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The other side story ~the passed days~  作者: 長谷川るり
2/10

2話

「私、今の病院、辞める事にした」

景子の家で、食後のコーヒーとチーズケーキをテーブルに、二人まったりとした時間を過ごしている時の事だ。かねてから、先輩看護師石田との不協和音を相談されてきた幹夫は、景子の決断を尊重する。

「次は、すぐどっか考えてるの?」

「うん。昔の同僚が今働いてる所に空きがあるって教えてくれて。そこ面接してもらおうかなって」

「そっか。よく頑張ったよ」

そう言って、幹夫は優しく 隣の景子の肩を引き寄せ、頭を撫でた。

「次がそこに決まったらね、そこは外来だけだから、もっと幹夫と会う時間が出来ると思う。夜勤とか無くなるし」

「嬉しいな」

二人は見つめ合って、軽く唇を重ねた。そして、景子は上目遣いで幹夫に質問した。

「さぁ問題です。来月は何の月でしょう」

幹夫ははははと笑った。

「簡単すぎるよ~、問題が。俺らが付き合って三年目の記念日でしょ?」

「ちゃんと覚えてるんだぁ」

「覚えてるよ~。去年も一昨年も覚えてたでしょ?」

「うん。一昨年はこれ作ってくれて・・・」

景子が手に持って見せたのは、今までの写真を集めて綺麗に製本されたフォトブックだ。一年目の記念に、それまで撮り貯めてあった写真から抜粋し、幹夫が景子に贈ったプレゼントだ。そして景子は自分の左腕と幹夫の左腕をくっつけた。

「去年は、これ」

ペアウォッチだ。並んだお揃いの時計をじっと見つめながら、景子が少し寂しそうに言った。

「付き合いが長くなると、こういうの・・・段々忘れちゃうかなと思って」

「忘れないよ」

幹夫は景子を腕の中に包み込む。すると景子がいつになく弱気な声を出した。

「何年先まで、私達一緒にいるのかな」

「ずっといるよ。この先、ずっと」

幹夫の腕に力がこもる。

「・・・ずっと?」

「そう。ずっと」

「じゃあ、付き合った記念日も、毎年大事にする?」

すると、幹夫が少し首を傾げた。

「あ・・・それは・・・もしかしたら別の記念日に負けちゃうかもな・・・」

「別の記念日?!」

幹夫の肩に寄り掛かっていた顔を、景子は上げた。それに応える様に、幹夫は少し背筋を伸ばした。

「来年からは、もしかしたら・・・結婚記念日になるかも」

少々呆気に取られている景子。

「今年の記念日には・・・ちょっと、考えてる事あった」

「・・・え?何?」

幹夫は黙ったまま含み笑いを浮かべた。

「何よ~」

なかなか口を割らない幹夫の脇腹を景子がくすぐると、くすぐったがり屋の幹夫は、すぐに反撃をしかける。キャッキャ言いながらじゃれ疲れて どちらからともなく終わりにすると、冷めかけたコーヒーに口を付けて、幹夫が言った。

「本当は黙ってたかったんだけどなぁ」

幹夫は試す様な表情で景子をチラッと見た。

「バレちゃったら面白くないから、やっぱやめよっかな~」

「・・・え~・・・」

幼い子供が駄々をこねる様な素振りの景子だ。そして口をすぼめてボソボソッと言った。

「ごめん・・・」

そのすねた顔が可愛すぎて、幹夫はにっこり微笑んで 景子の左の薬指をそっとなぞった。そして、幹夫は目の前にあったケーキ屋のリボンを 景子の薬指にやんわりと結わえた。

