プロローグ
多くの人間を英雄にし、その死に触れた。
そして最後は深く海の底へと沈む。
そう、最後だ。
もう二度と関わることはない。
英雄に。
人間に。
世界に。
沈んでいく。
暗く、深い闇の底へと。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
我に染み付いた血の臭いに魅かれて肉食の大型魚が姿を見せる。
見張るように周りをぐるぐると巡るが、食らいついては来なかった。
それはそうだろう。
なにしろ我の身は夜色の金属で出来ているのだから。
夜の闇よりも暗く、星空の蒼よりも蒼き魔剣。
数多の人を殺めた吸血剣。
もはやそれも過去である。
最後の鞘の手から離れたあの瞬間から。
確認するように鞘は聞いた。
良いのか?と。
苦悩があったように思う。
それに僅かばかりの信愛も。
我はすべてを断ち切るように命じた。
捨てよ、と。
最後の鞘の手の感覚、その温もりは凍るような冷水に浸されても、今なお消えることなく残っている。
残っている間は何者にも触れられたくはなかった。
巡る大型魚は勿論、例えそれがかつて我の身を造り出した神々であったとしても。
己の牙よりも鋭い刃を恐れてか、大型魚は一匹、また一匹と姿を消し、やがてすべてが深海の闇へと消えていった。
光の届かぬ闇の世界に同化していく。
静かだった。
今まで我の身に響いていた馴染み深き音はひとつもない。
話し声。
喧噪。
争乱。
すべてが遠く彼方だ。
ここは何もかもを燃やし尽くした業火のごとき戦乱から一番遠い。
不意に思う。
神々もまた、こうして世界から去って行ったのかと。
そんなこと、ある訳がないか。
神とは飽きっぽくて忘れやすいものだ。
あらゆるモノを造り出せるのに、何を造ったのかを忘れてまた同じようなモノを造り出す。
いずれの神も造り出したモノを愛でて一喜一憂するのは最初だけ。
ほんの一時、神や我にしてみれば、ほんの一瞬のことだ。
人間が眠り、起きた時には忘れてしまう夢のように、それはあっけなく消えてしまう。
まるで最初からなかったかのように、どんな情熱も理想も消え、何の未練も残さずに、捨てるでもなく、諦めるでもなく、忘れ去る。
人間だけでなく、我ですらも例外ではなく。
神々は消えた。
世界のあらゆるものを造り出した後に、あらゆるものを残し、あらゆるものを顧みずに消えたのだ。
あるひとりの人間を思い出す。
絶望の顔と共に。
我が最初の鞘としたあの男は、一柱の神に永遠に戦うことを命じられていた。
永遠の時に耐える不朽の剣である、神が自ら造り出した我を手に。
これは罰なのだと言われた人間は決して自ら戦うことをやめようとはしなかった。
百年の間は。
百年の後に気付いたのだ。
己が既に忘れ去られていることに。
神はいつまで見ていたのだろうか?
それを知るのは神のみだ。
望み通りに男が戦い始め、幾度か戦い続けていることを確認するとやがては飽き、見るのをやめ、別の何かを愛で始め、男のことはそのまま忘れたのだろう。
そして我は最初の鞘を失った。
人の手を渡り歩いて気付いたのは、我と同じような神々の手になる武器の多さだった。
それも同じようなチカラを持ったモノたちばかり。
最初にそうしたモノたちに触れた時には思ったものだ。
新たに造り出したりせずに、再び我の身を必要として欲しかったと。
まさか思いもしなかった。
最初の鞘と同様に、神が自ら造り出した存在である我のことを忘れているなどとは。
やがて同類たる神々の手になるモノの数が増えることなく減っていく世界になって我もやっと気付いた。
もう神々はこの世界にはいないのだと。
きっと世界すらも飽きて、同じような新たな世界を造り、そちらを愛でているのだろう。
神とは愛し、忘れるものだ。
絶対にどの神も認めはしないだろうが、結局本質は人間と変わらない。
どんなに愛したモノでも、必ず忘れる。
忘れてしまう。
だから。
きっと人間も忘れるだろう。
世界のあらゆる混乱の中心にあった一振りの剣のことなど。
あんなにも愛し、そして憎んだ夜色の魔剣のことなど。
神ですら忘れたのだから。
どれだけの時間が過ぎたのか。
我の身はついに海底へと辿り着いた。
柔らかな砂地に突き立つことなく倒れる。
微細な生物たちの死骸が舞い上がり、包み込むように降り注いでくる。
これで後は待つだけだ。
ただ朽ちていくのを。
どれだけの時が必要になるのかは分からない。
もしかしたら永劫の時の果て、この世界の終わりまで待つかもしれない。
それでも待とう。
もう二度と鞘は持たない。
そう決めたのだから。
鞘無き魔剣の最後は、誰の目に触れることなく、誰の死に触れることなく、誰のためでもなく、ただ我のためだけに。
そう決めたのだ。
だが、永劫の時の果てに訪れたのは、決して滅びなどではなかった。
呼ぶ声があった。
数多の嘆きと共に。
懐かしき人間の声。
その声がした時に、つい応じてしまったのだ。
確かにここに我がある、と。
朽ちることなく未だ意思を宿している、と。
その意思で応えていた。
神の御業に等しき光の輪に。
温かく、柔らかな光に。
ずっと求めていたのだ。
かつての人間の手の、その温もりを。
冷たく、暗い海の底で。
忘れられなかった。
最後の鞘の手を。
その感触を。
離れた瞬間の指を。
形を。
すべてを。
覚えていた。
ずっと。
ずっと。
「来たりて助け給い」
その言葉は果たしてどちらのものだったか。
光の輪か。
それとも我か。
光に包まれ、そして温かさに包まれる。
ああ。
その温かさに包まれて分かった。
我もまた愛していたのだと。
神のように。
人間のように。
だが、忘れなかったのだと。
神のようには。
人間のようには。
我は神でもなく、人間でもないのだから。
愛しき者たちよ。
未だ我を必要とするのか。
ただ歓喜があった。
祝福されるように包まれた。
光に。
愛に。
こうして我は旅立ったのだ。
神の消えた世界、ノーマンズランドから新たな世界へと。
異世界へと。