おっかなびっくり暗闇を歩く
予想外のことがいくつか起きた。
まずミグルイの動きが止まらなかった。
魅了が効いていない。
それは炎のマスクがあらゆる視覚による攻撃を遮断しているからか。
ミグルイは止められた刃ではなく、己の脚でもってハイドへと襲いかかる。
ハイドはほとんど倒れるようにしてそれを躱したが、次の瞬簡には自由になっていた刃が不吉な唸り声をあげるように、ぶんとハイドを襲う。
刃だけじゃない、未だランタンから溢れ出す炎がこぼれ、地に落ちたそれは消えることなく燃え盛る。
触れればどうなるか、振り落とせるのか、考えたくはない業火が溢れかえる。
何の理性も感じられない暴力と共に。
その暴力を防いだのはリルカだった。
リルカの放った矢が呆れるほどの剛力であるミグルイの刃を、それ以上の力でもって弾き返す。
つまりリルカにも魅了が効いていない。
初見で防がれるとは考えていなかった。
考えられるのは、ヘルムにそういう機能が備わっているか、たまたまそのヘルムの影に入って防がれたか。
だが、リルカが決して我を視界の中心で捉えようとしないのを映して悟る。
この女、こちらの世界のヒトではない。
どちらかの世界で我と同じような性質の何かと争った経験があるのだ。
この地下世界ナンバーワンの呼び声が高いことに、首のない我でも頷ける。
ミグルイはリルカもハイドも、お構いなしに刃を振るう。
躱した刃は石畳を割り砕きながらも、いささかも勢いを落とさずに振り切られて次の一刃へと繋げられ、それをハイドはなんのかんのと喚きながらも躱し、防ぐ。ハイドひとりでは無理だと言ったそれが為されているのは我ではなく、傍らのリルカの助力によってだ。
「珍しいですわね。日和見のエベレストさんがこんなタイミングで出てくるなんて」
「いつもなら!そうなんですけど!ちょっと夢見ちゃってました!!」
明らかに異常すぎる膂力と暴力を振るう彼女に対して、ふたりが喋る余裕というのが表れる。
さすがに組織のリーダー格ふたりというのは伊達じゃない。
「ちょっと!ノクトさん!助けてくれるんじゃ!なかったんですか!?」
一合の度に我へと批難を叫ぶハイドにどうしたものかと逡巡する。
ヒトには出来ないほんの一瞬。
我がここにあれば、それでミグルイは魅了が効かずとも止まると考えたのだが、理性がないのか一向に動きは止まらない。その目に我が映っていない。
どうやらリルカの方は本気で今、この場でミグルイを始末したいとまで考えてはいないらしい。
明らかに受け手に回っている、今この瞬間、それは確か。
ならば、だ。
一瞬の逡巡、それでどうするべきかを決めてしまう。
「噂の喋る剣ですわね」
「そのような呼ばわれ方は不服だ」
「あら、失礼しましたわ」
ハイドの右手のナイフが弾かれ、手から離れる。
その瞬間に我は地へと沈み込む。
そのように見えるだけで、実際に沈むのは影。
「気持ち悪!」
いつもよりもややテンションがおかしくなっているハイドの右手、そこにハイドが自らのナイフを取り出すよりも早く、我の刃先が現れる。
「本当に失礼な」
ハイドの手の僅かな影から我が出で、意図を察してハイドは我を握った。
次の一刃はリルカが弾く。
ミグルイの業火に汗をしたたらせるハイドとは違って、リルカにはその様子はなかった。
一貫しての呆れるほどの精密な技術。
炎の尾を引いて振り下ろされる刃に対して、弦を引き、放つというふたつの動作が遅滞無く為されるのは驚異的としか評せない。
「それでどうするのかしら?」
そう言いながらも、我がどうするのかを察し、そしてそれを楽しんでいるかのような声。
鈴を鳴らすようなその声は男であれば耳を伝う快感に震え上がったかもしれない。
ハイドの身体を一時的に支配し、借りる。
そして我は自らの意思で我を振るった。
炎とて、我にとってはなんら同じだ。
