6話
幹夫の勤める立川の施設で、ヘルパーが一人医務室で横になっていた。食事の介助中に、急に不調を訴えたとの情報を聞きつけて、幹夫は合間を見付けて医務室を覗く。
「小泉さん、大丈夫?」
「すみません・・・」
いつも明るい笑顔の小泉史香が、青白い顔でそう答えた。
「急にふらっときちゃって・・・」
「貧血かな?朝から調子悪かったの?」
「いえ、全然。食堂に皆さんお連れして、配膳してたら何だか急に気持ちが悪くなってきて・・・」
「吐き気もするの?・・・ちょっと心配だね。手足のしびれとかは?病院で受診した方がいいんじゃない?」
小泉史香は、その幹夫の語尾を切った。
「大丈夫です。ほんと、全然、そんな大した事じゃないんで」
「そう?・・・でも・・・顔色、本当悪いよ。何なら今日はもう早退して、そのまま病院行ってきた方が・・・」
「本当、大丈夫です。年末にやった健康診断も、問題なかったんで」
釈然としない幹夫だったが、頑なに病院に行きたがらない小泉に、幹夫が引き下がるのだった。
「まぁ・・・じゃ、無理しないで」
医務室から出る直前で、幹夫は再び小泉の方を振り返った。
「心配な事でもあれば、いつでも相談に乗るから」
何故そんな事を言ったのか、幹夫自身も驚いていた。きっといつもの小泉から発せられるイメージと異なった何かを感じて、思わずそう声を掛けてしまったのだろう。
しかし、そんな事を言った事すら忘れた頃、幹夫の帰りを待ち伏せする様に、職員出入り口を出たところに、ポツンと小泉が立っていた。
「お疲れ様です」
「お!どうした?!」
「ちょっと・・・よろしいですか?」
近くのファミレスのテーブルにとりあえず収まると、小泉は言い出しにくそうにぼそっと口を開いた。
「ヘルパーって・・・お腹おっきくなっても働けますか?」
聞き間違いを疑う傍ら、今目の前で言われた言葉の意味を考える間中、幹夫の声は喉で留まる。
「・・・安定期に入った妊婦さんが仕事を続けてたのは聞いた事あるよ。ただ、やっぱりあんまり大きくなると・・・仕事の内容も限られては来るだろうし・・・何しろ本人が大変だと思うんだよね」
答えながらも、幹夫の頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだ。
「・・・辞めさせられるって事は・・・ないですか?」
「そんな事はないと思うけど・・・」
そこまで答えて、ようやく幹夫は核心の質問を投げた。
「小泉さんの・・・話?」
「・・・はい」
更に小さくなった声と同時に、小泉は背中を更に丸めた。
「あ・・・えぇ~っと・・・おめでとう」
幹夫の頭は、次の質問を探すためにフル回転している。しかし疑問が多過ぎて、すぐにどれか一つだけを選べない。
「この間の不調は・・・その影響だったのかな・・・?」
結局出てきた質問は、多分一番に聞かなくても良さそうな、いわばどうでもいい様な質問だった。
「・・・すみません」
「いや、謝る事じゃないよ。・・・おめでたい事・・・だもんね」
目の前で卑屈になる小泉に、探り探り喋る幹夫だ。しかし『おめでたい事』と言われても、一向にいつもの笑顔を見せない小泉に、幹夫はとうとう聞きにくい内容に踏み込む覚悟をして息を大きく吸った。
「ご主人は・・・何て?ぎりぎりまで働く事について・・・」
何となくはぐらかす様な語尾になってしまったのは、目の前でずっと小泉が俯いたままだったからだ。
「・・・結婚は・・・しません」
「・・・え?!」
今の時代、色んな男女の形がある。そして、色んな形の出産もある。だから本当は、こんな小泉の打ち明け位で驚いた顔を見せないつもりだった幹夫だったが、思わず声が漏れてしまった。そんな幹夫の方に顔を少し上げて、小泉が説明を足した。
「未婚の母ってやつです」
「・・・あ・・・そうなんだ・・・」
思わずそう答えた後に、幹夫は慌てて言葉を継ぎ足す。
「凄い決断したね・・・。大変だと思うけど・・・大丈夫?」
「はい」
