋にほっとする景子だ。そしてもう一人、弟の祐司もその懐かしさに拍車を掛けた。驚いて少々慌てている様にも見える祐司には、当時鬱病の治療中だった名残りを少し感じさせた。仕事に行った筈の母親が急に具合が悪くなって、付き添いと一緒に帰ってきたのだから、心配と驚きでああいう表情になっても当然だ。そんな理由に納得しながら、景子はソファに横になる母の血圧を測る。その脇を行ったり来たりそわそわ落ち着かない様子の祐司だ。

「祐司君、安心して。おばさんの具合、もう少し様子見て、病院行った方が良さそうなら、きちんとお連れするから」

それを聞いた祐司よりも母が、景子に質問する。

「景ちゃんは今日、仕事お休みだったの?」

「はい」

「あら~。でも、どこかお出掛けする予定だったんでしょ?大丈夫?私なら平気だから、もし急いでるなら遠慮しないで行っていいからね」

「大丈夫です。ぜ~んぜん大した用事じゃないですから」

にっこり笑って部屋の中を見回して、景子がしみじみと呟いた。

「変わってないですね。懐かしくて・・・変に落ち着いちゃいます」

すると、やはり母はこの上なく嬉しそうだ。

「私だって。景ちゃんがこの部屋にいてくれると、あの時に戻ったみたいな気がしちゃう」

その時だ。玄関でガチャと扉の音がして、その音に反応して祐司が飛ぶように玄関に向かう。急に景子の心臓がドキンと縮こまる。あの音といい、慌てた祐司の様子といい、幹夫が帰ってきた事を瞬時に察した景子は、それまで呑気に思い出に浸っていた自分を引っ込めて背筋を伸ばした。心臓が体から飛び出してしまうんじゃないかと思うほど緊張が高まった景子は、反射的に自分の鞄を手に持った。玄関で何か話している声がボソボソと聞こえるけれど なかなか部屋に顔を出さないこの何とも言えない時間に、景子は幹夫にこの状況を説明する言葉を頭の中で用意する。急に黙ってしまった景子を変に思った母が、目を薄っすら開けた。

「どうしたの?」

「あ・・・多分・・・幹夫さん帰ってこられたのかも・・・」

そう言いかけたところに勢いよく入ってくる幹夫が、目の前に立っているそこに居るはずのない景子を見て、足を止めた。

「なんで?」

用意していた筈の言葉は、当然景子の口から出てこない。そこで母が説明した。

「めまいがして、帰ってきちゃった」

「血圧は?」

まるで景子がそこに居ないかのような幹夫の振る舞いに、景子は壁と同化する様に立って静かに俯いた。

「景ちゃんが測ってくれてね」

急に自分の名前を出された景子は、再び緊張を強めた。すると幹夫は、景子の方を見もせずに、母に強い口調で食って掛かった。

「なんで彼女がここにいるのよ?頼る相手違うでしょ?」

「いや・・・幹夫、あのね・・・」

一生懸命景子を守ろうとする母の言葉など聞かずに、幹夫は更に強い口調になる。

「俺に電話くれりゃいいでしょ?なんで今更彼女なのよ?」

「だから・・・」

勢いに拍車の掛かった幹夫になんとか説明しようと、母が無理に起き上がろうとするのを見て、今度は景子が割って入った。

「駅でおばさんが具合悪そうにしてるの見掛けて・・・うずくまってたから車に乗ってもらったの。家に帰るところだって聞いたから・・・。余計な事してごめんね」

背中を丸めて謝る景子を不憫に思った母が、今度は少し声を強めた。

「余計な事なんかじゃない。本当、景ちゃんに声掛けてもらって助かったんだから。幹に電話したくたって、目が回って電話なんか出来る状態じゃなかったんだから」

「・・・・・・」

ようやく口を閉ざした幹夫が、黙ったまま玄関に去っていった。しかし今度は玄関から何やらボソボソ聞こえてくる。

「誰か来てるの?」

母が玄関の幹夫に質問を投げる。思いがけなく幹夫が帰ってきた時はドキッとしたが、危うく修羅場にならずに済んだ事にほっとしたのも束の間、景子は妙な胸騒ぎを覚える。不安が脈拍に背中を押される様に膨れ上がった頃だ。幹夫が再び居間に姿を見せたが、恐れていた予想と反して、隣には誰もいなかった。そしてその幹夫が今度は景子の方へ顔を向けた。吸った息を吐き出せずにいる景子に、幹夫は頭を下げた。