それを斬り破り、ばらばらに壊すことは造作も無い。
我はその炎を、我の意思によって破壊する。
精確に、その炎だけを。
ミグルイの目があらわになる。
極限にまで見開かれたその目が。
その目に我が映る。
「もう良いだろう。今日のお前はもう十分好きにしたさ」
その声に、ミグルイの目に、理性の光が灯って目を細めた。
それはミグルイのいつもの醒めた目だった。
その目にはもう魅了も支配も必要なかった。
「それで、なんで私なんですか?」
不平を漏らすリコと共に暗い道を進む。
地下街の至る所にある松明、それが進んでいくほどに減っていき、遂には無くなり、今ではリコが上へと向ける手の平の上の魔法の光球だけが頼りという有様だった。
つまりはここはトーチャーの勢力圏外。
いや、意図的に外されているトーチャーにとっての敵地のような場所なのだ。
「ハイドは嫌だと言われたのでな」
あの戦いの後、「てめえを殺すのは今度だ」と言って立ち去ったミグルイを見送るハイドと共に、なぜかリルカは並んで立っていた。
お前も帰らないのか?と問えば、リルカは我へと告げたのだ。
ちょっと遊びに来ないか、と。
無駄に死線を潜りそうになって、珍しくげっそりとしたような弱々しい笑みを浮かべていたハイドがこの時ばかりは真顔になっていた。
どうやら興味を持たれたらしい。
我もこの地下世界の食料事情を一手に担っているという組織がどうなっているのかには興味があった。
それで同意したのだ。
「……私じゃなくっても、トモエかヒミコでも良いじゃないですか」
「庭園騎士団というのは閉鎖的で過激な、危険な集団なのだろう?」
「むぅ」
そういう場所に大事な妹たちを行かせて良いのかと問えば、リコは眉根を寄せて唸った。
我ただひとつでは、どこへも行く事は出来ない。
影を渡るにしても、制限がある。
基本的に、ひとつのモノに生じる影の中しか移動できないのだ。
先だっての時は、ハイドの足下の影から手の中の影へと移った。
その隣にいたリルカの影や、ミグルイの影、あるいは離れた誰かの影へと移ったりすることは出来ない。
そこまで詳細には教えずとも、手足のない剣の身である我を見れば、それは考えずとも分かる。
だからといって、知ったばかりの相手、リルカ・カーテンコールの手によって運ばれるというのは甚だ信用ならない。
そう告げれば、供を許されたのだ。
だが、異世界からの来訪者は駄目だと。
必ずこちらで生まれ育った者にして欲しいと、そうリルカに告げられた。
ハイドのことを知っていたのだ。ナンバー2のことも知っていて当然なのか、リコでも良いのかと問えば、構わないと考える素振りすらなく告げられた。
その時にリルカはハイドを見ていたのだが、その目を映して察した。
そこには僅かばかりの警戒があった。
再び疲れたような笑みを浮かべた男に対して、一合を耐えはしたものの、互角とは決して評せないような戦い振りだったやまびこ協会のリーダーを、その瞳の奥を覗き込むようにして見ていたのだ。
それはあのミグルイを相手にしている時には決して表に出なかった様子だった。
「それにだ、興味が無いのか?と問われれば、決して否定は出来ないだろう?」
「それはまあ、そうなんですけど」
身内でなければ決して見る事の出来ない閉鎖組織を、ほんのちらりとでもその中を見る事が出来るという。
この娯楽の少ない地下世界では、十分な知的好奇心を満たせるツアーだ。
ただし、そのためには幾重もの守秘契約にサインし、それを破ればあの喪服めいた鎧姿の女に死出を見送られる羽目になると言われれば、誰だって知的好奇心で死ぬことになる猫にはなりたくはないものだ。
それでもこうして我の供をしているということは、我が信用している程度には、リコの方も我を信用している証左とも考えられる。
「ふっ」
「なんですか?気持ち悪い。急に笑わないでください。ノクトさんの笑い、なんか怖いんですから」
