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架空爆弾を抱きしめて

同じようなアイデアで、違うプロット。これもまた鎮魂。



序その2


 日記がある。

 抜粋する。

 これは、この物語の、主人公の日記だ。



第一章


 アリウス学園が、黒と赤と緑のイメージカラーの学校だということは、もう話したっけ。

 この学園には、部活があって、ぼくは諜報部に属している。

 部活といっても、ふつうの部活じゃない。

 アリウス学園理事会直轄の組織で、この学園で起こる不祥事を追及する役目を負っている。

 とはいえ、秘匿部署なので、ぼくは「なんでも部」という部を隠れ蓑にして、ひっそりと学園生活をいとなんでいた。

 ちなみに、部員は、ぼく一名だ。

 正確にいえば、部長が一人いるが、顔を見たことがないし、本名も知らない。

 厳密にいえば、本当に理事会直轄なのかもよくわからない。

 だが、それはぼくにとってはどうでもいい。

 たとえばいじめ事件などがあって、それを解決することができたのなら、別に諜報部が、どこに属していようがかまわない。



 ぼくには、死んだ姉が二人いる。

 流産で死んだ姉と、自殺して死んだ姉だ。


 流産。原罪。


 お姉ちゃんが死んだ日は、本当にふつうの日だった。

 寝てるように見えた。

 ぼくのベッドで、おだやかに寝ているように見えた。

 そういうことはよくあることだったので、ぼくは気にせずに、学校から帰って、かばんを整理して、そして宿題でもしようかと思って、しばらくぼうっとして、それからふと、何かひらめいたかのように、お姉ちゃんに声をかけた。

 そして、もちろん、お姉ちゃんは返事をしなかった。

 何度呼んでも返事がないものだから、ぼくはお姉ちゃんに手を触れた。

 そこから先は、話したくない。

 お姉ちゃんは頭がよかった。

 頭がよかったから、きっと自殺したのだと思う。

 考えすぎたのだ、きっと。


 お母さんは信仰を捨てた。

 別に自殺者が地獄に落ちるという話をされたからではない。


 夜、目が覚めると、お姉ちゃんから電話が来た。

 起きたら、夢だったのかと思うけど、ぼくは本当だと思う。


「ヘレン・バーンズになりたいのに、セント・ジョン・リヴァースに似ている気がする」


「常識? ああ、そいつなら高校生のときに殺したよ。的な人間になりたかったんだ」


「無理が通れば道理がひっこむんだよ」

「ということは、道理が通れば、無理がひっこむ、というわけですね」


「まるで、ガラスで、できた、つるぎみたい」


 この前、ぼくが入院している精神科の解放病棟、というか、一階建てのちょっとした建造物の庭に、客がやってきた。

「やあ。元気してる?」

「君は?」

「僕は元気さ」



主人公(足羽)の経歴

クリスチャンとして生まれる。小学校から中学校にかけて、宗教に興味を持ち、自分なりにいろいろ調べ、自分なりの信仰を形作る。

中学校を不登校になる。そのまま卒業。不登校の原因は自分でもよくわからない。人生に悩んでいた。

高校浪人中、ボディーガードとして、従姉を護衛。ストーカーを失明させる。

学校のスキャンダル

精神病院の開放病棟に収



1.自己紹介


 物語を始める前に、ちょっとした小話をはさみたい。

 読者のみなさんに、ぼくがどんな人間か知ってもらうために、これから、あるひとつのエピソードを話そう。

 これはもちろん、ただ単にひとつのエピソードであり、それでぼくのひととなりが完璧にわかる、なんていうつもりはないし、そんなことは不可能だろう。

 しかし、エピソードによる説明というものを、ぼくは、辞書的な説明よりも好む。

(つまり、リンゴについて、「バラ科の落葉高木で、赤い実をつけ食用となる」と説明されるよりも、「食べるとおいしい。ニュートンはそれが落ちてくるのを見て万有引力を発見したという逸話が伝わっている」と書かれるほうを好む、ということだ)

 さて、そのエピソードについてだが、前提として、ぼくは「優等生」として通っていたということを、押さえておいてほしい。

 学級委員長的なポジションについていて、クラスがうるさくしていたら、「みんな静かにしてー」と言うような役割をになっていたような人物だったのだ。

 おとなしくって、控えめで、成績が良く、知的で、体力的には大したことがなくて、スポーツが苦手で、本を読むのが好きで、先生の言うことをよく聞くよい子だった、と思われていたとして、それほど的外れでもあるまい。

 それは、体育祭の準備期間のときだった。

 応援団の先輩のひとりが、まあ、機嫌が悪かったのか、ぼくにもっと大きな声を出せ、と言ったのだ。

 ぼくは、精いっぱいやってます、と答えた。

 すると、口答えをするな、と言われた。

 さて。

 ぼくは、基本的に、他人がどんな思想を持っていようが、そんな考えや感情を持つなんてダメだ、とは言わない。

 そんな思想を発表するな、とも言わない。それは、相手の自由だ。

 なにより、そのような意見を聞くことは、相手を尊重することだと思うので、積極的に相手の意見を聞きたいと思っているからだ。

 逆に、自分の意見を封殺されることに対しては、ぼくは非常な怒りを感じる。

 名誉やほこりを傷つけられたと思うし、尊厳を侮辱されたと思う。

 まともな人間同士のつきあいをされていない、と思う。

 そういうわけで、口答えじゃありません、自分の意見を意見を言っただけです、あなたはそういうことを認めないんですか?

 と言った。

 すると、もうよく覚えていなのだが、なにやら大声でわめきだしたので、

 人の意見を聞くことができない人間に、相手の意見を封じる権利なんてないと思うし、実際、本気で何かをしようと思ったら止めることはできないので、あなたはぼくの口を封じることなんてできない。

 と、聞こえているのかどうかわからなかったが、それを大声で言った。

 その先輩は、できるさ!

 と言い放ち、ぼくの腹にパンチをめりこませてきた。

 体験がある人はわかるかと思うが、実は、腹に対するパンチというのは、とても痛い。

 どれくらい痛いかというと、しばらく動けないほど痛い。

 腕をなぐられたり、足をけられたりするのとは全然違う。

 そのあと、何かを言っていたようだが、覚えていない。

 周りの人たちがざわつきだしたのと、応援団のみんなが遠巻きにしていたのは覚えている。

 ぼくは、体をくの字に折り曲げていた。

 そういうことがあったので、反省文を書かされることになった。

 しかし、納得がいかなかったのは、ぼくも反省文を書かされる、という点だ。

 別にこちらは手を出していないのに、反省文を書かされるというのは、おかしい、という話を、生徒指導部の先生とした。

 椅子に座っている、めがねをかけたその先生は、喧嘩両成敗だ、と言った。

 しかし、こちらは手を出していないので、それは喧嘩ではなく、一方的な暴力じゃあないでしょうか、他の生徒も見てますよ、とおだやかに反論した。

 だが、喧嘩は喧嘩なのだ、と先生は言うのだった。ぼくは、どうしても納得できなかった。

 どうしても納得できないので、反省文を書きたくありません、といったら、それは許さない、と言った。

 どうしても?

