7話
ソメイヨシノが八重桜にそのタスキを渡す頃、桜の花達に和やかに迎えられながら、二階堂は予定通り本社に異動した。そして小泉は、5月いっぱいで立川の施設を辞めていった。在職中はつわりが酷く、顔色も悪かった。体調の優れない日が多くなり、医務室で休む事もしばしばだった。
「小泉さん。もしかして・・・妊娠してる?」
「・・・・・・」
「違ったらごめんね。だけど・・・それならそうと、施設にそう話して、働き方考えてもらった方がいいわよ」
常駐の看護師に不意に痛い所を突かれ、小泉はごまかす事に必死だ。
「そんなんじゃありません」
しかし、その疑いが晴れる事のないまま季節は進み、新緑の色が増した頃、小泉は急遽施設を辞めていった。
そして梅雨入り宣言が日本列島の南から聞かれ始めた頃、本社から幹夫に呼び出しが掛かる。エリアマネージャーの吉川の後に続いて、第二会議室に入る。吉川は部屋の電気を付け 椅子に腰掛けると、幹夫にも向かいの席を勧めた。
「気になる噂が耳に入ってね・・・」
それは小泉に関してものだった。
「そのお腹の子の父親が、うちの職員だって話」
当然返事が出来ず表情を固める幹夫に、吉川が上目遣いになる。
「いくつか目撃情報も入ってきてる」
「・・・・・・」
「小泉さんに確認したんだけど、頑なに言わないんだよね」
幹夫は思わず声を上げた。
「本人に・・・直接聞いたんですか?」
必要以上に慌てる様子の幹夫を、吉川は腕組みをして背もたれに寄り掛かりながら、じっと見つめた。
「小泉さんは・・・結婚しないって言ってる」
「・・・・・・」
「それって、結婚できない理由が相手にあるって事?」
答えに戸惑う幹夫を、静観する吉川だ。
「さもなければ、同意の上で出来た子じゃないって事でしょ?」
幹夫は痛む胸をぐっと堪えた。
「ま、小泉さんがセクハラ被害で訴えてこなかっただけ、良かったよ」
一向に口を開かない幹夫に、吉川が座り直しながら言った。
「守屋君呼んだの、どういう意味か分かってる?さっきから一切話さないけど」
「・・・すみません」
「その謝罪は、どういう意味かな?」
吉川がこれ見よがしに大きなため息を吐いてみせた。
「真実を話せませんって事かな?それとも・・・」
言いかけて、言葉を止めた。
「ま、いいや、そこは」
吉川は眼鏡を外して、レンズを拭きながら喋り始めた。
「小泉さん妊娠させた職員の名前、何人か入ってきてる。一人じゃない」
それまで俯いていた幹夫が、顔を上げた。
「俺は今のところ、そのどれも本当に関係があったんじゃないかと思ってる」
その意味を探る様な幹夫の視線を感じて、吉川は続けた。
「要は・・・小泉さん自身も、誰がお腹の子の父親なのか、分からないんじゃないかな」
「え・・・」
「男の方も適当に遊んで、小泉さん自身も、複数の男と適当に遊んで出来た子なら、訴える事も責める事も出来ないんだろ。お互い様って事で」
聞いている内に、どんどんと胸が苦しくなってきて、気が付けば幹夫は せき止められていた水が溢れ出す様に、声を発していた。
「小泉さんは、そんな人じゃありません」
「ほ~」
吉川は向かい側で、足を組み替えた。
「プライベートなんて、わかんないだろ?それとも、そう言い切れる何かがあるって事?」
幹夫は再び自分にブレーキを掛ける。
「守屋君は知ってたの?小泉さんに、他にも男がいるって事」
「他にも・・・?・・・他にもって・・・」
試す様な吉川の質問に警戒する幹夫だ。すると、さっきまで盛んに眼鏡を拭いていた吉川が、レンズを光にかざした。そしてようやく眼鏡を耳に掛けた。
「もう、まどろっこしいから言うよ。名前が挙がってるのは、二階堂と君」
幹夫の背中に、再び緊張感が走る。
「これから二階堂君も呼んで、確認しようと思ってる」
幹夫の口が動かないでいると、吉川が伸びをしながら言った。
「正直、俺はこんな事どうでもいいと思ってんだ。だけど上がさ・・・ま、こういうゴタゴタ放っておく訳にいかないんだろ?男女間のもつれって、面倒な問題や事件にも発展するから」