「・・・嬉しい?」

「そりゃぁ・・・嬉しいよ」

照れ笑いを浮かべながら、景子が答えた。  

「じゃあ、楽しみにしてて。・・・っていうか、ネタ晴らししちゃったから、サプライズ感まるでないけど」

すると景子もコーヒーを一口飲んで、ベッドに寄りかかっていた背中を正し真顔になった。

「・・・田舎の父の事、どうしようかなって」

景子は、福島に一人でいる父の事を気にかけていた。しかしその事を話すのは初めてだった。

「実はね、震災以来、一人でいるのが年々歳と共に心細くなっちゃってるみたいで」

「こっちに呼んだら?」

「私も何回もそう言ってるんだけど、億劫みたい。今更慣れた土地離れるの。むこうにはお母さんのお墓も思い出もあるしね。・・・それにまだ仕事してるし」

「確かお姉さんいたよね?今どこにいるの?」

「結婚してて、旦那が転勤族だから、あちこち。今は北海道にいるけど」

「景子が向こう帰って、って事も考えてるの?」

景子はゆっくりとコーヒーに口を付けた。

「今の病院辞めるって決めた時、向こう戻って就職する事も考えたんだけど・・・幹夫とも離れたくないし」

そう話す景子の手に、そっと幹夫は手を重ねた。

「福島なんてすぐそこだよ。休みの日にすぐ会いに行ける。俺なら、大丈夫だよ。何も変わらない」

景子は静かに首を横に振った。

「遠距離で私、一回失敗した事あるから・・・離れるのは怖いの」

幹夫は景子を優しく包み込んだ。

「一旦景子が田舎でお父さんと一緒に暮らして、その間にお父さんを説得して、ゆくゆくはこっちに一緒に出てきて結婚するっていうのはどう?そうやって目標があれば、離れても頑張れるんじゃない?」

「ありがと。でもね・・・」

景子は首を横に振った。

「いいの。知り合いに紹介してもらった近くの病院、面接してもらう事に決めたし」

心配させまいと無理に笑う景子に、幹夫は掛ける言葉を考える。

「じゃ、二人で挨拶に行こう。で、定年されて、ゆくゆくはこっち出てきて頂ける様にお願いしてみようよ」

「ありがと。私・・・幸せだね」

二人はにっこり微笑んで唇を重ねた。


 景子が立川の病院を辞めて、新しく働き始めて間もなくの事だ。幹夫が母親の最近の様子について、景子に相談した。

「前からずっともらってる降圧剤、飲んでても最近血圧が高いみたいでさ。掛かりつけの病院で聞いたらしいんだけど、特に何の指示もなく、薬も今まで通りらしいんだよね。それって・・・大丈夫なのかな?」

「もしかしたらそこの先生は、もう少し様子を見てからって思ってるのかもしれないけど・・・血圧は命取りになる事もあるし怖いから・・・、もし心配なら、うちの病院一回かかってみる?うちの先生、高血圧とか生活習慣病の患者さんも多くて、そういった病院とのパイプラインも持ってるから、何かあれば紹介もしてもらえると思うし」


 その会話から時間を空けずして、幹夫は母を景子の勤める病院で診察を受けさせる手筈を整えた。診察の前に、入り口の外に出てきた景子と、母が初対面する。 

「こちら、度会景子さん。俺が今結婚を考えてる女性」

「初めまして。度会と申します。幹夫さんとお付き合いさせて頂いています」

景子が深く腰を折ってお辞儀をすると、母もにっこり笑って頭を下げた。

「こちらこそ、息子がお世話になってます。今日も、先生を紹介して下さって、ありがとうね」

「とても評判の良い先生なので、不安に思われてる事やお聞きになりたい事、何でもご質問なさってみて下さい」

そんな初対面の印象が良く、母はすぐに景子を気に入った。


 その晩の事。景子の心配とは反対に、幹夫の明るい声が電話の向こうから聞こえてくる。

「かかりつけの病院変えようかしらって言ってる。あそこなら景子ちゃんもいるし、安心だからって」

母の反応に、一先ずほっとする景子だ。

「景子の方こそ、どうよ?うちのお袋の印象」

「明るいお母さんで安心した。先生とのやり取りもね、ゲラゲラ笑って楽しかったぁ」

診察室内での 幹夫の知らない様子を景子が伝える。

「お袋、なんか変な事言ったの?」

「ううん、違う違う。色々先生から質問されてて、それの答えがざっくばらんっていうか、包み隠さないっていうか・・・カッコつけないっていうか。普段の生活について色々お話下さって、そこにいた先生とお母さんと私で、ゲラゲラ笑っちゃって。楽しかったぁ」

その場面がかなり朗らかなものだった事を窺わせる景子の話しぶりに、幹夫も感化される。

「今日もさ、家帰ってきてから、『景子ちゃん、家に連れてきなさいよ』って何度もしつこかった。景子ちゃん景子ちゃんって、昔から良く知ってるみたいに馴れ馴れしいよな。お袋、そういう図々しいとこ、あるからなぁ」