 どうしてもだ。

 そういうやりとりは覚えている。

 次の瞬間、ぼくはその先生の横っ面を思いっきり張り倒し(ただしメガネが壊れないように気を付けて)、あっけにとられている周りの人たちが、ぼくを止めるということを思い出す前に、その先生にみぞおちに、蹴りをくれてやった。

 そして、一緒に来ていた、ぽかんという顔をしている、ぼくをなぐった先輩の腹にパンチを叩きこんだ。

 しかし、ぼくは暴力には三倍返しが基本だと思っているので、そのまま、体を離して、あまりうまくないサッカーを思い出しながら(実はスポーツ全般が苦手なのだが)、先輩の股間にむけて、大きく振りかぶった蹴りを叩きこんだ。

 本で読んだのだが、ある程度密着状態から撃たないと、うまくきまらないと書いてあったので、離れすぎないように金玉に蹴りをお見舞いするのは難しかった。

 ぼくはあまり体力がないが、手加減しすぎても駄目だろうと思ったので、とりあえず、相手が死んでもいいという気持ち(喧嘩をするときはこの気持ちが大事だ)から、少し手加減を加えた気持ち、別にこいつが傷ついたっていいか、という気持ちで蹴りを放った。

 そして、うずくまる先輩と、わめくその生徒指導の先生がこちらにつかみかかってくるのを見ながら、ぼくはそのときようやく、他の先生に取り押さえられ、さらにその逆上した生徒指導部の先生も他のだれかに動きを阻まれた。

 おかげで、ぼくはその先生に暴力を振るわれることはなかった。

 もし、暴力を振るわれていたら、ぼくはその先生をまた攻撃していただろう。

 そのとき、だれかが言った言葉を覚えている。

 先生のだれかだったと思うのだが、ぼくも興奮していて、正確には覚えていない。

 どうしてこんなことをしたんだ、と。

 だから、ぼくは答えた。

 自分が反省文を書く納得できる理由がないのに、反省文を書かされなくてはならなかったので、反省文を書くのに納得できる十分な理由を作りました。これで心置きなく反省文が書けます。


 繰り返すが、ぼくはいわば優等生であり、あまり喧嘩をするようには見えず、どちらかといえばガンジーみたいな人間だと思われていた。

 おとなしく、成績優秀で、スポーツが苦手で、人に暴力をふるったりはしない人間。

 しかし、それは、暴力をふるう理由がなかったからに過ぎない。

 ぼくは、子どものころから背が小さかったし、背が小さいというのは、背が大きい人間とくらべて、なめられて、ちょっかいを出されたりする。

 遊びとしてぱしっ、と叩かれたりなんてこと、背が高いやつはあまり経験がないんじゃないだろうか。

 ぼくは、遊びであっても、自分を叩いた相手には叩き返したし、そういう風に「反撃する人間であること」をわからせることが、とても大事だと思っていたし、今でも思っている。

 暴力も平等であるべきで、相手が自分の右の頬を叩いたときには、相手の右の頬を叩き返すべきだと、ぼくは思っている。

 反撃、とは大事なことだ。

 反撃すれば、相手が自分を変えることはできない。

 勝てなくっても、負けない。

 そういうわけだから、ぼくはガンジーみたいな人間だと思われていたけれど、実はマルコムXだったのだ。


 それが中学校の二年生のときであり、ぼくはそのとき以来、クラスで「ちょっと怖い人」というポジションを獲得した。

 ……と思う。

 いや、ぼくは「ちょっと怖い人」だと思っているのだが、実は「とんでもなくやばいやつ」とか「わけのわからないタイミングでキレて暴力をふるうやつ」だと思われていたのかもしれない。

 他人の気持ちを正確に読み取れるわけではないので、ぼくにはそこのところはよくわからない。

 ただ、いじめられるようになったわけではないし、クラス全員から無視されるようになったわけでもない。

 結局、なぐったのは先輩と先生であり、同学年の人たちにとっては、少し身近ではない話だったのかもしれない。

 あるいは、みんながそれなりに寛容で優しかったのかもしれない。

 ぼくは、その事件があったあとも、「優等生」であった。

 基本的に、先生の言うことはよく聞いたし(基本的に納得できることしか先生は言わなかったので従っていた)、成績もよかったし、真面目にものごとに取り組んでいた。

 その事件の余波や、まわりのクラスメイトに与えた影響について、ぼくは知らない。よくわからない。

 その事件については、反省文を書かされただけでなく、停学処分も受けた。

 こういうことはもうしません、とは断固として言わなかったし、書かなかったので、停学の時間は伸びたが、最終的には学校側は、ぼくを受け入れた。

 停学が終わったあと、いろいろ聞かれたが、それもすぐに終わった。

 基本的に、先生をなぐったって本当とか、どうしてそんなことしたの、とかそういうことを聞かれただけだし、それにきちんと答えたら、それ以上、言うことは、ぼくにも、相手にも、何もないようだった。

 勉強は別に問題なかった。すぐに授業についていけた。

 当然だ。

 ぼくはもともと成績がよかったし、中学校でやる問題の多くは、自力で本を読んで理解することができた。

 どうしてもわからないところは、ネットで聞いたり、先生に聞いたりもできた。

 だから、停学になっている間も、きちんと勉強していたのだ。

 親はごちゃごちゃ言っていたが、しかし、そんなことはどうでもよかった。

 大事なことは、自分の正義を貫くことだ。

 義を見てせざるは勇無きなり。



 ぼくにとっては、理不尽な理由で振るわれた暴力に反撃することは正しいことだった。

 理不尽な理由で反省文を書かされるときには、それに全力であらがうことが正しいことだった。

 ぼくは、相手が暴力を振るわないかぎり、こちらから振るうつもりはまったくなかった。

 だが、反撃としての暴力は、これを支持する。

 いわば、ガンジーのいう非暴力非服従ではなく、専守防衛、といったところだ。

 これで、ぼくの性格が、少しはわかってもらえたことだろう、とぼくは信じる。

 もちろん、ぼくの性格の、ある状況下での一面、ということだが。

 しかし、この側面が、これからのお話において、ぼくの心理や信念や価値観の理解を、ある程度助けてくれるとぼくは考えているので、このエピソードを紹介したわけだし、これからの話を読むときに、どうかみなさん、このエピソードを覚えておいてもらいたい。



 この話をどこから始めればいいのかといえば、たぶん、中学校三年生の合唱コンクールからはじめるのが適当だろう。

 だいたい、こういうものがいつやるのかはわからないが、うちの学校では、一学期に行われていた。

 そして、中学校の三年生の合唱コンクールで、ぼくは自分のクラスの指揮者に選ばれた。

 ちなみに、ぼくに指揮経験などない。

 要するに、これは、みんなの無責任体制の結果なのだ。

 指揮者というものを、だれもやりたくなかった。

 ふつう、(高校以上だと、専攻の専門分化が激しいので別かもしれないが)中学校なら、クラスには何人か、音楽に情熱をかたむけているやつがいて、そういう人たちが率先して指揮をやり、合唱コンクールをもりあげようぜ、ということをしてくれる。

 しかし、指揮者を決める、そのときのクラスでは、おりあしく、指揮をやってくれそうな人が、熱を出して学校を休んでいた。

 そして、吹奏楽部などに所属している、そういうことをやってくれるかもしれない人たちは、クラスにいることにはいたのだが、残念ながら、引っ込み思案というか、あまり率先して切り込んでいこうとはしない人たちだった。

 そういうわけで、指揮者の希望については、まったくだれからも手があがらずに、沈黙の中にあった。

 こういうときに、他の学校では、どのような対応を取るのか、ぼくは知らない。

 先生が、音楽の才能のある人間を指名したりするのかもしれない。

 しかし、ぼくのクラスでは、「推薦」を行った。

 立候補者はいますか?