そこでようやく小泉に、いつもの笑顔が戻る。だからつられて幹夫もふっと頬が和らぐ。
「そういう事なら・・・なるべく無理なく、長く働ける様に配慮するよ」
「ありがとうございます」
小泉は、ようやく元気に頭を下げた。そして暫くの間、まずはヘルパー長に話を通して等と必要な事を一通り決めた後で、幹夫の頭が冷静になってくる。
「それにしても・・・よく産むって決断できたね。お腹の子は・・・認知はしてもらえるの・・・かな?」
すると小泉の顔が再び曇る。
「・・・言ってません。認知とか・・・そういうのも求めてないんで」
思わず幹夫の開いた口が塞がらなくなる。
「・・・一生、言わないつもり?」
「一生かどうかは・・・。でも、今は言いません」
幹夫は頭をポリポリ掻いた。
「・・・言わないで・・・済むものなのかなぁ?もしかして・・・お付き合いしてる人との子供じゃ・・・ないって事?」
「お付き合いは・・・してます」
「じゃあ、なんで?言わなくても、いずれお腹大きくなれば分かるでしょ?」
「今は・・・迷惑掛けたくないんで」
「迷惑なんて・・・わかんないじゃない。喜んでくれるかもしれないよ」
「・・・困らせるだけだから・・・。それに・・・今言って、堕ろせって言われたら嫌だから。お腹大きくなってバレた時には、もう堕ろせないって言えるし」
「・・・そんな事、言いそうな人なの?」
小泉は、内容に不釣り合いな程朗らかに笑った。
「どうかな?言わないと信じたいけど・・・私達の間には、色々問題があって・・・好きで、子供出来て、結婚するって訳にいかないんです」
幹夫が頭を悩ませ、少しばかり重たい溜め息をつくと、小泉は身を少し乗り出した。
「まだ絶対誰にも言わないで下さいよ、所長」
「分かってるよ。ヘルパー長に話す時は、ちゃんと小泉さんにも同席してもらうつもりだしね。それまでは、もちろん口外無用を約束するよ」
小泉はしつこい様に念を押す。
「施設内だけじゃなくてもですよ?絶対言わないで下さいね」
「分かってるって。随分疑われてるね」
「いえ、そういう訳じゃないです。ただ・・・念の為・・・」
そして小泉は、慌ててもう一度幹夫の顔を見て言った。
「あと それから、ヘルパー長に話すの・・・安定期入ってからでもいいですか?」
「霧島さんには、早い内に話しといた方がいいんじゃない?無理しないで働ける様に、ちゃんと理解を求めた方がいいよ」
小泉の顔は暗い。しかし、急に上げた顔は、少し何かを吹っ切った様な軽やかな顔に変わっていた。
「じゃ・・・私、デキ婚したって事にしといてもらえませんか?色んな偏見とか、極力避けたいんで。あ、今風に“授かり婚”って言う方が、幸せ感あっていいですかね」
「ま・・・その辺は、小泉さんの良い様に合わせるよ」
しかし又、さっき開き直った声がくぐもる。
「こういう施設内の事って・・・他にも漏れたりします?」
言いにくそうに切り出した小泉に、幹夫の頭の中は、再び“?”が躍る。
「他?他って?」
「例えば、本社とか・・・他の施設とか」
「う~ん・・・」
幹夫は、小泉の不安そうな顔をじっと見つめた。
「何か問題でもある?」
「いや・・・こういうの いちいち報告する義務があるのかなぁと思って」
何か言えない事情を抱えているのを感じる幹夫だったが、それに触れていいものか迷う。しかし、一施設を預かる者の責任として、しっかりと聞いておかなくてはいけない、そんな気持ちにも当然傾く。
「個人情報はきちんと守る。だから、言いにくい事も、今全部聞かせておいてもらえないかな・・・?」
幹夫の真っすぐな視線と、少し目の奥が怯えた様な小泉の視線が合う。暫くそのままでいると、小泉が急にぷっと吹き出した。
「ないですよ~、何も」
「・・・本当?」
「本当ですってば」
そのまま鵜呑みにするのには 何か引っ掛かる幹夫だったが、これ以上粘るのをやめて、目の前の小泉の言葉をごくりと飲み込んだ。それが正解だったかどうか自信の無い幹夫に、更に追い打ちを掛けたのは、別れ際の小泉の一言だった。