「・・・・・・」
「って事で、二階堂君も呼んでくるから」
吉川がだるそうに椅子から腰を浮かしたその時、幹夫もガタンと勢いよく椅子から立ち上がった。
「二階堂先輩は、この件には全く関係ありません。私個人の問題です」
「・・・どういう事?」
吉川がポケットに手を突っ込んだ。
「小泉さんとは・・・親しい関係にありました。二階堂先輩には、その事で相談に乗ってもらってただけです。ですから・・・私一人の責任です」
黙って幹夫をじっと見つめた後で、吉川は再びゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「・・・どうして、小泉さんと結婚しないの?お互いそれなりの歳だし、子供出来たんなら、普通その流れで結婚って話になるもんでしょ?」
「・・・今、その事は話し合ってる最中です」
「・・・予定日は、いつなの?」
「・・・・・・」
答えに困る幹夫に、幸いにも続けて吉川が質問をする。
「そもそも小泉さん、子供産むかどうかも分からないって言ってたけど・・・君がおろす様に言ったの?」
どういう展開で話を終わらせる事が二階堂と小泉にとって最善の策なのかを考えている間に出来てしまった沈黙が、吉川に溜め息をつかせた。
「会社にはご迷惑をお掛けしない様に、きちんと二人で話をしますので・・・」
吉川は暫く考えた後で、渋々立ち上がった。
「後始末、しっかり頼むよ」
幹夫が深く頭を下げると、会議室から出る間際に吉川が振り向いた。
「何かしらの処分があると思うけど・・・まぁそれは仕方ないの、分かるよね?先日の事故の案件もあるし」
幹夫はもう一度、深々と頭を下げた。
その晩、立川の施設に戻った幹夫に、二階堂が本社から慌てて駆けつける。仕事を終えた幹夫の車に二階堂も乗り込んで、二人は話をした。
「お前、何て事言っちゃったんだよ!」
「まずかったですか?」
「まずいだろぉ」
「・・・すみません。でも、もうそう言うしか思いつかなくて」
「すみませんは、こっちだよ。お前が謝る事じゃない」
「俺はいいんですよ。何も守るものもないし、今は一人だし。どうにでもなります」
へらへらっと笑ってみせる幹夫だ。
「もしお前クビになったら、俺、責任持って絶対次の就職先、紹介するから」
幹夫はふふふっと笑って頭をペコッと下げた。
「お願いします」
雨が止んだ外の空気を取り込む為、幹夫は運転席の窓を少し開けた。
「奥さんとの話、進んでますか?」
「・・・ああ。離婚届には、もうサインしたって、連絡来た。あとはそれを出すだけ」
「・・・そうですか・・・」
幹夫は複雑な気持ちだ。車の中の妙な空気を、二階堂のカラ元気な声が破る。
「何ともあっさりしたもんだよ・・・」
「・・・そういうもんですか・・・」
「結婚する時は、プロポーズだの婚約指輪だの、式やら披露宴だの大げさに大騒ぎして・・・離婚するとなったら、紙にサインして『はいよ』ってな感じだよ。『どうぞご勝手に』って言われてるみたいだ」
少しひんやりした空気が、幹夫の頬をそっと撫でていく。
「それは俺らに子供がいなかったからかな。親権とか養育費とかの決め事も無いし、慰謝料も・・・そういった面倒な話し合い、一切向こうが望まなかったから」
二階堂の話を聞く傍らで、幹夫の頭には母親の顔が浮かぶ。自分の両親が離婚をした時はどんなだったんだろうと、初めて母の心痛を想像する。
車中の気温が少し下がったのを感じた幹夫は、パワーウィンドウを閉めた。
「小泉さん・・・元気ですか?」
「うん。お腹の子供も、お陰様で順調みたいだ」
「予定日・・・いつですか?」
「11月」
そう答えた二階堂が、心なしか胸を張った様に見える。
「子供の存在って大きいんだなぁ。これからしっかりしなくちゃって釘刺されてる気がする。離婚の事も、本社に異動になって慣れない仕事も、色々あるけど、全部諸々頑張ろうって思えてる」
