4話
フルコースの料理で 楽しみにしていたメインディッシュの前に、突然食後に出てくる筈の苦くて濃いコーヒーを飲まされて、強制的に終わりにされた様な恋の結末を味わった幹夫が、今日はラーメン屋のカウンターに、二階堂と並んで座っていた。今日は本社で、所長会議があった帰りだ。
「まずは先輩、本社栄転、おめでとうございます」
二階堂は、春から本社勤務が決まっていた。それを聞いて、今日は幹夫の方から誘ったのだ。
「めでたいのかなぁ・・・。俺はもっと現場に居たかったんだけどな」
「何言ってんですか!めでたいですよ。もっと喜んで下さいよ」
二階堂は首を傾げた。
「俺には、ここのチャーシュー麺食べられる方が、よっぽど嬉しいけど」
「またまたぁ」
幹夫は、二階堂が自分に気を使っている事を危惧して、もう少し明るい声で言った。
「給料もボーナスもアップするし、嬉しい事だらけじゃないですかぁ」
「まぁ確かに、そこはな」
「奥さんだって、喜びますよ」
そこの言葉を聞いて二階堂は、それまでほぐれていた頬を、急にピリッとさせた。
「今・・・別居中」
「・・・そうなんですか・・・?」
その場の空気が、いっぺんに重たくなったのを感じて、二階堂が笑いながら説明した。
「俺、仕事は順調でもプライベートはダメ。それに比べてお前は、プライベート最高に幸せだろ?羨ましいよ」
それを聞いた幹夫は、手に持っていたジョッキを一旦テーブルに置いた。そして、つい先日 フルコースの途中での予期せぬ苦いコーヒーみたいな、景子の部屋での悪夢のようなエピソードを話す。
一通り聞き終えた二階堂が、複雑な表情で言った。
「ちゃんと、話聞いた方がいいんじゃないの?」
「聞いたところで、何も変わんないです」
「・・・変わるよ」
「景子とやり直すつもり、全くないですから」
「・・・お前の為に、聞いた方がいいと思うよ」
「俺の為?どういう事ですか?」
「たった一回の間違いなのか、それとも二股だったのか。もしそうだとしたら、どっちが本命で、どっちが遊びだったのか」
二階堂の喋る言葉を最後まで聞かず、幹夫は自分の言葉で打ち切った。
「そんなの、今さらどっちでもいいです」
ネギチャーシューをつまみながら、二階堂が続けた。
「お前は、真相が分からないから 余計に腹を立ててるんだよ。勝手な想像と、傷付けられたショックで、景子ちゃんを責める事しかしてない」
「・・・・・・」
「それじゃ、いつまで経ってもお前が苦しいだけだろ?」
「じゃ先輩は、俺も悪かったって景子に頭下げて、円満に別れてこいって言うんですか?」
「そうは言ってない。ただ今のままじゃ、お前も景子ちゃんも、両方とも後味悪いまんまだろ?」
「そりゃあそうですよ。だけど、仕方ないじゃないですか。向こうが裏切った訳で・・・この結末にハッピーエンドなんかある訳ないじゃないですか」
珍しく感情的な幹夫を少し落ち着かせる様に、二階堂は一つ息を挟んだ。
「お前のその怒りをぶつけてきた方がいいと思うんだよ。もしかしたら向こうにも、言い分があるかもしれない。いや、それを聞けって事じゃない。景子ちゃんの為にも、それを吐き出させてあげる方がいいんじゃないかとも思う。だってお互い、一度は真剣に結婚を考えた人なんだから」
幹夫は眉間に皺を寄せて、じっと目を閉じた。
「女って怖いですよ。浮気しといて、平気で俺と会えるんだから。平気な顔して電話して、平気な顔して俺の為の買い物して、平気な顔して『美味しいの作る』なんて言えんですから」
「・・・平気な顔かどうかは、分かんないだろ?」