 そんなセリフを、合唱コンクール指揮者、とチョークで書かれた黒板の前に立っている司会者(そのときの学級委員だ。ぼくではない)が聞いた。

 沈黙。

 下がる目線。

 頭が下をむくみんな。

 ぼくがそんなことを知っているのは、下を向くのがなんとなく負けな気がして、癪に障ったから、ずっと頭をあげていたからだ。

 なにか、自分の限界を不当に下げている気がするから、頭を下げるのがいやだったのだ。

 自分はこんなところで頭をさげる人間なのか?という思いがあったので、頭をあげつづけていて、その結果、ぼくはクラスを見渡すことができた。

 そのとき、クラスのそれなりに中心にいる人物が、ぼくを指揮者に推薦した。

 さきほど、先生と先輩をなぐった話をしたが、それでも、ぼくはそこまで人望をなくしていたわけではなかったし、真面目で責任感のある人間である、と周りから思われていたようなふしがある。

 多少エキセントリックなことをしても、それでも、こういう面倒仕事を押し付けるには適任の人材というわけだ。

 いや、これは少し、いやらしすぎる言い方かもしれない。

 でも、今まで生きてきて、別に望んだわけでもないのに、委員長などに推薦されることが大変多かった自分としては、正直、そういう見方をしてしまう部分がなきにしもあらずだ。

 ともかく、このままだと、推薦されているのが一人しかいないので、このままだとぼくに決まってしまう。

 ぼくは、ぼくを推薦したその人物を逆推薦した。

 人気もあるし、指揮の経験があるのかどうかはわからないが、それなりにやってくれそうな感じがするからだ。

 みるからにほっとした感じの司会者が、決選投票をして、そして、ぼくは指揮者になった。


 ぼくには、指揮者の才能がなかった。

 最初に、ぼくの指揮を練習で見た人は、「ひどい」と思ったそうだ。

 そこで、指揮者の経験がある人に放課後、教えてもらうことになった。

 発表会当日まで、普通の合唱練習に加えて、放課後の練習。

 だけど、なかなかうまくならなかった。

 ぼくは、その練習が本当につらかった。

 本当につらかった。

 もう、耐えられなかった。

 だから、本番をさぼった。


 その日(というのは合唱コンクールの日)、学校に行く途中で、学校に行くのをやめた。

 適当に道をそれる。

 なんだか、それはちょっとした冒険のようで、なんでもないことのようで、ぼくにはよくわからない。

 ぼくは携帯を持っていないから、ぼくを捕まえることなんて、だれにもできない。

 適当に歩いていると、ぼくと同じ学校の人に出会った。

 この時間を考えると、珍しい。

 もう、学校は始まっているはずだからだ。

「あ」

 こちらに目をむけた、その女の子が、ぼくに対して声を出す。

 あ?

 まるで、ぼくを知っているかのような言葉だ。

「おはよう」

 とりあえず、挨拶をしてみる。

「お、おはよう」

 それで、むこうも、とりあえずあいさつを返してくる。

「えっと、以前、どこかで会ったっけ?」

 それだけじゃあ、余計混乱するかもしれない。

 そう思って、言葉を足す。

「なんだか、さっき、あ、って声を出したから。ぼくのこと知ってるんじゃないかと思って」

「あ、ああ、それ」

 少しだけ動揺したような女の子の顔が、落ち着いたものに変わっていく。

「その、先生と先輩をなぐった人、でしょ……有吉くん」

「よく知ってるね」

「有名だから」

「そんなに?」

「自分で気づいてないの?」

 ぼくは、人のうわさにうとい。

 というか、人のうわさというものに興味がないし、聞いたとしても、あまり信用しない。

 ぼくは、昔、小学校のとき、ある女の子のことを好きなんでしょ?と同級生の女の子に言われたことがある。

 そのぼくが思いを寄せているとうわさされている女の子は、ぼくと一度も同じクラスになったことがなかった。

 小学校は、そんなに人数がいないので、六年生くらいにもなると、だいたい学年全員の名前がわかるので、その子の名前も知っていた。

 しかし、ほとんどしゃべったことがないのだ。

 片手で数えるくらい、という表現が、文字通りの意味で使えるくらいしかしゃべったことがないのだ。

 そんな女の子のことを、好きだって?

 そういううわさがあるって?

 いったい、だれがそんなことを言ったのか知らないが、本当にびっくりした。

 火のない所に煙は立たない、というが、どう考えても、その子とぼくの間に、「火」があったことなんてない。

 それ以来、ぼくは、うわさというものを、まったく信用していない。

 本当に、まったく、だ。

 だれかがなになにらしいよ。

 そんなことの、何を信じられるというのだろう。

 しかし、現実には、そういうことを信じている人間も、何人かいるらしくて、それがなんとも残念である。

「自分で気づいてないの、っていうのは、自分の有名さに、気づいてないのかって意味?」

「そう」

「全然わからない。実感もない。正直、そんなに有名なのか? 君の嘘なんじゃないのか? という気持ちがある」

 少し、びくっとしたふるまいをして、その子は首を振った。

「ホントに、有名だよ。ホントに」

「そっか」

 ぼくは、もう一度、相手を見る。

 ぼくは有名で、この人は、ぼくを知っている。

 しかし、ぼくは、この人を知らない。

「えーっと。じゃあ、ぼくのことを、知っているわけだよね。名前まで」

「うん。クラスもわかってる」

「でも、ごめん、ぼく、君のこと知らないんだよね」

「あ、ああ、そうなんだ」

 女の子は、少し、ほっとしたような、たじろいだような声を出す。

「あれ? もしかして、以前に会ったことがあったっけ?」

「あ、ううん。ないよ。ただ、自分を知らない人と話すのって、なんか楽だから」

「ふうん、そういうものか」

 いろいろとしがらみが多くて、だれも知らない場所に行きたい、と思うことは、ぼくにもある。

「名前、なんていうの?」

「名前? うん、明坂。明坂万梨阿」

 あけさか、まりあ。

 よし、覚えた。

 ぼくは、人の名前を覚えるのは、けっこう得意なのだ。

 名前に記憶はないから、やっぱり出会ったことはないのだろう。

「そういえば、明坂さん、今日、合唱コンクールじゃない? なんでここにいるの?」

「え? うーん、でも、それを言えば、そっちだって同じじゃない?」

「そうだねー、ぼくはさぼった」

「さぼった!?」

 びっくりした顔で、明坂さんはそう言った。

「うん、サボタージュした」

「フランス語で、木靴の意味だっけ。サボって」

「そう。労働者が木靴で意志表示をしたことにちなむらしい。仕事を怠けることで、ストライキのような効果を出そうとした労働運動の手法から、サボタージュという言葉が生まれたんだよね」

 こういう知的な会話ができる相手は好きだ。

「怠けることで、仕事に出ないというストライキと似たような効果を出そうとするのって、なかなか頭いいよね」

「牛歩戦術だっけ。政治でもあるよね」

「投票のときに、わざとノロノロ歩くってやつね」

「そうそう」

「でも、さぼるなんてびっくりした」

「そうかな」

 そもそも、合唱コンクールをさぼるというのは、そんなにびっくりするようなことなんだろうか?