「母がお世話になりました。たすかりました。ありがとうございました」

他人行儀で とってもとっても冷たい言葉ではあったけれど、景子は言いたい事を一言だけ、震える声に乗せた。

「・・・ごめんなさい。勝手に上がり込んで」

そして母の近くにしゃがんで挨拶を交わすと、母は景子の手をぎゅっと握った。景子が居間から出ていくのを待たずに、背後で幹夫の声がした。

「彼女連れてきてる。紹介したい。寝たままでいいからさ、会うだけ会ってもらいたい」

景子の胸の奥が勝手にきゅっと反応する。玄関には困った顔の祐司が、何故か申し訳なさそうに立っている。そしてその隣にももう一人、首をすくめる様にして申し訳なさそうに俯いている女性が、胸に抱えたバッグをぎゅっと握りしめて立っていた。本来であれば 来てはいけない幹夫達家族の現在に、間違えて足を踏み入れてしまった場違いな景子は、二人に頭を下げた。そして、今度は祐司の方に顔を上げた。

「祐司君、お兄ちゃん怒らせちゃったかも。ごめんね。あと・・・お願いね」

相変わらず困った顔のままだったが、祐司は必死にこくりと頭を一回頷かせた。すると、そのすぐ後に居間から出てくる足音がして、景子の背後で幹夫の声がする。

「ユキ、おいで」

玄関の壁に張り付くように俯いていた若い女の子の手を幹夫が引いて、続けて言った。

「祐司も来て」

ようやく靴を履いて、まだ玄関にいる景子の事など、一切気に留めていないといった素振りの幹夫だ。景子は誰もいなくなった玄関の扉を静かに開けて、微かな声で言った。

「お邪魔しました・・・」

景子は自分の存在を消す様に、静かに玄関の扉を閉めた。

 車に乗り込んで、大きなため息を吐くと、ようやくいつもの自分の世界に戻ってきた気持ちになる。しかしまだ胸がどきどきいっているから、景子は飲みかけの缶コーヒーに口を付けた。景子が時計を見ながら、予定よりも遅くなってしまったけれど、今から写真展へ行こうか考えているところへ電話が鳴る。

「もしもし?景子ちゃん?俺。今何してた?」

「・・・写真展行こうと思って・・・その途中。どうしたの?急に」

「あ!じゃ、俺も一緒に行こうかな」

「・・・仕事は?」

「今日はもう終わり!」

「非番?」

「そ!」

「寝なくて平気なの?」

その時、少し離れた所に幹夫とさっきの彼女の姿を見付ける景子だ。耳に当てた電話からは、友達の紹介で最近付き合い始めた年下彼氏 義行よしゆきの元気な声が一方的に聞こえている。

「寝るより、景子ちゃんと会った方が元気になるから」

幹夫の車まで後をついて歩く俯いた彼女は、さっきと同様、まるで鞄にしがみつく様に抱きかかえている。二人の間に笑顔がない事が気になった景子は、少し責任を感じて、二人を目で追った。すると、返事のしなくなった電話に少し声のトーンを高める義行だ。

「またまたぁ、軽くあしらったでしょう。鼻でふっと笑うの聞こえたからね」

「そんな事ないよ」

心のこもらない相槌を打つ景子だったが、義行には伝わらなかった事を良い事に、再び幹夫達の乗る車に意識を向けた。何か不穏な空気を感じさせる幹夫達の表情から目が離せない景子だ。

「今どこ?」

「あ・・・なんて説明したらいいかな・・・」

景子の視界に映る、幹夫の車の助手席に座る彼女の様子がおかしい。運転席の幹夫も、助手席に体を向けて何か必死に話をしている様子だ。もし自分が原因だとしたら・・・そんな事を考えてソワソワする景子の耳に、義行の声が届く。

「写真展って、どこでやってんの?」

「・・・小平」

それを聞いて、義行のテンションが上がる。

「おう!近いじゃん!じゃ、駅前で待ってる。何分位で来られる?」

「調べて、メールする」

電話を切った後も、幹夫の車の中では暫く笑顔のない緊迫した空気が立ち込めていて、その内車は発進していった。遠くに見える幹夫だったが、シートベルトを締めてハンドルを握って車を発進させる時、小さくため息を吐いた様な素振りがどうしても景子の心を揺さぶるのだった。ついさっき見えてしまった 今にも泣き出しそうな子供の様に痛々し気な助手席の彼女が、景子の目に焼き付いて離れない。その前にも、玄関の壁に同化して佇む彼女は、まるでご主人様に従順な愛犬の様で、強情で気が強くて、それでいて他に寂しさを埋めてくれる人があれば 尻尾を振ってついていく様な自分とは真逆の相手を選んだ幹夫に複雑な気持ちになる景子だ。嫉妬ではない。祝福でも・・・ない。もっとこうパレットの上で何色もの色が混ざり合ってしまったみたいな、そんな感じだ。これで良かった様な、でも寂しい様な・・・。いや、でも強いて言うなら、幸せになってもらいたいという前向きな気持ちが大半だ。ただそこにちょっとだけ、古傷の いわば乾いた絵具が溶け出して混ざってしまっただけの事だ。