「平気な顔でしたよ、どう見たって。俺があの時証拠見付けなかったら、いつもと同じ様に俺と笑顔で過ごしたのかって思うと・・・ぞっとします」
二階堂は俯いていた顔を少し上げた。
「人は誰でも、そういう鬼を一匹は心ん中に飼ってるのかもしれないよ。景子ちゃんだけじゃない。俺ん中にもいるし・・・多分、殆どの人の中にいるんだと思う」
幹夫は苦虫を潰した様な顔で、首をひねった。その隣で、二階堂は静かに話を続けた。
「今回の事も、きっとお前にとっちゃ 到底割り切れないだろうけど。でもさ、そういう事って たくさんあるだろ?組織の中で働いてたら尚更だ。2÷2=1みたいに、いつもスパッと気持ち良く割り切れる答えばっかりだといいんだけどな。割り切れないから延々と同じ事の繰り返しで葛藤したり、もやもやしたりするしな。計算と同じだ。だから・・・守屋の言葉は、今の俺には耳が痛いよ」
「なんで、先輩が・・・」
「いや、ごめん、ごめん。俺の話はいいんだ」
二階堂は腕組みをした。
「その 割り切れない問題を割り切るには、何が必要だと思う?」
「・・・・・・」
「それが分かりゃ、守屋も俺も・・・うちの嫁さんも楽になるのにな・・・」
二階堂の話が終わったのを見計らった様に、二人の前にチャーシュー麺が湯気を上げて差し出される。箸を一膳 二階堂に渡しながら、幹夫が言った。
「・・・・・・俺・・・正直、もう思い出したくないんですよ」
疲れ切ったその背中に、二階堂はぽんと手を当てた。
「さぁ、食おう!ここのチャーシュー麺、旨いぞぉ」
幹夫の為に作る筈だった豚汁の材料が、冷蔵庫に残ったままだ。冷蔵庫を開ける度に、それを眺めてはため息をつく景子だった。そしてもう一つ。幹夫が外したまま置いていってしまったペアウォッチ。あの日以来、幹夫の写真の前にそれを置いてある。これが又幹夫の腕に戻る日が来るかは分からないけれど。そしてあの日から景子は、何度も思いを言葉に乗せて送ろうか迷っている。携帯の中で、書いては消し書いては消しを繰り返して、結局送らないままになっている。正直に包み隠さず話して謝った方がいいのか、それとも本当に愛していたという事だけ伝えた方がいいのか、どれが正解なのかが分からない景子は、毎日溜め息でその文章を消しているのだった。そんな夜、目の前の携帯に着信がある。・・・岡本だ。景子は大きく息を吸い込んでから、携帯を手に取った。
「・・・もしもし」
「あ、景子ちゃん?」
いつもの岡本の声だ。しかし、電話を掛けてくる事など珍しい。だから、大体内容に察しがつく。何となしに気まずいまま、手探りの会話が行き交う。
「今、平気?」
「うん」
まどろっこしいうわべの世間話に早々に区切りを付けて、岡本は先日の夜の事を引っ張り出した。
「この間の事なんだけどさ・・・」
景子は静かに胸いっぱいに息を吸い込んだ。ここ何日も葛藤してきた自分の失敗ともう一度向き合う準備だ。
「景子ちゃん、彼氏いたよね?」
「・・・うん」
「俺もさ・・・彼女いるしさ・・・」
「・・・うん」
「ま、だからお互い・・・何ていうの・・・今まで通りって事で・・・いいかな?」
「・・・そうだね」
「お互い・・・結構飲んでたしね。あっ・・・だからって誰でも良かったって訳じゃなくて・・・景子ちゃんがあん時、めちゃくちゃ可愛く見えて・・・」
「いいから、そういうの。大丈夫」
岡本の変な気遣いや取り繕う様な言葉は、もっと景子を惨めにした。
「でさ・・・他の誰かに・・・話した?」
「・・・ううん」
その質問を聞きながら、岡本が次に何を言うか大体想像が出来た景子は、これ以上傷つかない為の防御線を張る。