 合唱コンクールをさぼるなんてことは、確かに、あまり起こらないことのようにも思えるが……。

「びっくりしたよ。なんか真面目そうなのに」

「噂だけ聞いてたら、真面目そうには思えないんじゃないか?」

 先生や先輩をなぐって停学になる人間を真面目と形容する人は、あまりいないと思うのだが。

「違う違う! 噂を聞いてないなら、知らないのも当然だけどさ。真面目な有吉くんが、人をなぐるなんて超驚いた、っていう話なんだから」

「ああ、なるほど」

「全然、人をなぐるようなタイプには見えないっていうギャップ? が話題になってたんだからさ。意外だなって。わたしも、第一印象は真面目な人、だし」

「ふうむ」

 そういえば、入学当初のころ。

 はじめての試験で、それなりにいい成績をおさめたあと――具体的にいうと、学年で十本の指に入ったあと――家で、「必勝」の鉢巻きをして、勉強している、といううわさが流れたことがあった。

 同級生の女の子から、本当か、ということを聞かれて、爆笑しそうになったが、苦い笑いしかでなかった。

 そんなことを言う人間の品性にも、嫌な笑いが出た。

 そんなことを信じる人間の知性にも、嫌な笑いが出た。

 馬鹿じゃないのか、こいつらは。

 そう、思ったし、もしかしたら、そういう自分の中の嫌な気持ちにも、嫌な笑いが出たのかもしれない。

 そういうわけで、苦い笑いをしながら、ぼくはその噂を否定した。

 否定したけれど、そういう噂が出てくるくらいには、ぼくの第一印象は、真面目ながり勉くんらしい。

 それでも、やっぱり先生や先輩をなぐって停学になったことのある人間が、合唱コンクールをさぼったくらいでびっくりされるというのは、なんだか自分には不思議な感じがする。

 でも、ぼくの感性では不思議だ、変だ、おかしい、と思うことが、他の人の感性にとっては、別に不思議なことではなく、むしろ自然だ、ということは、ありうる話だ。

 だって、ぼくの感性と、他人の感性は、違うのだから。

「それで、明坂さんは、なんでここに?」

「え?」

「いや、ぼくはさぼりだけど。君は?」

「わたしは、まあ、ちょっと体調不良、みたいなやつなんだよ。まあ、大したことないんだけど。さぼりといっても、過言ではないかもしれない」

「そっか」

「うん。家に帰ろうかとも思ったんだけどね。というか家に帰ろうと思ってはいるんだけど。その途中で、君に会っちゃった、みたいな」

「なるほどー」

 そういえば、ぼくは、これからどうするか、っていうことを、何一つ考えていなかったな。

 まあ、図書館ででも、時間をつぶすか?

 なんでもないときに、制服を着て、図書館にいると、目をつけられるかもしれない。

 でも、まあ、どうでもいいか。

 ん、待てよ。

「ねえ、明坂さんって、今日暇なの?」

「まあ、暇っちゃ暇かな」

「じゃあ、せっかくだし、学校さぼって、どっか行かない?」

「ふーん、第一印象と全然違うなあ。そういうこと、絶対言わない人に見えた」

「第一印象なんて、まったくあてにならないと思うよ」

「そっか。じゃ、どっかに入ってごはん食べたりする?」

「できない。ぼくは、おこづかいをもらっていないし、財布も持ってない」

 高校生にもなると、学食などのために財布を持つのかもしれないが、中学校で財布を持ってきているやつはいないだろう。

「そっか。じゃ、何しよっか」

「フツーにしゃべってるだけで、ぼくは楽しいと思う」

「あー、わたしも、だべるのは、けっこう好きだ」


 そこで、ぼくと明坂さんは、人気のない公園で、二時間くらい話をした。

 特に、哲学的な話ができたのがよかった。

 こういう、哲学的な話は、実はけっこう、多くの人が考えているのかもしれない。

 でも、そのときのぼくは、ぼく以外に、そんなことを考えている人がいるとは思えなくて、だから、そういう話ができたことを、本当に本当にうれしく思った。

 たとえば、宇宙のはじまりはどうなっていたのだろう、とか。

 ビッグバンというものがあり、それは大きな爆発で、それで宇宙が出来て、宇宙は今も拡大をし続けている、というような話を、ぼくも明坂さんも聞いたことがあった。

 しかし、この話を聞いたとき、こう思う人がいても不思議じゃない――。

 ビッグバンの前には何があったのか、と。

 ぼくも明坂さんも、それについては、もちろん明瞭な解答など持ち合わせてはいなかった。

 たぶん、この世のだれも持ってはいないだろう。

 しかし、それでも、ぼくたちはそれについて話した。

 実は、宇宙は収縮を繰り返しており、ビッグバンの前には、現在の拡張する宇宙ではなく、縮小する宇宙があったのではないか、とか。

(もちろんこの場合、縮小する前は何があったのか、ということが問題となる)

 実は神さまがいて、この世界を創ったのでは、とか。

(じゃあ、やはり神さまの起源が問題となる)

 たとえば、実はこの世界が夢であって、宇宙の起源というのは、そもそもゆめまぼろしなのだ、とか。

(では、ぼくたちの見ている夢の起源や、「夢から覚めたぼくたち」の起源は、いったいどこか?)

 いろいろな話が出た。

 ぼくは、この世界が夢かもしれない、ということを考えたことがある。

 それは、三歳くらいのときに、死んだらどうなるんだろう、と考えたときのことだ。

 トイレに続く廊下を歩いていたときのことで、夕日がトイレの窓からこぼれていたことも覚えている。

 そのときに、ふと、その考えが浮かんできたのだ。

 もしかして、この人生というのは、夢なんじゃないだろうか、と。

 そして、死んだら目が覚めて、そこには永遠に続く幸せな世界が広がっているんじゃないか、と。

 では、今、ぼくのまわりにいる家族は、その本当の世界では、どうなっているのだろうとか、そういうことも思ったのだけど(年齢はどうなんだ、そこでもやっぱり、お父さんとかお母さんという存在なのか、などなど)、とりあえず、そのときに、この世界が本当の世界じゃないかもしれない、ということを意識した最初だったように思う。

 そういう話をしたら、明坂さんも、話をしてくれた。

 明坂さんも、この世界が夢じゃないだろうか、ということを思ったことがあったそうだ。

 しかし、その理由は覚えていないらしい。

 気がついたときには、そういう考え、概念が、自分の中にあったということだ。

(神がその観念を挿入したのだ、と中世の西ヨーロッパの神学者ならいうのかもしれない……いや、ぼくはスコラ哲学については、あまりよく知らないので、偉そうなことは何も言えないのだが)

 そして、死についても、自然と考えたことがあると言っていた。

 この世界が夢ならば、夢の終わりは、きっと死なのだから、当然といえば当然なのかもしれない。

 明坂さんは、生まれ変わりを信じている、と言った。

 それと同時に、天国も信じている、と。

 死んだら、夢から覚めて、天国のようなところに行くのだけれど、なんらかの理由で、生まれ変わって、またこの世界にやってくるんじゃないかな。

 特に明確な理論的理由があるわけじゃなく、直感的に、そう思っているみたいだ。

 ぼくは、死後存続については興味があるので、自分の知っている話をした。

 死後存続とは、死んだあとの存在についてのお話だ。

 生まれ変わりについては、イアン・スティーヴンソンの有名な研究がある。

 ぼくは半信半疑だが、あったら面白いと思う。

 天国については、臨死体験や、霊視(apparition)についての研究から、あるかどうかを確かめようとする人たちがいる、という話をした。

 ちなみに、霊視というのは、厳密にいえば一度ないし稀にしか見られないものに使う言葉で、幽霊とは区別される、ということが、超常現象の研究サイトの用語集に書いてあった。

 ぼくも、天国については、信じたいけれど、どうも信じがたい、というのが、正直なところだった。

 こういう話をしたことがなかったので、ぼくは本当に楽しかった。

 そして、こういう話をしても、なお、時計の針は十二時を回っていないのだった。


「大変だったね」

 合唱コンクールから、なぜ逃避したのか、ということを、より詳しく、つまり、自分の感じたことや考えたことをまじえて話したあと、明坂さんはそう言った。

 正直、ぼくは、人に愚痴を言うタイプではない。

 基本的に、人間不信だし、信じるよりも疑うほうが道徳的に良いことだと思っているので(なぜならば真理に至るには信じるよりも疑うことが必要だからだ。そして真理に至ることは嘘を拒絶するという点で道徳的なことだからだ)、あまり人に自分の考えていることをしゃべったりしない。