 そんな事を、数分前の映像を頭の中で再生させながらぼんやり考える景子が、手に持った携帯にハッと気付く。慌てて義行にメッセージを送ると、待ってましたと言わんばかりの速攻リターンだ。


 義行は約束の場所で景子の車を見付けるなり、向日葵みたいに天真爛漫な笑顔を弾けさせた。4人兄弟の末っ子で、両親以上に祖父母や歳の離れた兄や姉達からはアイドルみたいに可愛がられてきた証なんだろうと、景子は彼のこの笑顔を見る度によく思う。そして同時に、警察官の彼がこんな表情を見せていて果たして仕事に支障はないんだろうかと不安にもなるのだった。きっと意図的に使い分けてる訳ではないだろうけれど。友人に紹介されたばかりの頃、景子は街中で勤務中の彼を偶然見掛けた事がある。その時のきりっとした顔つきに妙な男らしさを感じてしまった景子だ。いわば“ギャップ萌え”というやつかもしれない。その後何度か食事に行った時に見せる彼の夏の向日葵みたいな笑顔に、景子が“かわいい”と感じてしまったのも否定できないところだ。

 義行が助手席のドアを開けるなり言った。

「あれ?ハンカチ落ちてるよ」

助手席のシートとドアの隙間に落ちていたらしい。それを拾い上げ景子に渡すと、義行はコンビニの袋から缶コーヒーを取り出して景子に差し出した。

「まさか、本当に会えると思ってなかった」

「・・・そうなの?」

そう返事を返した景子だったが、今さっき受け取ったハンカチに気を取られていて、正直半分以上うわの空だ。景子のハンカチではない。となると・・・確実にさっき乗せた幹夫の母親の物に違いない。どうやって届けよう。どうやって返そう・・・。その事ばかりが気になって、景子は車を進める事が出来なかった。しかし隣の義行は、発進しない事を何とも感じてはいなかった。

「映画に行くって言われたら・・・多分寝ちゃうからやばいけど、写真展ならね。でもさ、景子ちゃん写真展なんて良く行くの?」

「・・・よくって程でもない。ほんと、たま~に。今日も凄い久し振り」

景子はまだ写真の事を義行に話してはいない。

「好きな写真家とか、いるの?」

「・・・そりゃ何人かはね。でもこの人だけに影響受けてる・・・とかは無いかな」

「影響?!・・・影響って事は、景子ちゃんも自分で写真撮ったりするの?」

景子はうっかり口が滑って慌てて修正する。

「全然!そんなそんな」

「撮ってみればいいのに」

「無理無理。そんな簡単じゃないよ、きっと」

こういう時、やはり警察官だ、と感心してしまう景子だ。ちょっとした会話の中の言葉を敏感に拾う辺り。さすがだ・・・いや、怖い・・・と思う景子だ。でも、多分自分にはこういう人の方がいいのだ、とも思う。嘘を見抜かれるという事は嘘が付けない相手という事だ。だから裏も表もなく正直に生きようとする。当時幹夫にしてしまったみたいに あんな風にもう人を傷付けたくない。そう思った景子は、夕飯を済ませた帰りの車の中で、思い切ってハンカチを出して言った。

「今日ね、実はもっと早くに写真展行こうとしてたんだけど・・・」

雑談というよりは肩に少し力の入った景子に、義行はそれまでの笑顔をそっとしまった。

「途中で・・・知り合いのお母さんがうずくまってるの見掛けて・・・それでお家に送ったりして遅くなっちゃったの」

思った様な打ち明け話でもなく、景子の肩に力の入った理由があやふやのまま、義行は遠慮気味にふっと笑顔を見せた。

「お陰で、こっちはデート出来た」

「・・・うん」

晴れない顔の景子に、義行が質問した。

「そのお友達のお母さん、大丈夫だったの?」

「うん。あ・・・多分。送って・・・すぐ出てきちゃったから」

義行は景子の曇った顔の原因を探す。

「その人に暫く付き添ってあげなかった事・・・後悔してるの?もしかして」

「あ・・・いや、そういう訳じゃない。その・・・お家の人に引き継いできたから」

「なんだ。そっか。俺はてっきり景子ちゃんが、看護師として無責任な事しちゃったって反省して元気がないのかと思った。お家の人に説明してきたんなら、平気でしょ?あ・・その後どうなったか心配なの?連絡して聞いてみたら?」