「私は嬉しかったけどな。私にもお母さんが出来るんだなぁって」

「それ言ったら、俺もだよ。お父さんが出来る。でもその前に、許しをもらえるかが問題だけど」

すると電話の向こうで、景子が軽く笑った。

「それは大丈夫。お姉ちゃんが結婚する時も、お父さん反対しなかったし。今までも実際、文句一つ聞いた事ないもん」

母の受けた印象が良かったと聞いて安心した景子の口が、軽やかだ。

「ねぇ、もしお母さんと私の板挟みになったら、幹夫どうする?」

「え~?テレビみたいな嫁姑、ある~?」

「ある、ある。ほら、私、気強いし」

幹夫の頭の中で、将来の絵が想像される。

「確かに、お袋も強いとこあるしなぁ~」

「でしょ?ね、ほら、どうする?」

「そりゃあ、景子の味方するに決まってんでしょ」

「ブッブー!ダメダメ、それじゃ。余計こじれるんだって。お母さんのご機嫌も取りながら、嫁の絶対的な味方になるっていうのが正解らしい」

景子は、左の薬指にはまるリングを眺めながらのお喋りだ。二人が結婚への道を着実に歩んでいるのを、実感する夜だった。


 それから数か月が経ったある日。帰宅した幹夫に、母が勢いよく喋り始めた。

「今日ね、祐司に電話したのよ。ここ暫く家来てないから、たまには顔見せに来なさいって。そしたらね、なんか様子がおかしいのよ」

「・・・おかしいって?」

「声に元気がないっていうか・・・力が入ってないっていうか・・・。元気?って聞いても『うん』って言うだけだし、『何かあったの?』って聞いても『別に』しか言わないし。でも、いつもとやっぱり様子が違うのよ」

幹夫がポケットから電話を取り出す間にも、母は不安な気持ちを溜めてはおけない。

「祐司のアパート、行ってみようか?」

「今から?」

11時を回った時計を、それぞれが見つめる。

「車なら、そう掛からないでしょ?」

「いいよ。行く?」

そう返事をする幹夫が、車のキーに手を掛けながら、祐司に電話を掛けた。

「久しぶりだな。どうだ?最近」

「別に・・・普通だよ」

「最近顔見せないからって、お袋心配してるぞ」

「ごめん・・・」

「今度の週末、来られるか?」

「・・・まだ分かんない」

「・・・そっか」

会話が一旦途切れると、幹夫が別の切り口から祐司の様子を引き出そうと試みる。

「最近仕事の方はどうだ?忙しい?」

「・・・特に」

「なんだぁ、元気ないなぁ。何かあったか?」

「・・・別に、そんなんじゃないよ」

隣では、心配顔の母が、幹夫に無言の訴えをする。

「お前が元気がないってお袋心配して、これから行こうかって言ってるぞ」

「いいよ、いいよ、来なくて。もう寝るし。別に何もないから」

あまりにもはっきりと断られて、幹夫達はその晩行くのを断念した。


 しかし、母の胸騒ぎは収まらないまま週末を迎えたが、結局祐司は実家に姿を見せなかった。週が明けて、幹夫は仕事帰りに祐司のアパートに寄ってみるが、留守にしていて会う事は出来なかった。

「仕事にはちゃんと行けてんのかしら?」

母の不安は底なしだ。

「思い詰めて、部屋で変な事になってやしないわよね?」

それをなだめるのも、幹夫の役目だ。

「大丈夫だよ。あいつを信じよう」

「だけど・・・今日は電話にも出てないし」

「後でまた掛けてみるよ」

「絶対おかしいわよ。今までのあの子なら、着信見たら必ずかけ直してきてたのに・・・」

幹夫が祐司に電話を掛ける傍で、母が独り言の様に言っている。

「あの子の部屋のスペアキー、貰っておけば良かった、こういう時の為に」

その母の言葉が終わると同時に、掛けていた電話が繋がる。

「もう家?」

「・・・うん」

「さっき寄ったけど留守だったから」

「・・・何?」

「明日、夕方そっち行っていいか?」

祐司の返事が止む。会話のテンポや警戒心など、今までの祐司からは感じた事のない雰囲気に、幹夫は緊張を強めた。


 次の日、約束通り幹夫が祐司のアパートを訪れると、そこには今まで見た事もない程憔悴した姿の彼がいた。部屋の中を見ただけで、祐司が暫く家から出ていない事など、本人に聞くまでもなく分かる有様だった。