 でも、なぜか、そのときの明坂さんには話せた。

 ふつう、自分がわりと追い詰められていないと、こういうことは話せないのに。

 ぼくは、自分で思っているよりも、そのとき、追い詰められていたのかもしれない。

 ぼくは、自分の気持ちが、自分でもよくわからないから。

「たまに、ぼくは、この世界に爆弾でも落ちればいいのに、と思うことがあるよ」

 たまに、全部を爆弾で吹っ飛ばせたら、気持ちがいいだろうなあと思う。

 学校とか、道ゆく人とか、街とか、国とか、地球とか、世界とか。

 全部全部、超すごい爆弾で、どっかーん、とやれたら。

 そう思うことがある。

「その気持ち、わかるよ。そうだよね、爆弾。あったらいいよね」

 あのさあ。

 本当に、気軽に、世間話をするように、明坂さんは、その言葉をつづけた。

「実は、わたし、爆弾を作ってるんだ」


 失われる記憶。

 そういうものが、ぼくは大変に怖い。

 怖いというより、不愉快だ、怒りを感じる、といったほうが適切か。

 今まで覚えていたことが、もう思い出せない。

 大切な感情、思考、そういったものが、もう手の届かないところにいってしまう。

 とても悲しい。

 とても悲しいから、そういうことに、全然まったく納得できなくて、ぼくは日記をつけている。

 たとえば、こんなことを書く。

 今日は、合唱コンクールをさぼった。

 昼ごはんは食べられないので、家に帰って昼寝した。

 適当に、バナナを食べて空腹をまぎらわせた。

 明坂さんと会って話した。

 爆弾を作っていると言われた。

 もし興味があったら、爆弾を作っている秘密基地を教えてあげる、と言われて、メールアドレスを渡された……。

 爆弾。

 本物の、爆弾。

 それは、どことなく甘い匂いがした。

 ペンを置くと、パソコンを立ち上げる。

 ぼくは、日記だけじゃなくて、個人サイトもやっている。

 日記は、個人的なことを書いている。

 自分が中学生だということをわかるように書いているし、現実の人間の名前もそのまま書いてある。

 でも、個人サイトは少し違う。

 サイトでは、自分の年齢、というより生年を明かしてはいるが(あまりよくないのかもしれないが、どうしてもそれがわかってしまうような、あるいは世代や年齢について書かなくては話が進まないエントリを書くことだってあるのだ)、基本的に、学校で起こったことは書かない。

 自分の居住地が特定されるようなことも書かない。

 つまり、個人情報を特定されるようなことは、一切かかない。

 サイトは、全世界に開かれている。 

 だから、個人的なものではなく、プライベートなものではなく、公的なもの、パブリックなものだ。

 そこでは、礼儀ネチケットを守らなくてはならないし、一人前の存在としてふるまわなくてはいけない。

 そして、個人情報を秘匿しなくてはならない。

 その情報を悪用する人間がいるから。

 まるで、学校で先生に対するときのように、ぼくはインターネットに向かっている。

 サイトで文章を書いていると、本当に中学生か?

 というような質問を受けることがあって、それは本当にショックだ。

 どうやら、ぼくの書いていることが、「大人すぎる」らしい。

 子どもは知的ではないとでもいうのだろうか?

 本の対象年齢さえ大嫌いなぼくにとっては(好きな本を読ませてくれ。読むべき本を決めないでくれ。小学校六年生の時点で、吉川英治の宮本武蔵は全部読めて楽しめるようになっていたぞ)、中学生がそんな難しいことを考えられるのか?というのは、本当に侮辱的な言葉に聞こえる。

 サイトで年齢を書く前は、インターネットで交流していても特に何も言われなかったが、それはぼくのアイデンティティが秘匿されていたからだ。

 つまり、ぼくは中学生と名乗って、ネットをしていたわけじゃないから。

 これは、ぼくにとって、とてもいいことだった。

 だって、自分が何者であるかという属性を名乗らずに、性別も年齢も国籍も隠したまま、自分のままでいられるのが、ネットの一番の魅力なのだから。

 しかし、サイトで年齢をあかすと、そういう発言が飛びだすときが一度あって、それは本当にびっくりした。

 掲示板でそういう発言があって、きちんと反論したけれども。

 そういう発想をする人間(しかも大人)がいるということが、本当にびっくりだった。

 ちなみに、サイトでのハンドルネームは、アリョーシャだ。

 アリョーシャというのは、もちろん、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の主人公からとっている。

 厳密には、イワンのほうがちょっとだけ好きなのだが、アリョーシャも同じくらい好きだ。

 ぼくの名前が有吉弥一だから、ありよしやいち……ありよーしや……アリョーシャ……とちょっと苦しいかもしれないが、自分の名前をもとにハンドルネームをつけた。

 個人的には、自分の名前が弥一というのは、あまり気に入っていない。

 あまり現代風ではない、と思うので。

 正直、アリョーシャという名前のほうが、ぼくは好きだ。

 ちなみに、なぜイワンのほうが微妙に好きかというと、イワンの演説が好きだからだ。

 あの、天国に行きたくないという話だ。

 イワンが天国に行きたくないという理由が、本当に好きだ。

 本当に好きだけど、実は理由をはっきりとは覚えていない。

 だけど、イワンが、本当に素敵なことを言った、ということは覚えている。

 確か、こんな話だ。

 神さまがいて、この世界を創り、天国というものがあるとする。

 だけど、もしそうなら、なんでこんなに世界は悲惨なところなのだろうか。

 もし神さまがこの世界を創ったなら、もっと幸せな場所にすることだってできたはずだ。

 結局、みんなが天国に行けるのだとして、すべての罪が許されるのだとしても、そんな天国には行きたくない。

 子供を殺した人間と、その親が和解するような天国に行くことができるとして、それが本当に幸せな場所だとして、天国への入場切符は謹んでお返しする。

 なぜなら、そんな天国に入ることは、殺された子供の涙一滴の価値もないからだ。

 確か、こんな感じのは話だった。

 ように、記憶している。

 そういえば、カラマーゾフの兄弟は、第一部と書かれなかった第二部があり、第二部の方が大事らしいのだが、その第二部の構想が、ほんの少しだけ友人への手紙などに残されていたらしい。

 そこには、アリョーシャがテロリストになるという構想があったらしいが、それは本当に見てみたいと思っている。

 アリョーシャは、とても優しい人間に見えるのだが、それでも、そういう人間の方が、テロリストに対する適性は高いと思う。

 結局、いじめっ子というのは、社会に迎合する卑怯者であり、安全圏から誰かを攻撃したいので、権力者やその腰ぎんちゃくにはなれるが、テロリストにはなれない。

 革命家には優等生が多いというのは、そういうことだ。

 自分が傷つく覚悟がなければ、革命家にはなれない。

 しかし――ロシア革命のあとの惨状を見ると、それでも権力にとりつかれた人間が、おそろしいことをしてしまうのだろうか?

 中央集権的になり、最後には、スターリンによって大粛清が行われたように。


 その日は、帰ってきたお母さんにご飯を作ってもらって、食べた。

 明日、学校に行くのが、少し気が重かった。

 でも、別にどうでもいいか。


 ふとんに横になって、天井を見る。

 天井は真っ暗で、何も見えない。

 この部屋は、明かりがあまり入らないというわけじゃない。

 だけど、この部屋の外には、あまり街灯の光が入ってこないのだ。

 こちらの光も外に漏れにくいし、逆に、むこうからも入ってこない。

 だから、目を開けても、そこにあるのは暗闇だ。

 目を閉じたときと、目を開けたときに、世界に変化がない。

 自分の意識だけが、暗闇に浮かんでいるかのような錯覚の中、思い出す。

 爆弾を作っているんだ、といった女の子のことを。

 本当だろうか?

