3話
3月の飲み会の日がやってくる。そこに集まったのは、景子の他に、看護師二人にレントゲン技師、リハビリテーション科の医師に薬剤師というメンツだ。その他にも今日来られなかった看護師二名の計8人が、当時の飲み仲間だ。8人酒飲みを揃えたと言ってもいい位、一人残らず酒好きだ。特にこの仲間が集まると、はしご酒は当たり前だ。2軒3軒と飲み歩き、大抵帰りは皆タクシーだ。
今日の6人も顔を合わせるのは久し振りだ。現在も記念病院に勤めるレントゲン技師の“岡ぽん”こと岡本弘に、最近の病院内部事情に関する質問が飛ぶ。
「呼吸器科の広瀬先生、記念病院辞めて開業したらしいね」
「そうそう。練馬の自宅近くでやってるって噂聞いた」
「あの先生、喘息の患者さんには定評あったもんねぇ」
看護師の持っている情報量は凄い。伊達に何千何万という患者相手に、無駄にコミュニケーションを取ってはいない。はじめはいつも、病院の話や今の職場の話からだ。その内それが広がって、今の医療についてや、現代の日本が抱える医療業界の弱点などという真面目な話題にまで及ぶ。しかし、お酒の量が増す毎に、段々とそんな話題にも飽きてくる時間帯がある。それは大体、二軒目の終わり辺りだ。示し合わせた訳ではないけれど、大抵真面目な議論に疲れた誰かが、弾けて砕けた事を言うと、それを合図に次の店に移る準備に掛かる。いつも誰も帰ろうとしないが、誰かが強制している訳でも引き留めている訳でもない。むしろ呑兵衛達は、ようやくエンジンが掛かってきて、さぁこれからが本番といった様子さえ窺える。
そんな景子の鞄の中の携帯には、幹夫からのメッセージが届いていた。
『先日の事故で入院されてた横澤敏也さん、今日無事退院となりました。ただもう別の施設に移られてしまわれたけどね。でも一旦区切りがついたから、少しほっとしました』
しかし、景子はそんな受信メッセージに気付かず、久し振りの仲間との時間に、どっぷりと浸かっているのだった。
賑やかな場所に少し疲れた一行が、大抵最後に行くのがダーツバーだ。地下一階のお店の階段を降りている途中で、ふとよろめいた景子の前にいた岡本が支えとなって難を逃れた。
「大丈夫?かなり酔ってる?」
景子はケラケラケラと笑ってみせた。そして景子の口から出た言葉は、その質問の答えではなかった。
「岡ぽん、意外に筋肉男子だね~」
店内に入り、テーブルに飲み物が揃ったところで、もう一度景子が言った。
「ねぇねぇ、一回だけ胸筋触ってもいい?」
岡本はボディビルダーの様に決めポーズをしてみせる。
「何?景子。筋肉フェチだっけ?」
「細マッチョに弱いんだよね~」
すると、看護師仲間の小柄な滝美江が言った。
「それ、わかる~!隠れ筋肉男子!脱いだら凄いってやつ」
そう言って二人は、岡本の胸筋を触ると、お~!と目を合わせて唸った。
「ご満悦の体ですなぁ」
からかう様に薬剤師の秋本が眼鏡を上げながら言った。するとリハビリテーション科の“さくちゃん”こと佐倉井が負けじと腕をまくって見せた。
「筋肉なら、こっちも負けてないよ」
すると女達が別の事に食いついた。
「さくちゃん、すべすべ~!」
「そ。俺、体毛薄いのよ」
「全然毛、な~い」
そう言いながら、滝美江が佐倉井の腕を撫でた。
「男性ホルモン少ないのかも」
「さくちゃん、髭も薄い?」
佐倉井は顎を手で撫でる。
「まあまあ薄い。っていうか、それ以前に、髭似合わない顔立ちなんだよね~」
「確かに~」
女子三人が声を揃える。
そんなどうでもいい様な話を気が向くだけして、いつの間にか腕相撲大会へと発展する。女子三人が予想を立てる。
「やっぱ、隠れマッチョの岡ぽんでしょ」
割合直感で動く景子の意見に乗っかる美江。すると、正反対の理屈派の美羽が腕組みをして言った。
「でもさ、仕事柄さくちゃんってのもあるよね~」
それを聞き終わった秋本が、眼鏡のずれを直しながら口を挟む。
「俺に賭けなくていいの?良く見てよ。この中で、一番酔ってないからね」
それを聞いた美江が、悩んだ挙句、秋本に乗り換える。総当たり戦で戦って、結果はあっという間に隠れマッチョの岡本に軍配が上がって終わった。
景子からの返信がないまま、幹夫がもう一通メッセージを送る。