「所長。仲の良い人にポロッとか、ナシですからね」
こういう時、立場上どういう対応を取るのがいいのか、先輩である二階堂に相談したい幹夫だ。しかし、小泉から あれ程までに念を押されては、そうそう言える訳はない。
弟の鬱病に始まり“一難去ってまた一難”が、幹夫の周りをぐるぐる巡って繰り返されている今日この頃だ。そんな重しを再び担ぐ為、時々大きく深呼吸をする癖がついてしまった幹夫だ。
小泉の打ち明け話を聞いた次の日、事務所にいた幹夫に、副所長が唐突な質問をした。
「昨日所長、ヘルパーの小泉さんと外で会ってました?」
「え?!」
必要以上に驚いてしまう幹夫だ。
「さっきヘルパー達が噂してましたよ。昨日の夜、二人きりで外で会ってたって」
思わず絶句の幹夫も、何とか言葉を絞り出す。
「あぁ、ちょっと話・・・っていうか、たまたま帰り一緒になって・・・」
支離滅裂の幹夫に、副所長の目つきも次第に疑わしく変化していく。そして周りをキョロキョロ気にしてから、少し距離を詰め小声になった。
「『深刻な話してる風だった』とか、『小泉さんが泣いてた』とか、『所長が困った顔してた』とか色んな話が飛び交ってて・・・もしかして、何かこじれちゃってます?」
「いやいやいやいや。全然そんなんじゃないから」
思わず大きな声になる幹夫に、副所長も縮めた距離を元に戻す。
「泣いてもいないし、別に深刻な話とかでもないよ。ただ、たまたま一緒にお茶しに・・・」
言いかけて、そこでおかしい事に気付いた幹夫は、それ以上の言葉が途切れてしまう。しかし、そこでやめたところで、副所長にもその矛盾は気付かれてしまっていた。再び顔を近寄せ 小声で聞いてくる副所長は、さっきとは違ってにやけている。
「たまたま一緒になってお茶なんて・・・行かないでしょう?今までそういうの、他の人とした事ないでしょう?・・・所長も嘘が下手だなぁ。俺、誰にも言わないから安心して下さい。その代わり、もうその言い訳やめた方がいいですよ。嘘だってバレバレですから。もうちょっとマシな言い訳、考えといた方がいいですって」
「いや、本当。彼女とは、そういうんじゃないから」
副所長は、にやけたまま幹夫の肩をポンポンと叩いた。
「いいです、いいです。独身同士、ここも出会いの場ですよ。ただ、今度からは、もうちょっと上手い事やって下さいよ」
自分が言い終えると、勝手に満足げな顔になって事務所を後にする副所長の背中に、幹夫の独り言が 悲しくその後ろ姿を追いかけた。
「だから、変な誤解しないでよ・・・」
どこにもぶつけようのない感情を、幹夫は頭を掻いて紛らわせた。
それから二週間程経ったある日、本社で二階堂が幹夫を見付けるなり、腕をひっぱって廊下の隅に連れていく。
「そっちのヘルパーで・・・何か変わった事・・・なかった?」
「変わった事?!」
「変わった事っていうか・・・」
二階堂は言葉を変えた。
「最近、何かあった?」
「・・・何かって?」
まるでピンときていない幹夫に、じりじりとする二階堂。
「急に辞めたいとか・・・休みたいとか・・・そういう人、いた?」
幹夫は頭の中で思い出しながら、首をゆっくり捻った。
「いや・・・別に。何でですか?先輩ん所、そういう人出てるんですか?」
「そうじゃないけど・・・」
二階堂は伝わらないジレンマに、とうとう切り札を出す。
「小泉さんなんだけど・・・最近どう?」
「小泉さん?!・・・先輩、知ってるんですか?小泉史香さん」
「あぁ・・・まぁ・・・」
「へぇ~」
「・・・で?どう?何か・・・聞いてない?」
「いや・・・別に。特には」
幹夫は顔色を変えない事に必死だ。
「でも、どうして、急に?」
「いや・・・」
口ごもる二階堂が、腕時計で時間を確認する。
「会議の後、時間ある?」
前回と同じラーメン屋に、二階堂と幹夫は席を取る。しかし今日はカウンターではなく、奥のテーブル席だ。
「驚かないで聞いて欲しい。・・・で、これから言う事を、誰にも言わないでもらいたい」