「あ・・・そうじゃなくて・・・さっきのハンカチ。落ちてた・・・」

「あぁ、あれ?」

「そう。拾ってくれたやつ」

「・・・あれが?」

「あれ・・・その・・・あれ私のじゃなくて」

「そうなんだ。その・・・お友達のお母さん乗せた時にって事か」

「うん、そう。多分・・・そうだと思う」

その言葉の後を待っていた義行が、暫く経って首をゆっくり傾げた。

「・・・で?」

「あ!だから・・・そのハンカチ返さなきゃならない訳で・・・」

「・・・だね」

「うん」

「何か、返せない訳でもあんの?」

「・・・・・・」

返事に躊躇う景子の様子を見て、義行がハッとする。

「もしかして、これから返しに行こうと思ってた?あ~、俺がいるから遠慮したんだ。ごめん。言ってよ、そんな事なら」

「あ・・・ううん、別に遠慮なんて・・・」

「どこ?その人の家って」

「・・・立川」

「景ちゃん家の方か・・・」

何かを考えていた義行が、急ににこっといつもの向日葵の笑顔を景子に向けた。

「俺もこのまま乗ってく。いい?」

何か勘づいてしまったのだと思うと、正直に全てを打ち明けようとしていた筈の景子なのに、やはり内心穏やかではいられない。

「俺、車で待ってるからさ。景子ちゃんはその人に届けておいでよ。そしたら、様子もわかるし安心でしょ?」

景子が返事が出来ないのは言うまでもない。

「・・・やっぱいいや。今日は」

「どうして?俺は全然いいよ。今バイバイするより長く一緒にいられるし」

本当にそれだけの理由だろうか。つい義行の本心を探ってしまう景子だ。だが、景子の目に映る義行は、変わらない向日葵の笑顔で・・・いわば笑顔のヴェールで本当の心が遮られている様にさえ感じてしまう景子だ。

「今日はやめておく。ハンカチは、また今度」

じっと景子を見つめるその義行の真意は一体何なんだろう。やはり何か腑に落ちないものを感じているのだろうか?それとも、本当に俺に遠慮してない?っていう思いやりだろうか?そんな事を考えながら、景子は口を開いた。

「少し経ってから行った方が、体調も分かるし・・・今日の今日じゃ・・・ね。ハンカチ預かってるって事だけ、後で連絡しとく」

本当はこんな嘘、つくつもりじゃなかった。正直に、今日偶然会ってお家迄送ったのは、元カレのお母さんだって事を打ち明けるつもりだったのに。またこうして、とっさに嘘をついて、すぐにそれがバレて、相手を傷付けてしまうだろう自分に心の中で小さな溜め息を吐く景子だ。

 胸の隅に小さな罪悪感を抱えながら、景子の運転する車は暗くなった道を進む。

「景子ちゃん家・・・行きたい」

実は義行、まだ景子の部屋に行った事がない。

「もう・・・遅いよ。寮、帰った方が良くない?」

薄っすらと壁を感じる景子に、義行が物悲しい表情を向けた。

「まだ、駄目?」

「・・・・・・」

猫が甘えてすり寄ってくる様な空気を助手席から感じた景子は、視線を前から外さない。昔、幹夫と付き合う前の事だ。景子が車で送ってくれた幹夫に部屋に上がってコーヒー一杯誘った事がある。あの時幹夫は、『こんな時間に一人暮らしの女性の家に上がるのは・・・ちょっと抵抗があります』と言った思い出が蘇ってきて、勝手に切なくなる景子だ。