少し前の二階堂とは違う顔つきになっている事を、幹夫も感じ取っていた。そして僅かに穏やかな空気が流れた時、二階堂が運転席の幹夫に顔を向けた。
「そういえばこの前、偶然景子ちゃんに会ったよ」
幹夫の表情が固まる。
「お前の事・・・気に掛けてた。仕事の方は落ち着いたのか・・・元気にしてるか・・・って」
幹夫は冷たく鼻で笑った。そんな幹夫に、二階堂は続けた。
「景子ちゃん、凄く後悔してるんだと思う」
きつく結ばれた口元からは、幹夫の怒りが滲み出ていた。
「だから俺言ったんだ。連絡してみたら?って。そしたら・・・」
そこまで言いかけた二階堂の言葉に、幹夫の激しい口調が重なる。
「連絡なんかされても、俺ごめんですよ」
あの時のまま 幹夫の感情が止まっているのを感じた二階堂は、一回深く息を吸い込んでから、話を始めた。
「お前をこれ以上苦しめたくないから、連絡は取らないって」
「・・・・・・」
「似てるなぁって。昔は、お前と景子ちゃん、性格も正反対でお互いにお互いを補い合う関係だと思ってたけど、違ったのかな。それとも、一緒に居るうちに・・・似てきちゃったのかな」
言い終わって、その反応を見る二階堂だ。しかし当然、無表情の幹夫だ。
「守屋。正直に答えてくれ。お前、今度の俺のゴタゴタで、軽蔑したか?俺の事」
幹夫は即座に否定した。
「軽蔑なんか、しないですよ」
「本当か?」
「本当です。俺の中の先輩は、今までと何も変わらないです」
「でも守屋。ようく考えてみろ。俺は今回、景子ちゃん以上に酷い裏切りを嫁にした様な男なんだぞ。しかもそれで、一人の女性の人生に傷を残した。それでも俺の事、軽蔑しないか?」
「・・・しないです」
「・・・なんでたった一回過ちを犯しちまった景子ちゃんには恨みしか残ってなくて、俺の事は軽蔑もしないし呆れもしないんだ?」
「それは・・・今まで先輩って人間を見てきてるから。今回の事はそりゃ確かに順序も良くないし、大事な人を振り回したとは思いますけど・・・それ以外の人間的な部分では、俺の中で信用は崩れてはいないですから・・・」
二階堂はゆっくりと言葉を選んで吐き出した。
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど・・・多分違うな」
幹夫は、助手席の二階堂の横顔を見つめた。
「100%自分のものだと思ってた女性が、別の男の食い物にされて・・・」
そこまでで、幹夫は二階堂の口を止めた。
「先輩!・・・わざと言ってます?」
二階堂は運転席の幹夫へチラッと視線を飛ばした。
「相手の男への怒りじゃないとしたら・・・景子ちゃんに対してか・・・」
「・・・先輩!」
大きなため息と共に寄せられた眉間の皺に気付いた二階堂は、畳みかける様に続けた。
「お前は、自分が傷付けられた事が許せないんだよ」
「・・・・・・」
「しかも、大好きで大好きで丸ごと信じてた景子ちゃんに、だ。人間て、愛情と同じ分の怒りや恨みが残るんだな・・・」
口を閉ざしてしまった幹夫が俯いて小さくため息を吐くと、その様子を助手席から暫し見守る二階堂だ。そして鞄から、先日景子から預かった腕時計を取り出した。
「はい。これ、景子ちゃんから」
「・・・・・・」
「お前にとったら、きっとこれももうゴミだろうけど、勝手に処分する訳にいかないからって」
「・・・・・・」
「偶然会った俺に預けるって、お前これ、どういう意味か分かるか?」
無言の幹夫に、二階堂は続けた。
「いつどこでお前に会ってもいい様に、常に鞄に入れて持ち歩いてるって事だろ?自分からは連絡できないけど、偶然お前に会えるのを信じてるって事じゃないの?」
幹夫の様子を確かめながら、二階堂はもう一言付け足した。
「景子ちゃんは、まだまだお前との思い出から抜け出せないでいるよ」
そして車から降りる為シートから背中を離して、二階堂は静かに呟いた。
「もう少し、時間は必要だと思う。だけど、景子ちゃんはお前にとって、確実に失っちゃいけない人だったんだと思うよ」