「最近のお前たちの我の扱いが、真実、呪われた邪神像めいてきているのは我の刃の曇りか?」
「そうかもしれませんね。磨いて欲しいなら、タンゴ君にでも頼んでください」
おー、センセイ、うっかりとか言って血を吸っちゃ、ヤですよ。
なぜか、言われたことのない科白が刃の内に響いた気がした。
確かに奴ならば磨いてくれそうだが、そもそも別に曇ってはいないのだ。
不朽の剣たるのが我なのだから。
「それで?あれがそうなんだろうな」
「うう……来ちゃいましたね」
前にも我に響いたような言葉を呟いて、リコの表情が急に憂鬱めいたそれになる。
道の左右に急に光が見えた。
それはまるで宗教画に出てくるような、そんな光景だった。
決して小さくない木が等間隔に並んでいるのだが、その木の細くなる先端、それを覆うように光の輪が浮かんでいる。
魔法によるものなのだろう。
まるでノーマンズランドで人間が夢見た天の御使いだ。
勿論、木が動いたりすることなどはなく、ただの植物、ただの木なのだが。
その木々の間を進んでいくと、出迎えが待っていた。
それは誰あろう、他でもない、リルカ・カーテンコールだった。
「お久しぶりね、リコさん」
婉然と微笑み、声を掛けてきたリルカに、ぎくりとしたようにリコは歩みを止めた。
話し合うにはやや遠い距離なのだが、リコはそこから近づきたくはないようだ。
それはリルカの弓の間合いを気にしてではなく、手の届く距離まで近づけば、触れようと伸ばしてくる手を警戒して。
後から聞いたのだが、この女、どうやらエルクという種族が好みらしい。
そもそもリルカは今日は弓も矢も手にしてはいなかった。
「実は、貴方なら一度招いても良いなって考えていましたのよ」
「それは、どうも」
ぎこちない笑みでリコが答えた。
これでは蛇に睨まれたカエルだ。
「我がここにあることも忘れて欲しくないものだ」
「失礼しましたわ。ふふ、貴方には私、失礼ばかりをしていますわね」
「まったくだ」
「ちょっとノクトさん」
リコの手の内で平然と不平を伝えれば、それにリコが焦ったように咎めてくる。
確かに魅了はどうやってか防がれていたが、だからといってそれだけだ。
殺すつもりで対処しようと思えば、別にこの女ひとりていど、どうとでも出来る。
なにしろ経験が違うのだ。
いったいどれだけの時を過ごしてきたと思っている?
そんなことを考えていると、表情無き我のその内心を読んだかのように、リコが口に手を当てて呟いた。
「何考えてるのか分からないですけど、とりあえず、変なことは考えないでください」
変なこととは何か?
そう尋ねるよりも前にリコは我に告げる。
「ノクトさんを危ないヒトの前に出すと、だいたい意味不明でどうしようもないことが起こるんですから」
それは濡れ衣だ。
いずれも我のせいではないではないか。
「何を話しているんですの?」
「イエ!なんでも!!」
「そうですか。それでは行きましょうか。こんなところで立ち話もなんですから」
そう言って歩き出したリルカの後をリコは追う。
それはトーチャーの本拠地へと赴いた時と同じ、おっかなびっくりというそんな歩みだった。
「センセイ」
「ん?なんだ?」
「センセイの魅了って、あんまり役に立たないんじゃないですか?実は?」
「そんなことはないぞ」
初見であれば、まず防がれるはずがない。
だが、事実として防がれた。
それは確かだ。
なぜか?
「タンゴは必殺技というのは知っているか?」
「ヒッサツワザ?」
「使えば必ず相手を殺せる技のことだ」
「おー、センセイのセカイではそんなものがありましたか!?」
「いいや。ない。なぜか必殺技なのは最初の一回だけで、二回目以降は必ず外れるか防がれる。それがお約束だ」
「オヤクソク」
オヤクソクは神がつくった。
だから仕方無い。
仕方無いんだ!!