「ごめん・・・兄ちゃん」

そう何度も謝る祐司だったが、何があったとは決して言わない弟に、幹夫の胸は押しつぶされそうに苦しくなるのだった。実家にも帰りたがらない祐司の部屋に その晩は泊まる事にして、幹夫はその荒れた部屋を片付けながら、彼の心の中を察するのだった。次の日夜勤の幹夫は、夕方には祐司を実家に連れ帰り仕事に出勤していった。とても一人にはしておけない状態の祐司を、母と幹夫は時間を作り 交替で家にいる様にしていると、ある時祐司がボソッと言った。

「皆に迷惑掛けて、本当ごめんなさい。こんなんなら、いない方がいいよね」

そんな祐司をなんとかなだめて寝かせた後で、幹夫は母を呼んだ。

「景子がさ、心療内科の評判のいい先生知ってるっていうんだ。早い内に診てもらった方がいいって言うんだけど・・・」

「景ちゃんがそう言うなら、紹介してもらおうよ」

「でもあいつ、病院行くかな・・・」

「そんな事言ってる場合じゃないでしょう?何かあってからじゃ、遅いんだから」

「分かってるよ。だけどあいつだって子供じゃないんだよ。首に輪っか付けて連れてくって訳にいかないんだからさ。本人にちゃんと話して、納得させないとさ・・・」

「・・・そういうのは、あんたが得意じゃない。頼むよぉ」

母は感情が先走りするところがある。だから、確かにこういう役回りが向いていない事に妙に納得できてしまう幹夫の肩に、更に重たい荷がのしかかるのだった。


 渋っていた診察に祐司が首を縦に振るまで、何週間もの時間を要した。根気強く説得を繰り返した幹夫の肩からは、ほんの一個小さな荷が下りた。その晩、本当に久しぶりに、幹夫は景子の家を訪れていた。

「良い先生だった。本当、ありがとう」

「弟さん、どう?診断結果、受け入れられてた?」

「う~ん。淡々と聞いてたけど」

「治療が始まったばかりでこれからだから、まだまだ注意してみてあげてね」

「うん・・・そうだね」

「幹夫も大変だけど・・・疲れた時はうち来て、息抜きしていいからね」

景子は、優しく幹夫を包み込んだ。その細い腕の中で、幹夫は大きく息を吐いた。

「一回だけ、弱音吐いていい?」

「うん」

「疲れたぁ・・・」

景子はそうこぼした幹夫の頭を優しく撫でた。

「ず~っと、気張ってたもんね」

じっと温泉に浸かって傷を癒やす様に、幹夫はただ景子の温もりに身を委ねた。少し落ち着いた頃、景子がカップの中のコーヒーがない事に気付く。

「あったかいコーヒー、入れてくるね」

立ち上がろうとした景子の手を、幹夫はそっと掴んだ。

「今はコーヒーより、景子に傍にいて欲しい」

再び幹夫を胸に抱き寄せる景子。

「今日は、泊っていける?」

「明日の朝、お袋が仕事出る前迄には帰らないと」

幹夫は、景子の顔を見つめた。

「景子にも寂しい思いさせたよね・・・」

景子が返事をする前に、幹夫が続けて口を開いた。

「弟の事が落ち着いたら、景子のお父さんにも挨拶に行って、結婚、なるべく早くしよう。じゃないと俺、もうダメだわ」

景子はそれを聞いて、はっはっはっと笑った。

「何~、もうダメって」

「これ以上離れてたら、おかしくなりそうだわ」

景子はさっきより、更に大きな声で笑った。

「嬉しい事言ってくれるじゃな~い」

「あっ!本気にしてないでしょ?」

「してる、してる」

笑いながらそう言う景子の頬を両手で挟んで、幹夫は真顔になった。

「景子は寂しくなかったの?」

すると景子は黙って幹夫に長いキスをした。


 躁鬱病と診断され、薬を服用する様になってから、祐司の様子が少しずつ落ち着いてきている。仕事はまだ休職中だが、一人で出掛けたりする様になってきた祐司を見て、母が一つ幹夫に提案する。

「今度景ちゃんうちに呼んで、祐司も一緒に4人でご飯食べるなんてどう?」

喜んで快諾した景子との夕食の席は、すぐに実現したのだった。母と幹夫と景子の三人が会うのは 今までも何回かあったが、祐司に景子が会うのは、今回が初めてだった。

「はじめまして。度会景子です」

「はじめまして。弟の祐司です」

景子の笑顔が、薄紙を剥ぐ様に祐司の緊張を解いていった。最近では家族との食事では中々見せない様な明るい笑い声を上げる祐司に、母も幹夫も嬉しくなるのだった。仕事柄か、性格か、景子は初対面の人とでも共通の話題を見付けてそれを膨らませるのが上手い。だから、幹夫も母も、見ていて安心なのだ。