この日以来、二階堂の言葉が幹夫の頭の中を占拠している。しかし、それを毎回否定し続けている幹夫でもあった。
幹夫の母親の、月に一度の診察の日が今月も巡ってくる。息子に病院を変える様に言われながら なかなか実行しない母だったが、とうとう今日総合病院への紹介状を書いてもらい、このクリニックに来るのも最後となった。会計を済ませるまで 今日も景子の顔を見なかった母は、肩を落として玄関を出た。するとその時、背後でもう一度自動ドアの開く音がして、少し息の上がった女の声が母を呼び止めた。
「守屋さん」
振り返った母は、そこに立つ景子の姿を見るなり、ぱあっと顔を明るくした。
「景ちゃん!良かったぁ、最後に会えて。おっきな病院のが何かと安心だからって・・・紹介状書いてもらったの。だから・・・ここに来るの、今日で最後になっちゃった。景ちゃんには本当、色々良くしてもらって・・・ありがとね」
「こちらこそ・・・何だか・・・すみません」
そう言って、景子は深く頭を下げた。
「私はここ、凄く気に入ってたから、ずーっとここで診てもらっても良かったんだけどね・・・」
その後に続く『幹夫が』という言葉を飲み込んだ母を感じて、景子ももう一度申し訳なさそうに頭を下げた。
「全部私のせいなんです。本当にすみませんでした」
母は、景子の腕をそっと摩った。
「二人の間の事は 私はよくは分からないけど、あの子は私に似て、馬鹿が付くほど変に頑固なところがあるから・・・ごめんね」
「いえ・・・そんな事ないです」
景子は悲しい瞳で母を見つめ、首を何度も横に振った。
「あんな馬鹿真面目な男と結婚しなくて良かったかもよ、景ちゃん。幹夫と結婚してたら、この後の何十年とつまんない人生になっちゃってたかもしれないし。景ちゃんは素敵なお嫁さんになれるから、とっとといい人見付けて、幸せになるのよ」
「・・・おばさん・・・」
呼び方が『お母さん』から変わってしまった事に悲しい表情を浮かべる母が、最後ににこっと笑ってみせた。
「またどっかで見かけたら、遠慮しないで声掛けてね。その時は、美味しいものでも食べに行こ」
じんわり潤む景子の瞳を見つめ、母は肩にポンポンと手を乗せた。
その日の夜、薬の袋に印字されている 景子の勤めるクリニックの名前をじっと母が眺めていると、そこに幹夫が仕事から帰ってくる。
「・・・まだ、変えてないの?病院」
返事をする前に、母は一つ大きなため息を一つこれ見よがしに付いた。
「今日、紹介状書いてもらったわよ」
「・・・あ・・・そうだったんだ」
「あんたの言う通りにしたわよ。景ちゃんとの繋がりも切れたし、これでいいんでしょ?」
「・・・・・・」
この間までの幹夫なら、すぐさまそれっぽい正当な返事を返してきただろう。だからそれを想定して身構えた母が、一瞬肩透かしを食らう。そして幹夫が静かに一言だけ言った。
「・・・ごめん。お袋まで巻き込んで」
やけにしおらしい息子の一言に、張っていた肩の力を抜く母だ。
「な~に水臭い事言ってんの!親子なんだから、当然でしょうが」
いつもよりも沈んだ顔をしている幹夫に、母は続けた。
「そもそもあんたと祐司には、借りがあるしね」
「・・・借り?」
「小さい頃から母子家庭で苦労させたし。何より、あんた達にお父さんって存在を感じさせてあげられなかった。子供には何の責任もないのにね・・・」
いつになくしおらしい母の言葉に 幹夫は返す言葉も忘れていると、母が幹夫にゆっくりと視線を合わせた。
「ごめんよ・・・」
内心驚いている幹夫だったが、それを顔に出す代わりににこっと微笑みを返した。
「俺は感謝してるよ。女手一つで俺達二人ちゃんと育ててもらった事。祐司だって、きっとそこは同じ様に感じてると思う」
思いがけない言葉にほろっと涙する母が、頬を拭いながら言った。
「こういう事は母の日に言いなさいよ。急に言われたら心の準備が出来てないじゃない」
はははと二人が笑うと、幹夫が付け足す様に言った。