「景子ちゃんってさ、今までの彼氏にも あんまり『好き』とか言わなかったの?」

『今までの彼氏』というワードが、自分の頭の中とリンクしてドキッとする景子。

「それとも、俺だから?」

「・・・どうしたの?急に」

妙に神妙な空気を変えたくて、景子はふっと笑ってみせた。

「だってさ、俺ら付き合ってもう何か月も経つのに、一回も好きって言ってくれないし、未だに部屋にも上げてくれない」

ちょっとすねて口を尖らせる義行に、いつもの様に軽くあしらって応戦する景子だ。

「気のせいだよ。一回も言ってないなんて・・・数えてたの?」

「俺が言ってもさ、いっつも鼻で笑ってまともに取り合ってくれないし。『私も』とか『好きだよ』って絶対言ってくれないもん。本当に俺の事好き?」

「そりゃ・・・」

そう景子が言いかけたところで、義行が被せた。

「ねぇ、どっかで車止めて。ちょっと話したい」

「やだ・・・なんか取り調べみたい・・・」

景子の胸が緊張でどんどんと苦しくなる。しかしそれをごまかす様に、景子は小さく笑ってみせた。

「ごめん、ちょっとだけ」

これ、多分マジなやつだ・・・。そう感じながらハンドルを握る景子は、それからまもなく、コンビニの駐車場に車を停めた。車が停まるのを確認して、義行はそれまで流れていた音楽のボリュームを下げた。殆ど無音に近い車内に景子が緊張を高める。だから景子は、あえて大きく息を吸った。

「はい、おまわりさん。何ですか?」

すると義行は運転席に体を向けて、そっと景子の手に自分の手を重ねた。

「何か俺に言ってない事があるなら、何でも話して欲しい」

景子がちょっと笑って、煮詰まらない様にごまかしたり、『おまわりさん』などと呼んでちょっとからかってみるが、それに簡単に流されない義行だ。

「例えば・・・実は子供がいるとか・・・」

「・・・へ?なんで?・・・どうして急にそうなるの?」

「だって、一人暮らししてるって言いながら、絶対上げてもらえないし・・・。だとしたら、俺の事本当は好きじゃないとか・・・何か別の理由で俺とは付き合ってるけど、実際には心を許してくれてないんじゃないかって・・・」

「ちょっ・・・待って。私が『好き』って言わないだけで、そんなに疑う?」

「そりゃ、色々可能性を考えるでしょ」

義行の目が真剣だから、景子は静かに息を吸った。

「ごめん。私、そんなに自分の気持ちを言葉にしてないなんて思ってなくて・・・。これからは、なるべく言う様にするから・・・」

義行は景子をじっと見つめて、最後にはにこっといつもの向日葵の笑顔を向けた。しかし、質問はまだ終わらなかった。

「じゃ、もう一つ聞くね。なんで、家に入れてくれないの?」

「・・・それは・・・別に・・・」

「深い意味はないって?」

「・・・ないよ」

一瞬だけ義行に合わせた目を、景子はすぐに逸らした。すると義行は、またじーっと景子を見つめた。

「俺の事信じて、何でも話してよ。景子ちゃんに子供がいるっていうなら、その子に気に入ってもらえる様に頑張るし、もし・・・景子ちゃんが結婚してるんだとしたら・・・う~ん・・・それは立場上続ける訳にはいかないけど・・・。いや、立場上っていうか、人としてやっぱりそれは・・・そこは・・・今のままって訳にはいかないだろうから。だけど、そうだとしても、なんとか一緒に解決策を探していきたいと思う。だから一人で悩んだり、隠して苦しくなったりしないで欲しい」