 後片付けの台所で、母が景子に改まる。

「うち皆で景ちゃんにお世話になっちゃって。本当に、今日もありがとうね。祐司の事笑顔にしてくれて。今年は、いい年になるかな」

景子は嬉しい気持ちを素直に顔に表した。

「結婚したら、景ちゃん、同居は嫌でしょ?」

いきなりの話題に景子が返事を返すのをワンテンポ遅れると、その隙間も作らずに母が続けた。

「新婚時代は、そりゃあ二人っきりで綺麗なお家住みたいわよね。いいのよ、いいの。私もまだまだ元気だし、自由なのも好きだから。でもあんまり遠くには行かないでね。赤ちゃん生まれたら、私預かって子守りしてあげるから。もし産休が済んで仕事復帰したいなら、私協力するからね。頼ってきてね」

「ありがとうございます。でもお母さん・・・」

そこまで言って、景子ははははと大きな口を開けて笑った。

「気が早いですよ~、お母さん。まだ結婚の日取りだって決めてないのにぃ」

「何にも早い事ないわよ~。あっという間よ、あっという間。年取れば取るほど、10年なんてあっという間に過ぎちゃうんだから。一年なんて一瞬よ」

今日はビールが少し入っているせいもあるだろう。祐司が笑いながら他人と食事が出来た喜びと、景子がにこにこ隣に居てくれる嬉しさに、母のご機嫌は上々で、いつものお喋りに更に輪が掛かっている。

「結納とかは、きちんとした方がいいかしらね?お姉さんの時はどうだった?」

「姉の時はしてましたけど・・・」

「じゃ、きちんとしないとね。最後の娘さんをお嫁に出すんだもの。お父様お寂しいでしょうしね。結婚したら苦労させませんって安心して頂かないと」

弾丸の様なお喋りの相手も、景子は上手にこなす。だから余計に母の妄想は止まらない。

「お式は神前式?それとも教会?今はもっとざっくばらんなパーティー形式みたいなのもあるしね。景ちゃんはドレスも似合いそうだけど、白無垢姿も見てみたいわぁ。和装とウェディングドレスと色ドレスと着て、写真だけ残すってケースもあるしね。あ!私はやっぱり黒留め袖よね?景ちゃんが衣装合わせする時、私も行きたいなぁ~。な~んて、そんな事言ったら幹に叱られちゃうわね。あっ!それ以前に、二人の邪魔しちゃ悪いものね。衣装選びは、二人で仲良く決めたいもんね」

母のテンションが高かったのは、この時がピークだったのかもしれない。そして、景子の幸福感も同時に一番高かった瞬間だった。


 あの日以来、幹夫達家族の会話に景子が登場する日は多い。

「幹夫。あんた結婚資金、ちゃんと貯めてあるの?」

「大丈夫だよ。金の心配は掛けるつもりないから」

「まずは結納ってのがあるしね。お式と披露宴とやるんなら、招待客の人数や規模にもよるし、景ちゃんがお色直しするなら その分も考えないとね」

一旦エンジンをふかし始めると 誰も止める事の出来ない母を、幹夫はあしらう様にゆるい相槌を挟む。

「あ!景ちゃんの田舎から来て頂く親戚の方達の宿泊費も、ちゃんと頭に入れとかないとね。結婚に掛かる費用は、どういう風に分担するの?折半?それともやっぱり新郎側かしらねぇ。その辺、きちんと景ちゃんと話し合っておかないと駄目よ」

ようやく母の弾丸の様なお喋りに句読点が打たれると、そのタイミングに合わせた様に、幹夫はくすっと笑った。

「まだ向こうのお父さんにだってご挨拶してないっていうのに・・・まったく気が早いにも程があるよ」

母は少し口を尖らせた。

「景ちゃんも同じ事言ってたけど、お金の事はきちんとどれ位掛かるか計算して準備しとかないと、急に足りないって事に気が付いたって困るでしょう」

「大丈夫だよ。景子が雑誌買って、色々調べてくれてるから。それに、自分らの身の丈にあった事しかしないから」

「景ちゃんはしっかりしてそうだから、心配してないけど。何せお金の事だからね。あんたが見栄張って、景ちゃんにも『大丈夫、大丈夫』なんてかっこつけやしないかと心配してんのよ」