 本当かもしれない。

 爆弾に興味があったら、作っている場所に連れてってあげるよ。もちろん、素人には触らせないけどね。

 その提案が、まるで、違う世界へのチケットのようで、ぼくは、ほんのりと興奮した。


 目を開けて、ごはんを食べて、気が重いながらも学校に行く。

 結局、自分の妄想や空想よりも、現実のほうがずっとしんどくないのだ。

 妄想や空想の中では、自分はまともに動けない。それは、自分が最悪のイメージを浮かべているからだ。

 でも、現実では、自分はちゃんと動くことができる。

 合唱コンクールをさぼったことについて、それなりに非難を受けて、とはいえ、風邪かなにかだと思っていたらしいから、そこにまずびっくりされて、そこまで追い詰めていたとはしらなかった的なばつのわるさと、それでもそういうことはよくないという正義感と、ばつのわるさを帳消しにするための過剰なバッシングと、まあ、こんなもんかという感じだ。

 もっと集団でかこまれて罵倒されるかと思っていたので、まだマシだった。

 しかも、ちゃんと反論も考えておいたので、ある程度できた。

 よかった。

 ぼくに声をかけてくる人も減った。

 しかし、それは別に問題ではなかった。

 ぼくは、休み時間にみんなでサッカーをするよりも、一人で本を読んでいるほうが好きなタイプである。

 もともと、このクラスのみんなとすごく仲が良かったら、きっとさびしくなっただろう。

 さみしさは、そばにいてほしい人がそばにいてくれないから起こる。

 そばにいてほしい人がそもそもいないなら、そんな気持ちは起こらない。

 だから、ぼくは、そこまでさびしくもなかった。


 声をかけてくる人が減った。

 ということは、減ったものの、少しはいるということだ。

「大丈夫?」

 放課後、だれもいなくなった教室で、声をかけてきたのは、大海原真弓さんだ。

「大丈夫だよ」

 とぼくは答えた。

 おたがいに、少しだけ笑った。

 ぼくは、これから先、なにを言えばいいのかわからなかった。

 話を続けるべきかもわからなかったし、話をやめるべきかもわからなかった。

 大海原さんも、あいまいに笑っていた。

「ありがとう」

 思い出したように、大事なセリフが出てきた。

 そうだ、ありがとうは、ちゃんと言わなきゃ。

 その言葉を聞いて、大海原さんは、はっとしたような顔をした。

「うん」

 それから、少し迷ったあとで、こう言った。

「本当に、大丈夫?」

「うん」

「なにかあったら、いってね」

「ありがと」

 さっきよりは、うまく笑えた。

 確信がある。

 その言葉を聞いて、安心したような、満足したような、そんな表情を浮かべて、教室を出ていく大海原さん。

 ぼくもそのすぐあとに、教室を出て、下校した。

 大海原さんとは、昔、付き合っていたことがある。

 小学生のときに、太っているということでいじめられていた大海原さんをかばっていたのが、その原因かもしれない、と思っている。

 太っていることでいじめられていた、というのは、要するに、「デブ」とか「ブス」とか呼ばれていたということだ。

 実際のところ、ぼくは、やせている女の子より、太っている女の子が好きだ。

 ついでにいえば、自分より背の低い女の子よりも、自分より背の高い女の子のほうが好きだ。

 目の細いのと目のパッチリしているのだったら、目の細い方が好きだ。

 すっぴんの不美人と、化粧した美人なら、すっぴんの不美人を選ぶ。

 でも、太っていて、自分よりも背が高く、目が細くて、すっぴんの不美人という条件を満たす女の子が目の前に現れたとして、その子がぼくのタイプになるかどうかは、わからない。

 現実の人間を好きになるか嫌いになるかは、ある部分がどういう風になっていれば自分の好みか、という話とは、また別の話だと思う。

 話がそれた。

 とにかく、大海原さんは、「デブ」と言われていて、深く傷ついていた。

 「ブス」とも言われて、深く傷ついていた。

 ぼくは、そういうのに、耐えられない。

 どうして、そんな残酷なことが言えるのだろう。

 きっと、言われたほうは、すごくつらいはずだよ。

 やめようよ。

 そういうことを、言った。

 じゃあ、お前はそいつのことを好きなのかよ、と、ヤジが飛んでくる。

 それとこれとは別の話だろ、と言っても、恥ずかしがってんのかよ、という声がする。

 ぼくは、なんて返事をしていいかわからなくなる。

 混乱する。

 そういうことじゃないのに。

 話を逸らさないで。

 でも、相手は、自分に都合のよい枠組みの中にぼくたちをいれて、封じ込めて、現実を解釈する。

 だから、ぼくは言った。

 とにかく、自分の言葉で、言った。

 恋愛感情じゃないと思うけど、好きだよ。

 大切に思ってる。

 傷ついてほしくないと思ってる。

 ブスだとかデブだとか言ってほしくないって思ってる。

 そんなことはやめてほしいと思っている。

 そう、言った。

 みんなの前で。

 クラスのみんなに聞こえるように。

 そういうことを言っても、すぐには事態は変わらなかった。

 でも、先生に何度も言ったり、ぼくも声をあげたりすることで、徐々に状況は変わっていった。

 そして、なにより、大海原さん自身が、変わっていった。

 なんだか、いままでオドオドしていたのが、落ち着いた様子になり、肌つやもよくなり、背も伸びて、なんていうか、あまり横の太さが目立たなくなった。

 いや、端的に言おう。

 美人になった。

 そうしたら、男のほうの態度も変わって来て、それがぼくはたまらなく嫌だった。

 お前らはなんなんだ?

 美人になったから、ころっと態度を変えて恥ずかしくないのか?

 美人になったら、もうブスとかデブとか言わないのか?

 だったら最初っから言うべきじゃないんじゃないのか?

 ふざけるんじゃない、恥を知れ。

 そういうことを思った。

 あとから、大海原さんに、デブだとか言っていた、クラスの中でのお調子者が、大海原さんに告白したと聞いた。

 本当に恥知らずだと思う。

 でも、大海原さんは、優しくごめんなさい、と言ったのだ。

 ぼくは、次の日に、学校に来れなくなるくらいコテンパンにしてやればいいのにと思った。

 「てめーみてーな人の顔が変わったら態度もころっとかわるような恥知らずな性格ブスと付き合うほど、自分は性格ブスじゃないと思う」、とか。

 「そもそも、てめーの顔は人にいちゃもんつけられる顔かよ、まるで猿みたいな、いや、それは猿に失礼か、とにかくお前のほうがよっぽどブスだよ」、とか。

 そういうことを言えばいいのに、と思った。

 思ったので、大海原さんに伝えた。

 そうしたら、そういうことを言おうと思ったけど……と大海原さんは、答えた。

 言おうと思ったけど、なんかもう、いいや、って思っちゃったんだよね。

 なんで?