二階堂の顔は真剣そのものだ。
「実は俺・・・小泉史香さんと付き合ってる」
幹夫は声は出ないが、目は見開いたままだ。その表情を感じて、二階堂は伏目勝ちになる。
「嫁さんとは別居中とはいえ、きちんとしなきゃとは思ってる」
「・・・・・・」
「守屋が色々言いたい事があるのは分かる。だから・・・言い訳はしない。それで・・・こんな個人的な事で お前に聞くのも変なんだけど、最近彼女が俺と会いたがらないっていうか・・・ほんと、何言ってんだって思うだろうけど・・・」
「・・・・・・」
「はっきり離婚もしない俺に愛想尽かしたのかもしれないんだけど・・・俺としては・・・彼女の存在は大きくてさ・・・。ま、矛盾してるってお前には怒られるのかもしれない」
「・・・先輩。奥さんの事と小泉さんの事、この先どんな風に考えてるんですか?」
申し訳なさそうに下を向いたまま、二階堂は背筋を伸ばした。
「嫁さんとは、今後についてちゃんと話したいと思ってるんだけど・・・なかなか思う様にいかなくて・・・」
「それは、離婚の話を進めるって事ですか?」
「嫁さんがどう思ってるのか・・・いまいち分かんなくて・・・」
言ってから、二階堂は顔を両手で摩った。
「いや、そういう事じゃないんだよな。多分・・・俺が中途半端なんだと思う」
二階堂の目に見えない葛藤を想像して、幹夫は深い溜め息を吐く。
「俺ら夫婦・・・別に何があって別居になったって訳じゃないんだ。向こうがどう思ってるかは知らないけど、俺が嫁さんの事どうしようもなく嫌いになった訳でもない。ただいつの間にか、噛み合わなくなって、相手の事が分からなくなって、気持ちが通じ合わなくなって、その内会話もしなくなった。別居する寸前には、同居人以下になってたと思う。だから俺は、外に居場所を見つけて・・・嫁さんは家を出て行った」
深い溜め息を一つ吐き出して、幹夫は静かに問いかけた。
「先輩は、奥さんとの関係を修復したいと思ってるんですか?それとも、奥さんとは離婚して、小泉さんとの関係をきちんとしたいと思ってるんですか?」
「・・・・・・」
「まさか・・・一人になる寂しさから逃れたいだけで、どちらか決められないって訳じゃないですよね?」
「もちろん、そんなつもりはないよ。気持ちとしては、史香・・・小泉さんとの関係を今後は大事にしていきたいと思ってる。ただ・・・嫁さんとはきちんとその為に話し合いたいとは思ってる。一方的に離婚届書かせて終わり・・・みたいにはしたくないだけで・・・」
そこにとろとろのチャーシューが乗ったラーメンが運ばれてきて、その場が一旦無言になる。箸を持つが、なかなか手を付けない二階堂に、スープを一口すすった幹夫が言った。
「小泉さんとも、ちゃんと話した方がいいですよ。彼女にもちゃんと考えがあるんだと思いますから。そのまんま なぁなぁには絶対しちゃ駄目ですよ」
「・・・そうだな」
そう言って、二階堂はラーメンをずずっと吸い上げた。
「この前俺が守屋に言った事、そのまま返ってきてる」
苦笑いの二階堂だ。向かいの幹夫が暫く黙々とラーメンを頬張ると、感慨深げに呟いた。
「結婚って、ほんと何なんですかね・・・。俺、やっぱ結婚しなくて良かったのかもしれません」
「そんな事言うなよ・・・。俺のは悪い例で、他に上手くいってる人達もいるからさ」
苦い顔をする二階堂だ。
「自分自身も母子家庭だし、自分の家庭を持ちたいって思ってきましたけど、それがいかにおとぎ話みたいな夢を見てたか分かりました。やっぱ自分はまだまだ幼稚なんだなって」
鼻でふっと笑って、その後幹夫はラーメンをすすった。
次の日幹夫は、廊下で小泉を見付けて呼び止めた。
「あのさ・・・」
そう言いかけたところで、入居者の部屋から出てきた他のヘルパーと目が合う。とっさに言葉が喉の奥で止まってしまって、その場に妙な空気が漂う。それを破ったのは小泉だ。
「何か?」
「あ・・・いや・・・又後で」