はははと笑い流して まともに取り合わない幹夫だ。

「もし本当に困ったら、遠慮しないでお母さんに言ってよ。少し位なら、こういう時の為に貯めてきてる分があるから」

「ありがと。でも、本当大丈夫。それは、祐司の時に取っといてやってよ」

「そうね・・・。祐司も結婚出来ればいいけど・・・」


そんな親子の会話から幾日も経たない ある晩の事だ。母は夕食時に、向かい側で黙々と食べる祐司に景子の話題を出す。

「お兄ちゃんの結婚式で、祐司も誰か良い出会いがあるといいね」

当然、祐司の反応は悪い。

「景ちゃんのお友達なら、きっといい子いるわよ」

「・・・・・・」

「景ちゃんは、ほんとお嫁さんってより娘って感じがして、お母さん上手くやってける自信ある。ね?祐司はどう?仲良くできそうでしょ?」

「・・・うん」

「祐司にも、あんな優しいお姉さんが出来たら、心強いわよね~」

「・・・うん・・・」

「あんたも結婚してくれたら、お母さん、娘が二人も出来ちゃうんだわ。息子二人頑張って育ててきて良かった~って思うんだろうなぁ~」

こんな会話が繰り返される様になり、ある時、幹夫に祐司が不安をこぼした。

「兄ちゃん・・・いつ、結婚しちゃうの?」

『しちゃう』という表現に、幹夫の耳が止まる。

「なんで?」

「結婚したら・・・ここ、出てっちゃうんだよね?」

再び『出てっちゃう』という言葉に、幹夫は祐司の顔をじっと見つめた。

「何が心配?」

「・・・・・・」

「いいよ。何でも言ってみろ」

しかし、なかなか口を開かない祐司だ。だから、幹夫はゆっくりと話し始めた。

「プロポーズはしたけど、まだ何も具体的には決まってないよ。景子のお父さんにだって、まだ挨拶にも行ってない。だからもしかしたら反対されて、時間掛かるかもしれない」

「・・・そうなんだ・・・」

ほんの少しだけでも声を出した祐司に、幹夫は聞いた。

「景子との結婚、反対?」

慌てて祐司が首を横に振った。

「じゃあ、何だろうなぁ?祐司の心配の元は」

ようやく祐司が、少しずつ心の中の気持ちを言葉にし始める。

「景子ちゃんは、とってもいい人だと思う。兄ちゃんともお似合いだと思う。優しいし、賢いし、お母さんの扱いも上手だし、きっと良いお嫁さんになると思うよ。さすが兄ちゃんだなって思う」

祐司の顔がみるみる曇っていく。

「なんだ?さすがって」

「さすがだよ、兄ちゃんは。仕事も順調で、出世もしてさ。お母さんとも上手くやれそうな素敵な彼女も見つけて、結婚話も進んでる。それに比べて僕なんか・・・全然ダメだ。仕事も失敗しちゃったし、今は稼ぎもない。親のスネかじって暮らしてる様な息子、きっとお母さんだって後悔してるよ、僕なんか生んだ事」

祐司の口から零れ落ちる言葉達が悲しい色すぎて、幹夫の胸から容赦なく体温を奪っていった。


「暫く、祐司君の前では、私の話しない方がいいかもね。私も、暫くは遊びに行くの控えるね」

「お袋、寂しがるだろうなぁ」

「祐司君がもう少し元気になったら、きっと又会いに行けると思うから」

祐司の病状がなかなか安定せず、特効薬がある訳でもないから、少々まどろっこしい様な、重たい鉛をぶら下げた日が続く。幹夫と景子が会う機会も、以前に比べ随分と減ってしまった。季節はすっかり真冬を迎えていて、日没の時間も早い。時々ちらつくみぞれに、世の中全体が物悲しい錯覚に陥ってしまいそうになる景子だった。そんな景子が仕事から帰って、一人でぼーっとテレビをBGMにしていた時だ。幹夫からのメッセージを着信する。