そこまで聞いて少々呆気に取られて相槌を忘れてしまっていた景子が、我に返る。

「警察官って凄いわ・・・」

「・・・何が?」

「だって・・・凄い想像力」

「・・・今のはほんの一例で、もしもっと全然違って何か大きな事だとしても、それを受け止めて一緒に考えていきたいと思ってるからさ」

大真面目に話す義行から視線を前方に変えて、景子は再びハンドルに手を掛けて車を動かし始めた。

「待ってよ。まだ話終わってない」

「行こ」

「景子ちゃん。俺、真面目に話してんだよ」

「分かってる。だから私も真面目に言ってる」

「・・・怒ったの?勝手な事ばっか俺が言うから」

それを聞いて、景子はくすくすっと笑った。

「怒ってないよ、全然」

「じゃ・・・なんで?」

「・・・なんでって?」

「だって、話途中・・・っていうか、答え聞いてないし、まだ」

「そうだね。まだ言ってない」

「ほら。だからそこをちゃんと・・・」

景子はそれ以上義行に言わせなかった。

「来て、うち。それで、自分で見て、私が何か大きな事情抱えてるのかどうか、よっちゃんが判断して」

助手席から運転席の景子にぽかんとしている義行だ。

「私が今何か言うより、よっぽど信用できるでしょ?」


 少し緊張気味に景子の部屋に上がって、義行はゆっくり部屋を見回す。それを見て景子が又くすっと笑った。

「予定してなかった恋人が来ても平気って事。・・・わかった?」

義行は少々バツが悪そうに首をすくめた。

「ごめん。変な事色々言って」

「本当だよ~。急に子供がいるとか不倫とか、びっくりしたなんてもんじゃないからね」

「だから、ごめんって~」

「びっくり通り越して、笑い堪えるの必死だったわ」

あははははと明るい笑い声が部屋に広がる。この部屋に笑い声が響いたのは、本当に久し振りの事だった。

「何か飲む?」

「あ、じゃあコーヒー貰おっかな」

この部屋に男の人が来たのは、正にあの日幹夫が来て以来の事だった。ましてや、その人の為に淹れるコーヒーも何年振りの事だ。景子が思い出さない筈がない。

「普通?濃いめ?」

当時幹夫は“濃いめ”が好きだった事をぼんやり思い出している景子の耳に、義行の声が届く。

「あ、俺普通で」

そうだ。目の前のこの人は幹夫じゃない。それに幹夫はもう過去の人で、彼はもう他の人の恋人だ。

湯気の立ち昇るカップを二つ持って、景子はテーブルに置いた。すると義行が背中越しに言った。

「景子ちゃん、写真撮ってるじゃん」

見ると彼は、本棚から景子の写真集を取り出して広げていた。

「あ・・・」

「これ、全部景子ちゃんの撮ったやつでしょ?」

「あ・・・まぁ・・・」

景子の心臓の鼓動がまた容赦なく早くなる。

「これ、自分で本にしたの?」

正直に本当の事を言うか、それとも当たり障りなく答えるか、天の神様に試されてる気がする景子は、慎重に義行の顔色を窺う。

「・・・前に・・・知り合いが作ってくれて・・・」

やはり『元カレが』とは言えない景子だ。義行はペラペラと最後のページまで目を通して、言った。

「あ、本当だ。『記念に愛を込めて』って書いてある」

「・・・・・・」

固まってる景子を振り返って、義行が聞いた。

「・・・元カレからのプレゼント?」

これが再び天の神様から試されているんだとしたら、きっと本当の事を正直に言うまで こういう類の質問が続くのならば・・・そう感じた景子は、勇気を出して喉の奥を開いた。

「あ・・・まぁ・・・そうだけど・・・」

「へぇ~」

そう言いながら、義行はもう一度最初のページから見返している。一瞬にして部屋の空気が重たくなったのを感じて、景子は言い訳を口にした。

「別にその人との思い出の品だから取ってあるって訳じゃなくて、私だけの写真集なんてなかなか・・・」

必死な景子の顔をじっと見つめてから、義行が最後のページを開いた。

「じゃ、このページだけ切っちゃってもいい?」

胸の奥に密かに眠っている幹夫に対しての未練を見透かされて、その気持ちを断ち切る様に言われているみたいに感じた景子は、義行からの無言のプレッシャーを 苦し紛れに絞り出した笑顔でかわす。

「・・・どうぞ。それでよっちゃんの気が済むなら」

少しの間を置いて、義行が言った。

「景子ちゃんて、分かりやすいタイプだね」

悲し気な笑顔の義行に、言葉を詰まらせる景子だ。

「その人とは、なんで別れたの?」

その質問に危うく当時のこの部屋の映像を引っ張り出してきそうになる景子が、床に腰を下ろした。

「待って、待って。よっちゃん勘違いしてる。全然未練があるとか、そんなんじゃ全然ないから」

黙って景子を見つめる義行の顔が晴れない事に慌てる景子だ。

「コーヒー、冷めちゃうから、ほら、座って飲もう。てか、飲んで飲んで」

その言葉に誘導されて義行があぐらをかいて座る。

「ガサ入れみたいな事ばっかすると嫌われちゃうから、やめますか。せっかく部屋に上げてもらえたんだからね。これで満足しなくちゃ」

何か景子の胸に引っ掛かる。それが気のせいなのかどうか、景子自身にも分からない。コーヒーに口を付けた義行が慌ててカップから口を離した。

「熱っ!」

「ごめん、そんな熱かった?」

「ううん。俺、猫舌。油断してた」

記憶を巻き戻すと、確かに義行はアイスコーヒー派だ。ホットを飲んでいるのを見た事がない。うっかり幹夫の事なんか思い出しながらコーヒーを淹れたから、義行の好みなど景子の頭を霞めもしなかったのだ。