「じゃ今のは、来年の母の日の分ね。覚えといてよ」
「何よぉ。今のは今年の分でしょうが。ケチケチしないで、来年は来年でもっと凄い感謝の言葉準備しといてよ」
そう言って、母は又いつもの様に豪快に笑った。
梅雨が明け、その鬱陶しさから解放された様に、最近では弟の祐司も晴れ晴れとした顔つきをしていて、症状も安定してきている。職場に復帰の目処はまだ立たないが、時々幹夫が昼間 外に連れ出す機会を増やしている。今日は都心まで、舞台の観劇だ。ロングラン作品のチケットが手に入り、初めて見る舞台の迫力に刺激を受けた祐司だった。疲れた様子もない祐司と、帰りに久し振りに 少しお酒を飲みながら食事をする幹夫だった。居酒屋を出たところで、祐司が急に立ち止まった。
「やっぱトイレ行ってくるわ」
鬱病と診断されて以来、外出時にはトイレに神経質になった祐司だ。急に行きたくなるのを心配して、頻繁にトイレに行く。少し神経が疲れてきた合図でもある。そんな祐司に優しく相槌を返す幹夫。
「慌てないで行ってこい。俺、ここにいるから」
そうして祐司が再び店の暖簾をくぐって姿が見えなくなって間もなくの事。道路の反対側に知った姿を見付ける幹夫だ。細身のシルエットは以前のままだ。信号が点滅する横断歩道を駆け足でこちら側に渡ってくる景子の姿に、幹夫は息をするのも忘れてしまっていた。頭の中では先日の二階堂の言葉が浮かんでいた。
『大好きで大好きで丸ごと信用してた景子ちゃんに、愛情と同じ分の怒りや恨みが残ってる』
『景子ちゃんは、まだまだお前との思い出から抜け出せないでいるよ』
『景子ちゃんはお前にとって、確実に失っちゃいけない人だったんだと思う』
その言葉と二階堂の見えない手が 幹夫の背中を押すが、幹夫の足は鉛の様に重たく、地面にへばりついて動かない。頭の中で再生される二階堂の声とは裏腹に、心が拒絶反応を起こしていた。そんな中、横断歩道を渡り終えた景子が、幹夫のいる場所とは反対方向に進んでいき、そのうち人の群れに紛れ、その懐かしい背中は幹夫の視界から消えて見えなくなった。それまで強張っていた体から力がス~ッと抜けて ほっと息をつくと同時に、後ろの暖簾がひらりと揺らぎ、店の中から祐司が出てくる。
「ごめん、待たせて」
ついさっき景子が渡った横断歩道の信号待ちをしながら、彼女の消えていった方向をぼんやり眺め、心がざわつく幹夫だ。あの時近付いて声を掛けた方が良かったのだろうか・・・?未だに彼女を許せていない自分が声を掛けたところで、一体何が話せるというんだ?そんな自問自答を繰り返す幹夫の隣で、祐司が口を開いた。
「色々考えるより、たった一個行動を起こす事の方が、何倍も価値があるんだね」
「・・・え?」
内心ドキッとして、幹夫の足はゆっくりになる。すると祐司は嬉しそうににこっと笑った。
「今日の事だよ。電車乗って都心に出て、人混み歩いて、長い時間ずっと人に囲まれて座って・・・。自分の部屋で 行こうかどうしようか考えてた時は、不安も大きくて正直気乗りしなかったけど・・・意外と出来たし・・・楽しかった」
そう言って祐司は嬉しそうに笑った。まるで背中に羽でも生えた様に足取りも軽い。
「祐司、凄いよ・・・」
「兄ちゃんが行こうって誘ってくれたお陰。ダメなら途中で帰ってくればいいって言ってくれたから。ありがとう」
渡り終えた横断歩道のメロディーが切り替わり、もうすぐ赤になる事を背後から知らせていた。
「俺は偉そうに口ばっかで・・・祐司は自分の力で頑張って、色んな勇気ある一歩を毎日踏み出してる。・・・尊敬するよ」
いつになく弱気な事を言い出す幹夫の隣で、少し戸惑う祐司がいる。
「何言うんだよ。僕ももういい大人なのに、兄ちゃんに支えられてばっかりでさ。いつか兄ちゃんが困った時は、力になれる存在になりたい。ま、まだもうちょっと掛かりそうだけどね」
その後でふと見せた祐司の笑顔の目の奥には、久し振りに生気がみなぎっているのだった。