怪訝な表情をしたそのヘルパーは、幹夫と小泉を交互に見て、何か言いたげな顔でその場を去っていった。その後に続くように離れていく小泉の後ろ姿を見つめて、幹夫は小さく溜め息をついた。
夕方、事務所の前を通って職員通用口から帰ろうとする小泉を見付けて、幹夫は再びその後を追った。そして今度は周りを見回してから、声を掛けた。
「小泉さん。この間の事なんだけど・・・」
黙って俯く小泉に、幹夫は一歩近づいて声を潜めた。
「ちゃんと・・・話した方がいいと思うんだ。実は昨日・・・」
そこまで言い掛けたところで、小泉は顔をぱっと上げた。
「所長。ここでは・・・その話・・・」
その時、角を曲がって急に現れた副所長が、二人を見てニヤッとした。
「おっと・・・お邪魔しましたぁ」
「いや、全然・・・」
丁度良く出来た隙に、小泉は頭を下げた。
「すみません。お先、失礼します」
「あっ・・・だからさ、ちゃんと考えてみて」
小泉の背中にそれだけ言うと、足早に出て行く後ろ姿を見て、副所長は幹夫の肩を叩いた。
「悪い所に来ちゃったみたいで・・・」
「いや、そういうんじゃないから、本当に」
副所長のにやけ顔が度を増す。
「だから、嘘が下手すぎますって。今の誰が見たって、秘密の関係って感じでしたよ」
「なんで、そう・・・」
幹夫は頭を掻いた。
「ま、俺で良かったですよ。俺、誰にも喋りませんから」
そう言って、再び幹夫の肩に手を乗せてにこっと笑顔を置いていった。
最近の景子は、休日でも家に居る事が多い。幹夫の残り香を感じさせる部屋には、現実逃避する要素が絶え間なく散りばめられているから。あれから写真も殆ど撮ってはいない。今までに撮った写真を眺めて暇を潰す景子は正に、仕切り直して新たな一歩を踏み出せない姿そのものだった。
そんな景子が珍しく今日は街に出掛けていた。友人から貰った美術館のチケットが、引きこもる景子を引っ張り出したのだ。ある絵画クラブの主催する個展だ。銀座の小さなギャラリーの壁いっぱいに、水彩画や油絵が自由に彩を放っている。そんな少し懐かしい空間に身を投げて、景子の胸に新しい空気が入る。
個展を後にした景子は、本当に久し振りに、銀座の街を歩いてみる事にする。去年来た時とそう変わってはいない街並みに、やはり自分だけ取り残されている様な錯覚を味わう。いつもより少しだけお洒落して出掛けてきた様な夫婦、ベビーカーを押すママ、そして両親に手を繋がれ、時々ジャンプをしながらお出掛けを楽しむ子供の姿。目に飛び込む全ての幸せそうな外の世界が、景子に出てきた事を少し後悔させ始めたから、気を取り直す様に 静かに溜め息を吐いて、デパートの建て積む間から春の空を見上げる。気温はまだ少し肌寒いが、お日様が懸命に温かさを届ける。そんな事を考えて立ち止まる景子の向かい側から、呼び掛ける声が近付く。
「景子ちゃん」
平日の昼間、サラリーマンやOL、買い物に出掛けてきた婦人達の中に、その声を探す。
「景子ちゃん」
もう一度呼ばれて、景子はその主とようやく目が合う。二階堂だ。一回しか会った事はないけれど、懐かしい様な、遠い昔の様な、又気まずい様な心持で、景子は頭をペコッと下げた。
「久し振り」
二階堂は、笑顔でそう言った。だから景子は、今度はもう少し深く頭を下げた。
「ご無沙汰してます」
「・・・元気にしてた?」
やはり苦笑いが零れてしまう景子だ。
「銀座で会うなんてね。今日はお休み?」
気まずそうに目を逸らす景子を見て、二階堂は笑った。
「会っちゃまずい人に会った様な顔、しないでよ」
「あ、いや、別にそういう訳じゃ・・・」
「守屋と別れたって・・・聞いてるよ」
それまで必死に俯かずに堪えていた景子の首がうなだれる。
「・・・すみませんでした」
それを聞いて、二階堂ははははと軽く笑った。
「俺に謝まんないでよ。別に俺は・・・景子ちゃんの事、悪く思ってないから」
「・・・・・・」
俯いたままの景子の薬指に光る指輪を見付けて、二階堂は口を開いた。
「景子ちゃんは・・・大丈夫?」
「・・・え?!」