「ごめん。今アイスコーヒー淹れてくる」

「いいって。別にホットも飲めない訳じゃないから」

そう言われても、やはり気まずい。目の前の恋人が飲んでいる熱いコーヒーは昔の恋人の事を想って淹れた物だなんて、悪趣味な冗談にもならない。

会話の無い時間が二人の間を流れていくのを感じて、義行がムードを変える様に明るい声を出した。

「お互いにまだまだ知らない事がいっぱいあるって事だね」

義行の言葉が重く景子の胸に沈む。

「俺は景子ちゃんがこんなに写真撮ってた事なんて知らなかったし、景子ちゃんは俺の好みのコーヒーを知らないし」

「・・・・・・」

嫌味なのか、ただ何気のない会話なのか義行の心が掴めない景子。再び訪れた沈黙に疲れた景子は、ボソッと言った。

「よっちゃんといると、おまわりさんと話してるみたいで疲れる」

本当はそうではない。景子の心の中の本音を隠すのに疲れただけだ。でも景子自身も、こんなに幹夫の事を思い出すとは思ってもいなかったのだから、仕方がない。義行はそっと景子を抱き寄せた。

「ごめんね」

「私も・・・ごめん」

「これからは、景子ちゃんの事いっぱい話してね」

「・・・うん」


 初めて義行が景子の家に泊まった次の朝。仕事が休みの義行は、ご機嫌にこれから出勤する景子の為の朝食なんかを作ったりする。その間に洗濯物を干す景子だ。昨日幹夫の母が車に忘れていったハンカチを洗濯バサミに留めながら、これをどうやって返すかという難問が宿題になったままだという事に気付く。夏が間近に迫っている事を匂わせる朝の日差しの鋭さに、景子は目を細めた。


 突然の激しい雨も、夏の風物詩の様なものだ。午前中には珍しく、まるで夕立の様に突然降り出した雨だったが、空に雨雲は立ち込めていない。雨が激しく打ち付けるフロントガラスのワイパーを止めて、幹夫は自宅の駐車場に車を停めた。夜勤明けだ。最近は塞ぎこんでいる雪子と気持ちを通い合わせる事に苦労しているから、夜勤明けの日は時折 欠勤している雪子の家を訪ねてみたりする。今日もその例に漏れず雪子の家に寄ってみたが、会う事叶わず、疲労感だけを持ち帰る。

 そんな幹夫が疲れた体を休めるまであと一息と大きく息を吸って いつもの様に郵便受けを覗くと、差出人もこちらの住所も書いていない封筒が一つ入っている。母宛てだ。裏面には小さく『先日車に落とされていました』と、見覚えのある筆跡に、幹夫の感情が揺れる。その場で開けようと手を掛ける幹夫だったが、すぐに冷静になる。そして自宅の居間のテーブルの上に、そのまま封筒を置いた。


 その日の夕方、仕事から戻った母がその存在に気付く。裏面の文章に首を小さく傾げながら開封すると、中からは自分のハンカチが出てくる。母ははっとなって静かに息を吸い込んだ。そして、ハンカチを両手に挟んで拝むように頭を小さく下げた。


 その晩、夕飯を終えた守屋家で、母が幹夫を捕まえた。

「昼間、景子ちゃん、家来たの?」

「来てないよ。・・・どうして?」

母はハンカチの入っていた封筒を見せた。

「あ、それ、ポストに入ってた」

納得した母が暫く考えた末、再び幹夫に顔を向けた。

「景子ちゃんの連絡先って・・・幹、まだ知ってる?」

「・・・なんで?」

幹夫の言葉に剣を感じた母が、少し慌てる。

「忘れ物、わざわざ家まで届けてくれたんだから、お礼の電話でも一本した方がいいかと思って・・・。ほら、この間家まで送ってくれたお礼もちゃんとしてないしね」

「連絡先なんか、今さら知る訳ないでしょ」

幹夫は顔には出さないが、その無表情がかえって不機嫌な様子を物語るのだった。


 それから間もなくの事。仕事を終えた母が向かったのは、かつて掛かりつけ医として通った景子の働くクリニックだった。玄関の外からガラス越しに景子を探す母だ。当然 診察室内で働く景子は、受付付近では見付からない。時計を確認して、母はクリニックの外の駐車場の植え込みに、寄り掛かる様に腰を下ろした。


 夏本番が近いせいもあり、暗くなるのも遅い。そして日中顔を見せていたお日様も いつしか雲に隠れ、ぽつりぽつりと空からは雨粒が落ち始めた。鞄から折り畳み傘を取り出す母の視界に、景子の姿が映りこむ。