「たぶん、有吉くんが助けてくれたから」

 この言葉が、ぼくの頭に、いまだに残っていて、自分の中の大事な部分を、支えている気がする。


 でも、そもそも、顔の造作が、よいかどうかなんて、本人が決められることじゃないだろう。

 生まれる前に、顔を選んで生まれてくるなら、本人が決めているのだろうが、それが本当かどうかなんて、確かめようがないし、確かめようがないなら、そのことで相手を責めるべきではないだろう。疑わしきは罰せずだ。

(顔が悪いのはあなたの前世の行いが悪かったからです、我慢しなさい、とか、顔が悪いのはあなたが自分で決めたことです、我慢しなさい、というのは、目の前で苦しんでいる人に手を差し伸べない無関心の言い訳にすぎないように聞こえる)

 それに、記憶がないなら、たとえ自分で選んだとしても、まるで選んだとは思えないのではないか。

 そして、もちろん、自分が顔を選んでいないなら、そんな顔のつくりで、だれかを傷つけるのは、本当に不公平で不平等で理不尽だと思う。

 ぼくはそういうことに納得できない。

 全然納得できない。

 だって、あんまりにもかわいそうじゃないか。

 自分がなんの責任もないことで、責められたり、傷つけられたりするなんて。

 ぼくは、だれかの顔を見て、美しくないと思ったときに、それは、もしかして、自分の審美眼のレベルが低いのではないかと思う。

 だって、生きている以上、なんらかの美しさはあるはずだと思うからだ。

 つまり、相手を美しく見れないのは、相手が本質的に美しくない、醜い、というわけではなく。

 ただ、自分が相手の美しさに気づいていないのではないか、と思うのだ。

 こういうことを思うようになったのは、ある問いのおかげかもしれない。

 その問いとは、以下だ。

 美しいとはどういうことか。

 そのセリフを教えてくれたのは、ある友だちで、その友だちは、美術の先生から聞いたのだ、と教えてくれた。

 美しいとは、どういうことか。

 このセリフが、はじめて聞いたときから今まで、ぼくの心の中から、抜けないでいる。




2.秘密基地にて


「秘密基地なんだ」

 明坂さんはそう言った。

 秘密基地。

 小学校時代のノスタルジックな思い出を思い出させるような単語だが、実際に秘密基地を作った人間は、いったい何人くらいいるのだろうか?

「ここ、どうしたの?」

 あまり人の来ないところにある、この秘密基地、そもそもどうやって見つけたのだろうと気になって、聞いてみた。

「昔、見つけたんだ」

「へえ」

「実は、家族と喧嘩したときに、ここを見つけたの」

「喧嘩?」

「そう。わたし、お姉ちゃんなんだけど、妹なんだからゆずってあげなさい、みたいなことが多くって。だから、お母さんと妹に、そんなことするのやめてって言ったんだけど、やめてくれなくて」

「それで?」

「それで、妹とお母さんの大切なもの、隠しちゃった。隠し場所を探しているときにここを見つけたの」

「じゃあ、ここには、大事なものが隠してるの?」

 そう言うと、いたずらっぽい笑顔で、明坂さんは笑った。

「さあ、どうでしょー?」

 それから、

「お姉ちゃんだから我慢しなさいっていうのをやめないかぎり、教えないって言ったら、待遇はよくなったよ」

「それじゃ、ここにはないんだ」

「でも、その大切なものを渡すと、またひどいことするかもしれないから、大人になるまで絶対に教えないって言ってやった!」

 きゃはっ、と笑う明坂さんに、ほんのちょっとだけ残酷なものを感じる。

 だけど、その一方で、それって本当のことなのかな、ということも思う。

「あ、みてみてー。手回しラジオ。技術の時間に作ったやつ」

 ぐるぐるとハンドルを動かして、電気を生み出すやつだ。

 ざ、ざー、と音がする。

 アンテナをたてて、いろいろと動かしているうちに、電波をキャッチする。

「……ミリバール………ざざ……」

 ミリバール?

 天気予報でもやっているのだろうか。

 でも、今は、ミリバールではなく、ヘクトパスカルで、気圧は表現するはずだが。

「南の島……たんですよね。ミリバール島というものが……」

 どうやら、ミリバールという言葉を聞いて、ミリバール島という、あたたかで暮らしやすいところがある、と思った人の話らしい。

 ふうむ。

 確かに、言われてみれば、ミリバールという言葉には、どことなく南の響きがある。

 ヘクトパスカルは、ヘクタールと同じような言葉だ。

 ヘクタールが、アールの百倍であるように。

 ヘクトパスカルは、パスカルの百倍だ。

 アールもパスカルも、どちらも単位である。

 パスカルは、あのフランスの科学者(というには、いろいろなことに手を出しすぎだろうか?)、ブレーズ・パスカルにちなんでいる。

「あー、なんか、おもしろい番組、やってないねー」

「でも、なにかあったときには、役に立ちそうだね、それ」

 ぼくは、そう言って、ラジオを指さした。

「うん、そうだね」

 結局のところ、ぼくは爆弾づくりに興味があった。

 そこまで、爆破させようと強く思っているわけではないけれど。

 だから、秘密基地の場所を教えてよ、と彼女に伝えた。

 明坂さんは、あっさりと場所を教えてくれて、ここに来ることになったわけだ。



Lamed Vav Tzadikim




明坂万梨阿


 らいとと彼女は名乗った。

「この名前のせいで、けっこう苦労するんだよね」

「それは大変だね」

 とぼくは言った。

「そうなんだよー、つらかったんだー」

「今は大丈夫なの?」

「うん」

「でも、つらかったね」

「うん」

「やっぱり、大事なお父さんとお母さんがつけてくれた名前を、馬鹿にするのはよくないよね」

「うん」





 詩、絵画、音楽など、芸術による特殊な現実把握について、考えていた。

 ぼくの目の前には、スケッチブックがあり、白いスケッチブックであり、そして鉛筆があり、何も描かれていなかった。

 描きたい絵があるのだ。

 だけど、ぼくは、うまく描けない。

「どうしたの?」

 ここは秘密基地。

 明坂さんが、興味深そうに、ぼくのスケッチブックをのぞき込む。

「何か描かないの?」

「描きたいけど、うまく描けないんだよね」

「何を描きたいの?」

 無邪気に、明坂さんは聞く。

 ぼくは、どう答えようか、しばし考える。

「イメージがさ、頭の中に、ぽっかりと、浮かんでくることって、ない?」

「どういうこと?」

 明坂さんは、意味をとらえかねているように、聞き返した。

「イメージ先行、ってぼくは、名前を付けているんだけどね。ちょっと説明させてほしい」

 たとえば。

 白ワイン、机、ランプ。

 あるいは。

 森、切り立った海岸、クラッチ車、白い家。

「言葉で説明すると、こんな、切れ切れの単語になるんだけど」

「その、たとえば、白ワインとか、机とか、ランプとかが、暗闇に浮いてるみたいなこと?」

「いや、違う。ちゃんと風景の中にある」

「じゃあ、机の上にランプと白ワインがあって……みたいな?」

「そう。それで、春風が吹いていたりする」

「そういうイメージがあるんだ」

「ある」

「それで、そのイメージが、描きたいもの?」

「うん」

「そっかぁ」

 うーん、と明坂さんはうなった。

「自分の頭の中にあるものを描くのって、なんだか難しそうだよね。でも、描かなきゃ描けないよ」

 描かなきゃ描けないよ。

 いつもだったら、お説教くさい、と思ったかもしれない。

 しかし、そのときは、きっと天気がよかったからだろう、なぜか自然とその言葉が腑に落ちた。

 ぼくは、たぶん天候や気候の影響を精神が受けやすい。

 季節の変わり目には、情緒不安定になり、性欲が増す。

 良い匂いの夜になると、とても自由な気持ちになる。

 きっと、言葉を受け入れやすい季節だったのだ。

「頭の中のイメージを描くのって、難しいよね」

「うん、難しい」

「でも、現実のもので練習してみたら? あるいは、とりあえず描いてみるとか」

「うん……」

 そう言われて、机と白ワインとランプを描いてみる。

 机の上に、ものがのっている感じを、うまくだせない。

 なんだか、必要な立体感が足りていなくて、のっぺりとした、平面のような絵になっている。

 わざと平面的に描く絵もあるだろう。セザンヌとか、そういうタイプじゃないだろうか?