『明日早番だから、仕事の帰り会いに行ってもいい?』

『もちろん。何か食べたい物あれば作るよ。それともどっかご飯食べに行く?』

『景子の豚汁食べたい』

景子の心は急に軽やかになる。

『なるべく急いで帰ってくるけど、幹夫のが先に着いたら、入って待っててね』

久しぶりに会えると決まっただけで、こんなに嬉しくなる自分をかわいいと心の中で笑う景子だ。

『楽しみにしてるね』

とハートのマークも一緒に送信した後、景子は早速近くのスーパーに買い物に走った。


 しかし、次の日の夕方、景子が病院を出る頃になっても、幹夫からの連絡がない。

『今仕事終わった。ごめんね、遅くなって。急いで帰るから』

そう送った後も、返事はない。だからすぐに、もう一言送ってみる。

『もう、家着いてる?』

返信のないまま景子が家に着くが、中の電気は消えていて真っ暗だ。心配が膨れ上がった時、景子の携帯に幹夫からの着信がある。

「ごめん!今日行かれなくなっちゃった」

「何かあったの?」

「ちょっとね・・・。今説明してる時間なくて・・・。とにかく又連絡する」

切りそうになる電話に待ったを掛ける景子だ。

「祐司君?」

「あ、いや、違う。仕事場」

その日は、幹夫の務める立川のホームでは週に二回の入浴の日だった。介助ヘルパーが目を離した一瞬の隙に起きた、まさかの事故・・・利用者の入浴中の事故による重体という大きな大きな鉛が、突然降りかかってきたのだ。目を離した一瞬の隙と言えども、決してあってはならない事故でもある。午前中から家族への対応と病院、また警察への対応で、幹夫はてんてこ舞いの状態だった。日を追っても、その利用者の容体は快方に向かわず、依然意識不明の状態が続いていた。その日以降、一部マスコミは大きくその事故を取り上げた。高齢化社会の現代にとって、誰しもがすぐ隣にある身近な問題と位置付けられ、多くの関心が寄せられた。本社からの指導、利用者家族への説明会、職員への指導の徹底など、様々な問題が山積しており、所長である幹夫は、殆ど家で寝る事もない程で、幹夫は一か月やそこらで、げっそりとやつれてしまっていた。


 そんな幹夫を気に掛けて、かねてから親交のある幹夫の先輩にあたる二階堂が立川の施設を訪れる。

「二階堂先輩?!どうしたんですか?珍しい」

「ちょっと今夜時間作れ」

 近くの居酒屋で二階堂が幹夫にビールを勧める。

「あんまり自分を追い込むな」

ジョッキに手を付けない幹夫に、二階堂が言った。

「お前の誠意は分かる。だけど、お前が酒も飲まず、ろくに食事も睡眠も取らないからって、何か解決するか?」

「・・・・・・」

「起きてしまった事は変えられない。これから現実的にどうするか、対処するだけだ。いくら自分を責めたって、何も始まらない。ましてや、お前が倒れてみろ。誰かそれで納得するか?しないだろ?余計に統制が取れなくなるだけだ。今いる利用者とそのご家族の為にも、しっかり施設を立て直す必要がある。それに、今頑張ってくれてる職員の為にも、お前がしっかりしないでどうする?自分を責めていじめてる暇なんかない。そうだろ?」

幹夫は大きく息を吐き出して、頷いた。

「・・・はい」

「今晩は、副所長が詰めてくれるんだろ?だったら今日は酒でも飲んで、かーっと寝ちまえ」

ようやく一口ジョッキに口を付けた幹夫を眺めて、二階堂が言った。

「景子ちゃんとは、結婚考えてるんだろ?今日は彼女んとこでも行って、羽伸ばして来い」

以前に、景子を二階堂に紹介した事がある。その時、

『いい人見付けたよ。多分彼女は、お前より一枚も二枚も上手だな』

と言った。

『どういう意味ですか?』

幹夫の当時の質問に、二階堂はこう答えた。

『賢いって事だよ。お前を上手く操縦できそうだ』

複雑な表情になった幹夫に気付き、二階堂は補足を加えた。

『手綱を締めたり緩めたり。男は、女の手の平で転がされてる位のが、きっと上手くいくのかもしれないな』

思い当たる節のある幹夫は、当時妙に納得したのだった。そんな 時折自分とは違った角度からの指摘をする二階堂の『羽伸ばして来い』という言葉に、今日の幹夫はなかなか頷けずに浮かない顔をしていた。

「何でもない話して、心も体も解放する時間作んないと、お前使い物になんなくなるぞ」


居酒屋から出て、空車のタクシーを探す二階堂。

「彼女んとこ、行くか?」

「いや・・・。弟も今鬱で実家帰ってきてて・・・そっちも気になるので、今日は家に帰ります」

「そっか。・・・俺もお前も、家が安らぎの場所じゃないって事か・・・。でも帰んなきゃならない。・・・たまには現実逃避したくなる時だってあるよな?・・・それって、許されないのかね・・・」