「岡ぽんも誰にも言わないでね。皆の空気が変わっちゃうの嫌だから」
「だよね。了解」
岡本の声が、心なしか軽くなっている様に聞こえる。その証拠に、岡本の口が最初よりもよく喋る。
「勘違いしないで欲しいんだけど、別にこの間のは遊びって訳じゃなくて・・・あの時はあの時で、いい時間過ごしたと思ってるよ」
皮肉にも シーソーの様に、岡本の心が軽くなる傍らで、景子の心はどんどんと沈んでいくのだった。電話を切った後に残る、何とも言えぬ後味。灰汁の強い食べ物に口の中を占領されたみたいだ。
まだ幹夫と付き合う前に 二人で出掛けたマザー牧場の帰りに、車の中で撮った運転中の幹夫の横顔。写真立ての中から、あの晩の一部始終を幹夫に見られていた様な気持ちになる。今さらどうしようもないと分かっていながら、景子は、あの時見た桃色の花畑の一枚と一緒に飾ってあった その写真立てを、そっと伏せた。
今日は幹夫の母の診察の日だ。最近では、病院の日になるとやけに嬉しそうだ。それは当然、診察を楽しみにしている訳ではない。景子に会って、笑いながらお喋りをしてくるのが、何よりもの楽しみになっている。受付を済ませた時から、母はそわそわする。景子の姿を探しているのだ。
「守屋さん。守屋明子さん。3番にお入り下さい」
そう促され、診察室に入る。大抵いつもそこには景子がいるが、今日は別の看護師だ。会計を済ませるまで 結局景子の姿を見なかった母は、目の前の事務員に聞いた。
「今日は度会さん、お休み?」
まだ若いその事務員がキョトンとした事など、母はお構いなしだ。
「ちょっと知り合いの者ですけどね。いつもは私の診察の時にいるのに今日は居ないから、どうしたのかしらと思ってね」
「少々お待ち下さい」
そう言って、事務員が奥に姿を引っ込める。暫くして出てきた時には、景子も一緒に連れ立っていた。景子の顔を見るなり、顔いっぱいに笑顔を咲かせて、母は少女の様に 胸元で両手を振った。一方景子は、深く頭を下げた。
「ごめんね~、忙しいのに。顔見なかったから、今日はお休みなのかなと思って聞いてみたのよ」
「・・・すみませんでした」
景子は再び頭を下げた。
「景ちゃんが謝る事ないのよ~。せっかく来たから、顔見て帰りたくって」
さっきの事務員が、隣で微笑んでいる。そんな彼女に、母はつい嬉しくなって口が緩む。
「景子ちゃんはね、実はうちの・・・」
そこまで聞いて、景子は慌てて口を挟んだ。
「あのっ・・・ごめんなさい。私もう戻らないと・・・」
「あ、そうね。ごめん、ごめん。じゃ、またね」
又可愛らしく胸元で手を振る母に、景子は深々とお辞儀をした。
ある晩、幹夫が中身のいっぱいになった母の薬の袋を見て言った。
「薬、貰いに行ったの?」
「うん。水曜日にね」
「・・・何か・・・あった?」
母は不思議そうな顔でその質問を聞く。
「血圧も落ち着いてるし、今のところ問題ないって」
少し考えている幹夫に、母が気付く。
「何?」
「病院・・・変えた方がいいんじゃないかなと思って」
当然、母は目を見開いて、身を乗り出してくる。
「なんで~?いい先生じゃない。今出してもらってる薬も調子いいし」
「ゆくゆくはさ、やっぱ大きな病院に掛かってた方が、何かと安心だと思うし」
「そん時は、先生から紹介してもらえばいいじゃない」
幹夫の理由が少々強引な事も、唐突すぎるという事も承知していた。しかし幹夫は、頑なにそれを主張した。
「何よ、急に・・・」
母は口を尖らせる。
「いずれ大きな病院に変えてもいいけど、今はまだいいんじゃない?症状も落ち着いてるんだし・・・。ほら、それに今は景子ちゃんだっているでしょ?何かあれば、又景ちゃんに頼んでみればいいじゃない」