想定外の質問に、思わず景子も顔を上げる。
「守屋の事・・・本気だったんでしょ?」
「・・・・・・今さら、私がどう思ってたかなんて、言う資格ないです」
「へぇ~」
思っていたのとは違う相槌に、思わず景子の顔が二階堂に向く。
「意外とそういうとこ、あいつに似てるね。俺は景子ちゃんと守屋は、似てない者同士補い合う関係かと思ってたけど・・・違ったのかな」
再び気まずそうに俯く景子だ。
「それとも、一緒にいて・・・似ちゃったのかな」
景子は静かに目を閉じた。油断したら、涙がじんわりこみ上げてきそうになるのを止めるのに必死だ。
「彼・・・元気にしてますか?」
二階堂はにこっと笑顔の返事を返す。
「仕事の方も・・・落ち着いたんでしょうか?」
「気になるなら、電話してみればいいのに」
「・・・出来るわけないです」
二階堂は景子の手元を見て、ふふっと笑みを浮かべた。
「の割に、引きずってるじゃない。だったら直接・・・」
そこまでで、景子は二階堂の言葉を食い止めた。
「今日は銀座に・・・お買い物ですか?」
「・・・ん・・・そんな優雅なもんじゃないよ。私生活がごちゃついてて、買い物なんかする気にもなれないよ。きっと景子ちゃんより俺のが、よっぽど軽蔑に値する人間だと思う」
「・・・何か・・・あったんですか?」
二階堂は少ししてから、ふっと笑顔を見せた。
「人には直接会って話せだの言っといて、自分はそれすらも出来ないでいるんだから・・・まったく困ったもんだよ」
「・・・・・・」
「多分守屋も、俺に呆れたと思う」
そう呟いてから、ふと我に返った二階堂の前に、景子が鞄から時計を差し出した。
「これ・・・彼の忘れ物です。渡して・・・もらえませんか?」
差し出された時計と、景子の腕に巻かれた物がお揃いだという事に一目で気が付いた二階堂は、もう一度彼女の顔をじっと見つめた。すると景子は、慌てた様に言葉を付け足した。
「こんなの・・・彼にとったらただのゴミでしょうけど、私が処分する訳にいかないから・・・」
「・・・・・・」
なかなか受け取らない二階堂に、景子はその手を少し引っ込めた。
「かえって、私の事思い出させちゃって・・・怒らせちゃいますかね?」
「景子ちゃんは・・・もう守屋に会わないつもり?それとも、少し時間空けてから又連絡しようと思ってる?」
「もう・・・会いません」
「・・・そうなんだ」
「これでも一応多少は彼の事分かってるつもりなんで・・・これ以上彼を苦しめたくないですから」
それから数日が過ぎた日の夜の事だ。仕事を終えて車に乗り込んだ幹夫がエンジンを掛けようとしたところで、着信音が車内に響いた。
「守屋。悪い。もう仕事終わった?」
電話の相手は二階堂だ。
「ちょうど帰るところでした」
「悪いんだけど・・・ちょっと来てもらえないかな?」
いつになく深刻な空気を感じて、少し緊張を高めて、指定された場所に向かう幹夫。
蕎麦屋の個室に案内され ふすまを開けると、そこには二階堂の向かい側には小泉史香が俯いて座っていた。
「悪い。急に呼びつけて」
挨拶代わりに二階堂は幹夫にそう言った。しかし小泉は幹夫の方を振り向きもしないままだ。
「まぁ、座って」
どちらの隣も違う様な気がした幹夫は、二人が両側に見える位置にゆっくりと腰を下ろした。妙な空気が立ち込めていて、ピンと張り詰めたその場は、容易に口を開くのも躊躇われる程だった。
「守屋にだけは、俺らの事、話した。守屋は本当に信用できる人間だから」
二階堂がそう小泉に説明するも、反応は鈍いままだ。だから今度は、二階堂が幹夫に顔を向けた。
「今彼女から色々話聞いて・・・遅いけど、きちんとけじめをつけるって約束した。守屋には、その証人になってもらいたくて・・・」
幹夫は小泉に顔を向けた。
「良かったね」
しかし、あまり嬉しそうな表情を見せない小泉だ。返事の返ってこない間を埋める様に、二階堂が口を挟む。
「そこで守屋にお願いがあるんだけど」
幹夫はすぐさま二階堂の方を向いた。