溜め息交じりに呟く二階堂に、守屋が緊張気味の顔を向けた。

「弟の事はいいんですけど・・・正直、仕事辞める事も考えてます」

二階堂は眉間に少し皺を寄せて、守屋の話に耳を傾けた。

「ご家族からお預かりしている何十人という大切な命を守るっていう大きな責任を負う覚悟が、自分には足りないんじゃないかって・・・。一つの施設をまとめていく器も力量もない自分が、こんな仕事してていいのかって・・・毎日、何回も考えます」

「辞めて、どうすんだ?」

黙ったまま幹夫は首を横に振った。

「結婚すんだろ?」

「・・・正直、その理由だけで踏みとどまってる様なもんです」

「景子ちゃんは、何て?」

幹夫はもう一度、静かに首を横に振った。

「まだ景子の親父さんにも挨拶に行ってなくて。無職になったら、もっと待たせる事になるから・・・」

二階堂はポケットに手を突っ込んで、歩道のガードレールに寄り掛かった。

「俺も含め、施設をまとめる力量があるから所長になってる訳じゃない。お前が言う覚悟だって、目で見て計れるものでもない。俺らに大事なのは、何があっても そこから逃げない事だ。今与えられた場所で、与えられた環境の中で、力を付けていくしかない。どこで何の仕事しても、多分同じだと思う」

暫くして、幹夫はふっと笑った。

「先輩に話したら、何となくそう言われるんじゃないかって思ってました」

二階堂も同じ様にふっと笑って、再び顔を上げた。

「今俺に話した事、一回手放してみろ。お前のその不安とか葛藤とか、全部預かっとくから、一旦自分を白紙に戻して、ゼロから頑張ってみたらどうだ?それでもどうしても無理だって思う時が来たら、そん時決断したって遅くない」

幹夫の肩にぽんと乗せた二階堂の手から、体中にガソリンが充満していく。ここ暫く幹夫を縛り上げていた見えない鎖から解き放たれていく感覚と同時に、ほんの僅かに湧き出す新たな力を、奥底に感じる幹夫だった。


「今日も、泊まり?」

景子と会う事もままならない中、ようやく時間を見つけて電話を掛ける幹夫は、携帯を通して聞こえてくる慣れ親しんだ柔らかい声に、ほんのひと時だけ、兜の緒を緩める事を自分に許す。

「食事は、ちゃんと抜かないで食べてる?」

曖昧な相槌から、全て様子は手に取る様にわかる景子だ。

「無理にでも、こういう時は食べなきゃダメだよ」

すると、幹夫がそれまでよりも少しだけ元気な声を出す。

「景子の豚汁食べたいなぁ。結局食べそびれたまんまだし」

「色んな事が一旦落ち着いて、うちに来られる時が出来たら、とびきり美味しい豚汁作ってあげる。だから、今はそれ楽しみに乗り切ってね」

「わかった」

「仮眠は?取れてる?」

「・・・体は疲れてるのに、横になっても眠れない。神経が尖ってるっていうか・・・」

「家に帰った時だけでも、眠剤飲んででも体休めなきゃ、おかしくなっちゃうよ。軽い眠剤ならすぐ出してもらえるから、近くまで届けに行こうか?」

こういう時、看護師は強い味方だ。僅かな時間を共有して、二人は電話を切った。幹夫は切った途端から頭も体も忙しいから、寂しいなどと長い時間感じている暇はない。それが唯一もの救いだった。

 しかし・・・待たされている方は、少々具合が違う。幹夫とめっきり会う時間の減った景子には、仕事以外の時間、ぽっかり抜け落ちた様に隙だらけだ。軽石の様な景子の時間に、すっと入ってきた一通のメッセージ。

『今度飲み会やるんだけど、来ない?』

立川記念病院にいた頃の同僚看護師からだ。辞めた人も含め、当時仲の良かった仲間で集まろうという事らしい。暇を持て余していた景子は、懐かしさに吸い寄せられる様に即座に行くと返事を返す。そして、3月の最初の金曜日。夜7時。立川にある、当時よく行っていた飲み屋で集合となった。

軽石が水にプカプカと浮いて流され始めた瞬間だった。



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