『久々に景子んとこ行っていい?』
しかしその言葉が、景子に届かないまま夜は更に深まっていった。
施設内での事故からようやく一段落着いた幹夫を、二階堂が労う。立川の 閉店が近い居酒屋のカウンターで、生ビールを頼む二階堂の隣で、ウーロン茶をオーダーする幹夫に、当然の突っ込みが飛ぶ。
「今日くらい酒飲めよ」
「車なんで」
「そんなの代行頼めばいいだろ?そういうとこ、真面目過ぎるっていうか・・・。ま、それもお前の持ち味っちゃあ持ち味だけどな」
その言葉に笑顔で相手をする幹夫。
「前に先輩に言われた様に、今日この後、景子んとこ行こうかなと思ってるんで」
納得した二階堂が、今度は慌てて腕時計を確認する。
「じゃ、俺が誘ったの、野暮だったな」
幹夫はにっこり微笑んだ。
「そんな事ないです。嬉しいです」
そんな会話をしながら小一時間程過ごして、二人は居酒屋を後にした。
「先輩、駅まで送りますよ」
「いいよ、いいよ。それより早く景子ちゃん所行ってやれ。待ちくたびれて寝ちまうぞ」
二階堂と別れ、車に乗り込んだ幹夫が携帯を取り出す。さっき送ったメッセージが、未だに未読のままだ。幹夫は通話ボタンを押した。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、明朝いつも通りに仕事のある6人は、それぞれの方面へとタクシーで散らばっていく。同じ方面の景子と岡本、美羽と秋本が同じタクシーに乗り込むと、深夜の街中で四方へ散っていった。
景子のマンションの前で、一旦タクシーが停まる。そこまでの分のお金を景子が岡本に渡すと、それを岡本は押し返した。
「いらないよ。俺んちに帰る通り道なんだから」
しかし景子は、そんな会話が耳に入らない様子で、鞄の中をガサガサやっている。
「あれ~、鍵ない。お店に落としてきたかなぁ」
「ポケットは?」
「どうしよ~、無いんだけど~」
二人の座るシートや足元まで盛んに探す岡本の動きが急に止まった。
「持ってるよ、手」
景子の左手には、鍵がしっかりと握りしめられていた。
「え?!あ~やだぁ~」
そう言ってゲラゲラ笑いながらタクシーを降りた途端に、再びよろめく景子だ。
「大丈夫?」
「平気、平気。もうぱっと入ったら家だから」
その言い方に不安を感じた岡本が、急に清算をしてタクシーを降りた。
「はい、鍵貸して。玄関までエスコートしますよ」
エレベーターの中で、急に景子が笑いだした。
「な~んか家着いた途端、急に酔いが回ってきた」
「景子ちゃん、急に酔いが回ったんじゃないからね。さっきから相当酔ってるよ。しかも、厳密に言うと、まだ家着いてないし」
「岡ぽん、そんな細かい事言ってぇ~」
エレベーターを降り、ようやく家の玄関の前に来る。景子からさっき預かった鍵で 岡本が玄関の扉を開けようとした時、景子が言った。
「あれ?なんで岡ぽん、ここにいるんだっけ?」
「酔っててちゃんと帰れるか心配だったから、家入るの見届けに来たんだよ」
「悪いね~、迷惑掛けちゃって」
そう言う景子は、酔っていて あまり悪びれた様子はない。真っ暗な部屋に入るなり、電気だけつけて、あとはコートも着たままベッドに伸びる景子に、岡本が玄関から声を掛ける。
「俺帰るけど、鍵かけられる?」
当然、返事はない。だから岡本はもう一度玄関から声を飛ばした。
「俺鍵かけて、ドアのポストに鍵入れとこうか?」
曖昧で頼りない返事しか戻ってこないから、岡本はじれったくなって部屋に上がると、景子の傍に近付いた。そして冷えた部屋の中を見回してエアコンのスイッチを入れる。
「布団に入らないと、風邪ひくよ」
「う~ん・・・」
上の空で体だけもぞもぞと動かす景子を見て、岡本はくすっと笑った。
「そんなんで布団に入れる訳ないでしょう。・・・まったく・・・」
独り言を呟きながら、岡本は掛布団を剥いで景子のコートを脱がせた。手近にあったハンガーに景子のコートを掛けると、まだ温まらない部屋に布団の中で背中を丸める景子に、もう一度岡本が声を掛けた。
「明日、ちゃんと起きられる?アラーム掛かってる?」
すると景子は手だけ伸ばしてバッグの方を指さした。
「携帯・・・」
「どこ?コート?鞄?」
「バッグ・・・」