「景ちゃん!」

「・・・おばさん?!どうしたんですか?こんな所で」

母は景子に再会した喜びで、言葉よりも笑顔が溢れ出す。

「この間はありがとうね」

「その後、どうです?体調」

「うん、大丈夫よ。幹にあの後病院に連れていかれて、薬貰ってきたから」

「そうですよ。ちゃんとお薬は飲まないと」

母は照れ笑いをした。

「ははは、そうね」

雨足が強まってきたから、景子は差していた傘を少し母の方に傾けた。

「それ言いに、わざわざ・・・?」

母は更に笑顔のレバーを上げた。

「この間もハンカチ、わざわざ届けに来てくれて。ありがとうね。お礼も兼ねて、ご飯でも行かない?」

景子の胸がきゅっとなる。そして奥歯に力を入れた。

「お気持ちだけで、充分です」

「そんな遠慮しないでよ。前にも言ったでしょ?今度ばったり会ったら、美味しい物でも食べようって」

「・・・・・・」

「あ・・・もし今日が都合悪ければ別の日でも全然・・・」

流されれば楽で楽しい時間になる事くらい分かっている景子だからこそ、胸が苦しくなる。

「おばさん・・・」

その声のトーンで、母の顔は急に曇り始める。

「幹夫さんとお付き合いさせて頂いてた時は、本当に良くして頂いたけど・・・多分こうして私がおばさんと会うの、幹夫さんは・・・面白くないんじゃないかと思います」

「そんなの、あの子には関係ないじゃない。私が誰と会おうと」

「だけど・・・多分幹夫さんにも今大切にしてる人がいて・・・」

その話題になった途端、母は急に重たい溜め息を吐いた。

「私は・・・賛成できない。ま、いい年した息子の相手にとやかく言うの、変かもしれないけど・・・。景子ちゃんも会ったでしょ?あの子。幹と合うと思う?」

景子は母にほのかな笑みを浮かべてみせた。

「幹夫さんの選んだ人ですよ。きっと素敵な人なんだと思います。私みたいに気も強くないだろうし」

納得したくないといった顔の母だ。

「・・・なんで、賛成できないんですか?」

「・・・頼りないっていうか・・・線が細そうっていうか。なんであんなに若い子選んだのか・・・。もし景子ちゃんさえ良ければ、また幹夫とやり直す事考えてもらえないかね・・・」

景子は慎重に言葉を選んだ。

「おばさん・・・。私・・・も、今お付き合いしてる方がいます。まだその人とどうなるとか全然分からないけど・・・。だから・・・もう一回幹夫さんとやり直すって事は・・・ありません」

自分で言いながら、自分の心にくさびを打ち込んでしまった景子は、涙腺が緩んで鼻筋を涙が伝う。それを聞いて肩を落としている母が景子の涙に気付くと、また少し慌てた。

「あ~、ごめんね。そうね、景子ちゃんだってもう別の人がいるわよね。私ったら、本当勝手な事ばっかり言って・・・気にしないで」

景子は黙って首を横に振った。

「そうよ、私が前に言ったんだもの。早くいい人見付けて幸せになってって。今さら息子とやり直してなんて、おかしいね。本当ごめんなさない」

 名残惜しそうな母が景子と一緒に駅までの道を行こうとすると、そこに義行が現れる。

「・・・どうしたの?!」

「ご飯でも行こうかと思って・・・仕事終わるの待ってた」

さっきからの会話を全て聞かれていたのだと思うと、景子の中に緊張感が走る。そしてその表情に気付いた母が義行に言った。

「ごめんなさいね。懐かしくてつい引き留めちゃって。じゃ、御免ください」

その後景子に一言掛けて 一足先に駅へと向かう母だったが、景子の耳にはもうその言葉は残ってはいなかった。

その場に残された景子の手をすっと繋いで、義行はまるで何も無かったかの様に会話を続けた。

「何食べたい?土用の丑の日にはまだ早いけど、鰻行っちゃう?」

うかつにも、さっき幹夫とはもうやり直す事はないと口にして流した涙を、義行は見てしまっただろうか。傘も差していたし、日も暮れかけていた。あの決定的な瞬間さえクリアすれば、きっと後はどうにでもなる。何もやましい事はない。あるのはたった一つ。自分の心の中に潜む本音だ。景子の頭の中は、そんな事で占領される。

「雨降ってきちゃったから、近場でもいいか。鰻はまた今度改めて行くとして、景子ちゃん、この辺でいいお店、知らない?」

やましい事は何もないと自分に言い聞かせている事自体、やましい。そんな罪悪感に苛まれた心を隠しながら、景子は義行の後について行くのだった。



次回最終話です

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