『景子』の名前にとっさに苦い顔をする幹夫とは裏腹に、母は手を叩いて思い出したエピソードを話し出す。
「そうそう。この間ね、景ちゃんがいなかったから、帰りに受付で・・・」
幹夫は話の途中で、母の口を止めた。
「俺、景子とは別れたから」
ゼンマイ仕掛けの人形が途中で止まってしまったみたいに、母の口は開けっ放しになる。
「・・・何?何て言った?」
「だから・・・景子と別れたって」
その事実を受け止めるのに時間が掛かっているのか、母は瞬きを忘れている。
「何よ・・・結婚すんじゃなかったの?」
「そのつもりだったけど・・・別れた」
そろそろいつもの母の弾丸が勢いを取り戻す。
「結婚するつもりだった人と、そんな簡単に別れて・・・」
『そんな簡単に』というフレーズが、幹夫の心の奥の方にあるピンと張った糸に触れた。
「よく言うよ。お袋だって、親父と簡単に別れたくせに」
幹夫のストレートパンチを顔面にもろに食らった母は、言葉を失うも又すぐに復活する。
「簡単に別れたなんて言うな!知りもしないくせに」
「その言葉、そっくりそのままお袋に返すよ」
ぶつぶつ言いながらも一旦黙る母が もう一度口を開いたのは、深呼吸をして新しい空気を頭に送り込んでからだった。
「あんたのお父さんは、私達を裏切ったんだよ」
その言葉が、景子に対して抱いている感情とリンクして、幹夫の感情の針は更に振れた。
「たった一回の浮気を許せなかったお袋に、俺の事言う資格あんの?」
母の目尻が、急に吊り上がる。
「一回なら、私だって笑い飛ばしてやったわ。何年間もコソコソ通った女と駆け落ちした男、いつまで待ちゃぁ良かったんだよ?」
「・・・・・・」
「何?あんた、浮気でもバレたの?それで景ちゃんに捨てられでもした?」
「違うよ」
幹夫の表情をじっと見つめる母。
「それとも、景ちゃんによそ見でもされたか?」
「・・・違うよ」
眉間に皺の寄った幹夫に、母はあえてはははと笑った。
「そんな覚悟もしないで“結婚”“結婚”言ってたの?まったくぅ、いい年しておままごともいいとこだ」
荒い言葉と強い母の口調を聞きつけ、祐司が部屋の入口のすぐ傍で、不安げに立っていた。それに気づいた幹夫は、すぐさま表情を戻した。
「ごめん、祐司。おっきな声出してびっくりしただろ?」
振り返った母も、少しバツの悪い顔をしている。
「・・・何か、あったの?」
祐司が心配そうな顔で、二人にそう聞いた。
「何でもないよ」
幹夫が答えるよりも先に、母がそう言った。すると祐司の顔が妙に寂し気に沈む。だから幹夫は、少し無理やり笑顔を作ってみせた。
「俺・・・景子と別れたから。だから、結婚の話もなし。まだまだ当分ここにいるから、よろしく」
あまり感情を表に出さない祐司が、僅かばかり驚きの色を見せる。
「・・・僕のせい?」
元々小さな声の祐司が、いつにも増して小さい声でそう言うから、母と幹夫は顔を見合わせた。
「なんで~。祐司のせいな訳ないでしょう」
「そうだよ。俺と景子の問題だから」
母と幹夫は、祐司の誤解を解くため必死だ。
「お母さん・・・ごめんね」
また悲しい顔を見せた祐司に、釘付けになる母と幹夫だ。
「お母さん、景子ちゃんとの結婚楽しみにしてたから」
幹夫が俯くと、祐司の話に続きがあった。
「兄ちゃんはきっと又、結婚の話出てくると思うけど・・・僕なんかきっと結婚なんて無理だから・・・お母さん喜ばせる事もできないね」
まだまだ祐司の言葉の中には、自分を否定する言葉が羅列されている。その一つ一つが、母と幹夫の心を悲しくさせるのだった。