玄関に置き去りにされたバッグをベッドまで岡本が持っていくと、そこから携帯を手探りで探し当てる景子だ。幹夫からの着信履歴に気付かないまま携帯を枕元に置いて、そしてその横に外した腕時計も無造作に置いた。景子は薄っすら目を開けると、視界にぼんやりと映る岡本の顔。
「岡ぽん、ありがと」
「・・・・・・」
ベッドの脇でしゃがんだままの岡本が、急に黙る。しかし、睡魔に襲われて景子の瞼はゆっくりと閉じていくと、そこに吸い寄せられる様に、岡本の顔が近付いていった。唇に触れた岡本の体温が、夢と現の間を彷徨っている景子に届くのに時間が掛かる。
「あったかい・・・」
エアコンがまだ効いていない部屋の中で、岡本の体温に心を緩める景子だ。こんな時、部屋に飾られた笑顔の写真の幹夫は、無機質なフレームの中から無言で見守る実に無力な存在だ。
そして、軽石の無数の小さな気泡に 岡本というぬるま湯が沁み込んで、景子は次第に落ちていった。
次の朝、慌てて仕事に向かう途中で景子の携帯が鳴る。案の定寝坊して、とりあえず最低限の身支度を整えて、枕元の携帯電話と腕時計を掴んでバックに放り込んできた景子だ。鞄の底の方で呼び出す主は、幹夫だった。
「・・・どうしたの?こんな朝早くから珍しい」
「呑気だなぁ~景子は。昨日から電話も出ないし、ライン送っても既読にもなんないし返信もないから、具合でも悪いんじゃないかと思って 俺ずっと心配してたんだよ」
最近の幹夫にしては、少し声が元気だ。
「あ・・・そうだったんだ、ごめん。連絡くれてたの?昨日は・・・昔の仕事仲間と遅くまで飲んでて・・・」
「そうだったんだ。いやぁ、昨日会いに行こうかと思って連絡したんだけど出ないから。家で待ち伏せして、酔って帰ってきた景子驚かせば良かった」
はははははと幹夫の軽快な笑い声を聞きながら、景子の背筋が凍り付く。しかしそんな事露ほども知らない幹夫は、妙に嬉しそうだ。
「今日仕事の後、会いに行ってもいい?」
「・・・今日?!」
「都合悪い?」
「いや・・・別に・・・そうじゃなくて・・・大丈夫なの?仕事の方」
「まぁ何とか一段落着いたから」
「・・・そう・・・。良かったね」
「じゃ、終わったら家行ってる」
「・・・久し振りだから、気分転換に外でご飯でもどう?」
「俺、景子の豚汁食いたいんだけど」
「あ・・・」
「結局この前食べらんなかったし」
「・・・そうだよね」
「外に行く元気は、今日はないわ。ごめん。家でゆっくりしたい。美味しいとこは、今度ちゃんと連れてくから。ね?いい?」
珍しくすぐに返事をしない景子だ。
「・・・部屋・・・散らかってる。今朝急いでたから」
それを聞いて、幹夫ははははと軽く笑った。
「平気。全然気にしない」
再び景子の返事が止まる。
「・・・何時頃来る?」
「俺今日本社だからさ。3時頃には着いちゃうかも」
「・・・早いんだね。・・・でも私、買い物もまだしてないし、7時は過ぎちゃうから・・・」
そこまで言いかけたところで、幹夫の言葉がかぶさる。
「平気平気、慌てなくて。俺適当にやってるから。寝てるかもしれないし」
「・・・・・・」
電話の向こう側の景子の様子に、幹夫がふと立ち止まる。
「あれ?もしかして、豚汁とか迷惑?景子も疲れてるか・・・」
あともう一息待っていたら、幹夫が食べたいと言っていた豚汁を引っ込める雰囲気を感じて、景子は反射的に声が出る。
「全然。私は平気。豚汁・・・大丈夫。美味しいの作るから」
電話を切った後で、景子は重たい溜息を吐いた。
3月に入って日没の時間が多少遅くなったのを感じる今日この頃だ。本社からの帰り道、陽が西の空を茜色に染める頃、幹夫は景子の部屋の鍵を開ける。手には、景子の好きな洋菓子店のチーズケーキをぶら下げて。約一か月振りに訪れた部屋に入ると、幹夫は懐かしくてほっと安堵の溜め息を吐く。今朝景子が家を出る時には幹夫が来る事を想定していなかったとわかる生活感に、幹夫は何故か居心地の良さを感じるのだった。流しに置かれたままのグラス。整っていないベッドの布団。景子が部屋で着ているカーディガンが無造作に置かれた感じ。幹夫はそれとなしに片付けながら、いつもは景子が淹れてくれるコーヒーを自分でセットする。背中をベッドに預けて、テレビをつける。ネクタイを解き コーヒーを一口すすって、景子との記念に買ったペアの腕時計を外しテーブルに置くと、幹夫は大きく伸びをした。ようやくここ最近の緊張が解けた様な心地になる。テレビからは 少し前にやっていた連ドラの再放送が流れてくる。それをBGMに、テーブルの下に置かれた結婚準備の情報誌。ペラペラとめくると、所々角を折ってあるページを見付ける。自然と幹夫の頬も緩んでいく。以前に二階堂が、