「仕事は・・・辞めてもらう様に、今彼女にも話したところで・・・」
もしかして彼女の無表情の原因はそれかもしれないと、幹夫は小泉を心配気に見つめる。すると二階堂が、幹夫の心の中を読んだように説明を始めた。
「ヘルパーの仕事は重労働だし、流産でもしたら・・・。それに大きなお腹抱えて出来る仕事でもない。だったら一旦辞めて、また子供産んで落ち着いた頃復帰したければ、どこか空きのある施設に入れてもらえばいい」
うっかり頷きそうになる自分にブレーキを掛ける幹夫だ。
「小泉さんは・・・それで納得・・・?」
到底納得してると思えない表情の小泉に、遠慮気味に質問する。返事のない小泉に、二階堂が説得口調になる。
「おっきなお腹抱えて出来る様な仕事じゃないの、史香が一番良く分かってんだろ?」
すると、ようやく小泉が口を開いた。
「所長が・・・妊婦でも続けられる様に、配慮して下さるって・・・」
二階堂の視線を急に感じた幹夫は、慎重に言葉を選ぶ。
「それは、小泉さんが未婚の母としてやってく覚悟だって話してくれたからで・・・。でも、二階堂先輩と結婚するとなれば・・・無理に働かなくても大丈夫なんじゃないの?確かにヘルパーの仕事は重労働だし、流産でもしたら大変だよ。俺も、先輩の言う通り、一旦お休みする方が賢明だと思うよ。で、またいつでも復帰してくればいいよ」
「そんな簡単に言わないで下さい」
幹夫が口を開きかけたところで、二階堂の方が先に言葉を発した。
「簡単になんか言ってない。史香の事も、お腹の子供の事も真剣に考えた結果だ」
一旦小泉が口を閉ざすから、その場の二階堂も幹夫もそれで納得したものと思い始めた。しかし、少しして小泉が幹夫の顔を見た。
「所長。離婚してすぐ結婚なんて・・・昇進の妨げになりませんか?」
「・・・・・・」
返事の出来ない幹夫に代わり、二階堂が声を上げた。
「そんな事、気にしてんのか?いいんだよ、俺は。別に本社勤務を希望してた訳じゃないし」
「嫌なの、私は。私のせいで・・・足引っ張る様な事・・・耐えられない」
幹夫の複雑な気持ちが表情になる。
「私は別に離婚も結婚も望んでない。この子産んで・・・いずれ、笑顔で会える時が来たら、それでいいと本当に思ってるんです」
「なんでよ・・・」
首をうなだれる二階堂は、幹夫にボソッと言った。
「さっきから、これの繰り返し。堂々巡り」
そう言われた小泉は、少しすねた素振りで、顔をよそに向けた。そんな彼女に、幹夫は声を掛けた。
「小泉さんの気持ちは分かった。・・・ただ・・・産まれてくる子供の為を思ったら・・・やっぱり片親より両親揃ってるに越した事はない。俺がそうだったから。これだけは・・・子供の立場から言わせて欲しい。大人の都合は知らない。でも一番寂しくて、ぶつけようのない感情と戦うのも、結局子供自身だから」
二階堂も小泉も口を閉ざして下を向いた。
「小泉さんには、俺からもお願いしたい。二階堂先輩が結婚って形を選んだんだから、それが一番いい形だと思う。で、小泉さんが心配してる昇進の件。そこは、万が一先輩が不利になる様な事があれば、俺が責任をもって回避してみせます」
「お前、何言ってんの?人事に口出しでもしたら、それこそ又問題だぞ」
幹夫は二階堂にふっと笑顔を向けた。
「人事に口出しなんかしませんよ。そんな立場でもないし・・・。それに、今は発言権もありませんよ」
「だったら・・・」
二階堂は言いかけた口を一旦止めて、真剣な眼差しの幹夫に怪訝な表情を見せる。
「お前、変に腹くくんないでくれよ」
幹夫はあえて、小泉の方に顔を向けた。
「だから小泉さん。二階堂先輩と結婚して、元気な子供を安心して産んで欲しい」
その真剣さに、小泉は思わずこくりと首を縦に振るのだった。そしてそれを見た幹夫は、二階堂の方に再び体の向けを変えた。
「先輩。俺からも・・・お願いがあります。先輩の本気を・・・見せて下さい」
テーブルの上の運ばれてきた時にはつやつやだったざる蕎麦も乾いて、てんぷらもすっかり冷めてしまっていた。