『何でもない話して、心も体も解放する時間作れ』
と言ってくれた意味が、今になって身に沁みる。コーヒーをまた一口飲んで、幹夫は本棚に飾ってあるフォトブックを手に取る。見ているこちらが、明るく元気になる様な写真が多い。再び幹夫の顔は、自然とほころんでいく。そして、この人と一生共に歩んでいこうと決めた事が間違っていなかったと改めて再認識すると、急に景子が恋しくなって ベッドに体を横たえる。そして次第に体が重力から解放されるのを味わうと、景子の腕の中の様な心地良さを感じながら、幹夫は眠りの谷へいざなわれていった。
『もうすぐ着くから、待っててね』
景子からのメッセージの着信音で幹夫が目を覚ました時には、もうすっかり外は真っ暗になっていた。景子のメッセージと時間を確認した幹夫は大きく伸びをした。
「久々によく寝れたわ~」
独り言をそう呟いて起き上がる。テーブルの上の冷めたコーヒーに口を付けて、真っ暗になった部屋に電気をつけようとベッドから下りる時、足元のごみ箱に足が当たる。電気をつけて明るくなった部屋に転がったゴミ箱からは、中身が飛び出している。その ある筈のない 信じ難い物が、床の上から幹夫を凍り付かせた。そして幹夫の心を否応なしに揺さぶった。それは・・・ティッシュや他のゴミに紛れた 使用済みの避妊具だった。かがんだ姿勢のまま時が止まった。幹夫は金縛りにでもあったかの様に動かない。頭が動き出したのは、それから暫くしての事だった。いや。頭はずっと動いていたのだ。巻き戻しや早送りの動作がいっぺんに押し寄せて、正常な速度に戻るのに時間が掛かったのだ。幹夫の中の何かが壊れる音がしたと同時に、玄関の扉がガチャッと開いた。
「ごめんね、遅くなって」
息の上がった景子が帰ってくる。慌てて靴を抜いで、両手いっぱいの買い物袋を台所に置いた。
「豚汁の他にね、幹夫の好きなとんかつにしようかなと思ったんだけど、豚肉と豚肉だし・・・と思ってたら、美味しそうなお刺身が売っててね。それ買ってきちゃった。あとはね・・・」
買い物袋をガサガサやりながら喋る景子だ。
「あ、そうだ。先にあったかいコーヒー淹れるね」
幹夫のマグカップを持ち上げると、その場で黙って突っ立ったままの幹夫を感じて、顔を上げた。
「・・・どうしたの?」
今まで見た事もない様な表情の幹夫から醸し出される空気は、ピンと張り詰めていて、自然と景子の口を閉ざした。
「・・・どういう事?」
重く低い声が、部屋に響く。不安と悪い予感を胸にいっぱい抱えた景子の口は、さっきとは打って変わってピクリとも動かない。
「・・・これ・・・何?」
足元に転がったゴミ箱からはみ出た残骸を指さす幹夫。ただそれを見つめて、じっと動かない景子に、幹夫は冷たく言い放った。
「俺・・・こういうの無理だわ」
幹夫のマグカップを片手に持ったまま、景子は転がったゴミ箱をただ見つめていた。
「・・・ごめんなさい」
その言葉を聞いて、幹夫は更に落胆の溜め息を吐き出した。そして、黙ったまま鞄を持ち上げ玄関で靴を履いた。そんな幹夫に景子は遠慮気味に駆け寄って、後ろから袖を引っ張った。
「待って。行かないで」
「・・・話し合って何とかなる状況じゃないでしょ」
振り返らずに喋る幹夫のトーンは、極めて冷たかった。
「ごめんなさい。でも、待って。違うの・・・」
「何が違うの?違わないでしょ?この部屋で今弁解を聞けるほど、俺出来た人間じゃないよ」
「・・・・・・」
玄関のドアノブに幹夫が手を掛けると、景子がもう一言絞り出した。
「私・・・幹夫の事愛してる。それは今も変わってない」
それを聞いて、幹夫はふっと鼻で笑った。
「・・・その言葉信じろって?そこまで俺、めでたい男じゃないって」
その後、玄関のドアが重たくガチャンと閉まった。