 しかし、これはもちろん、意図したものではない。

 ランプも、ランプがどんな形なのか、頭の中にはある。というか、ランプのイメージが頭の中にある。それは明瞭だ。

 しかし、実際に、絵にしてみようとすると、細部がぼろぼろとこぼれおちる。

 全体もよくわからなくなり、頭の中にあるランプが、だんだんとぼやけてくる。

 ランプ、頭の中のランプは、ちゃんとランプだとわかる。

 わかるし、それは、しっかりと細部までイメージできているように思う。

 しかし、それをいざ、紙に描こうとすると、するすると逃げて行ってしまうのだ、そのイメージが。

 すべては自分の頭の中でのイメージに過ぎないのか?

 だとすれば、ある意味でゆがんでる。

 細部までイメージできたというのは、ゆがんだ認識で、実際は認識していないということなのだから。

 それとも、無意識は認識しているが、表層意識が認識していないため、絵にはできない、ということなのだろうか。

 この考え方のほうが、自分の感じ方には、しっくりくるのだが。

 なんどか、頭の中にあるイメージを、形にしようとして、失敗する。

 いちおう、机と、白ワインと、ランプ、という形にはなっている。

 しかし、欲しいイメージの明晰さを獲得してはいない。

 本当は、ルネッサンス以後の絵画を描きたいのに、中世レベルの絵しか描けないようなもどかしさ。

 まるで、自分が頭の中で考えていることには、具体的な根拠がない、と言われているようで、ほんの少し不安になる。

 どんな人間も、おおかれすくなかれ、世界を頭の中で解釈していると思うが、それは現実に「存在しうる」のだろうか?

 そんな気にさえなってくる。

 ぼくのイメージや、空想、想像、想像に基づく現実把握(たとえばきっと合唱コンクールをさぼったせいでみんなはぼくのことを嫌いになった「だろう」)――。

 それは、ぼくの頭の中にしか存在しないんじゃないか?

 ぼくは、自分の理想の世界を、世界がこうだったらいいなあという見取り図を、頭で思い描くことが多いけれど、理想の世界というのは頭の外に存在するか?

 頭の中にしかないんじゃないか?

 そんなことを、思ってしまう。

 ぼくは、この世界が、全然理想と違うし、いやなところだから、爆弾で吹き飛ばしたいと思っている。

 しかし、いやなところだと、ぼくは「感じている」が、そして、それはまさに「現実」なのだが、それは一種の妄想であって、たとえば、実は合唱コンクールをさぼったぼくがみんなに嫌われていないのだとしたら、ぼくはこの世界を前ほどいやだと「感じなくなる」し、それが新しい「現実」になるだろう。

 そういうことを考えると、爆弾を作るというのは、はたして正義の行いなのか、正義でなくとも、納得のいく行いなのか、疑問が出てしまう。

 いろいろ考えすぎているのかもしれない。

 ごちゃごちゃになった頭を振り払って、今度は、目の前にあるものを描いてみる。

 机を描いてみる。

 それなりに、描けるけれど、一回描いただけで、飽きてしまった。

 絵の適性がないのか、と少しだけ思ってしまうが、そんなことを思う暇があるなら、手を動かすべきなんだろう、たぶん。

 ふと、明坂さんの方を見る。

「あのさぁ」

「なに?」

 手元の器材をいじくりながら、明坂さんは答えた。

「明坂さんを、描いてもいい?」

 ぴた、と手を止めて、それから、立ち上がって、こっちを向いた。

「顔、描かないんだったら、いいよ」

 そう言って、椅子に座る。

「作業、続けていてもよかったのに」

「いや、別にいいよ。休みたかったし」

 そのまま、ぼうっとした視線を、宙に浮かせる明坂さん。

 それを、描く。

 顔は描かないので、首から下を。

 椅子に座っている、明坂さんの体を、描く。

 今まで見たことのない目で、相手を見る。

 どこに何が置かれて、どのような配置で全体の調和がとれているのか。

 手の位置、足の位置、椅子に座ったときの体のばらけ具合。

 こんな風に、人を見るのは、はじめてだ。

 慣れない。

 けれど、面白い。

 机を描くより、ずっとぼく好みだ。

 自分でも驚いたことに、五十分くらい絵を描けた。

 途中、遠慮なく体を動かす明坂さんだったが、それでも、最後には元のポーズに戻ってくれるので、ちゃんと描けた。

 うまいか、へたかでいったら、たぶんあんまりうまくないんだと思う。

 でも、楽しんで描けたことには、疑いの余地はない。

「ふうん。悪くないじゃん」

 そう言って、にやっと笑う明坂さんの笑顔に、なんだか距離が縮まった気がした。


 *


 ぼくは、絵も描きたいのだけど、小説も書きたいと思っていたので、小説を書いている。

 これは、ネット小説で、自分のホームページで公開しているのだ。


 体験してもいないのに書くべきなのか?

 インチキ性。(少しはあったほうがいいのか)

 

 気持ち悪いことを聞くとこちらも気持ち悪くなることについて。

 共感性。


 言語はインチキだ

 文体

 直接的には伝えられないこと

 小説の書き方

 問題は、世界がどのような姿をしているかというよりも、どのようなことをされたらどのような気持ちになるかということだ




この世は悪の宇宙である


 すべての親は、子どもに対して、人生というこんな残酷なゲームに巻き込んですまなかったと、土下座して謝罪するべきだ


 人生は悪夢だ。だから心配しなくていい。まだたきをするうちに目が覚める


 この世の中にひどいことがあることについて。それは単に頭の中のイメージなのか?


 他人を見下すことについて

 不細工なのは君のせいでないかもしれない。

 不平等、不公平

 前も言ったけど、理想の世界は頭の中にしかないのか?


 この世には悪意があって、それがつらい。


 社会心理学、権威への服従


「そんなことはなんでもないんだ」という姿勢

 心のコントロール

 どうして攻撃するのか? 痛い。

 相手は攻撃しているつもりなんかないかもしれない。でも、痛みがあると、冷静でいられなくなったりする。


 もし神さまみたいなものがいたとして。

 はたして、それはどうなんだ?

 まるで迷路から出られない感じ


 労働は悪という考え方





哲学

自由意志は存在するか?


生き抜くための哲学が、まだ完成していない


哲学とは問を発することである。

ブレーキであるのか?


限定された世界


数学の偉大さ


懐疑主義とオカルト

実証科学(の証明とその現実での応用)


自分で考えることの重要性


哲学書を読むことが哲学ではない


だれかが考えたことを自分も考えている

それは、自分がえらいというわけでもなく、相手がえらくないというわけえもない。

ただ、同じようなことを考えるのだというだけの話だ


サンタクロースの実在性


神の存在論的証明





 ぼくが子どものころ、大きな四角い、石みたいな、謎の建造物があった。

 給水塔、の変種なのだろうか。

 子どもだったから、それが何かわからなかった。

 ただ、大きな、正方形の石が、坂道の横に置いてあって、ぼくたち子どもは、よくそこから下へ飛び降りたりしていた。

 あれ、何メートルくらいあったんだろう。

 二メートルはあったんじゃないかと思うけれど。

 なにぶん、子どもの記憶なので、はっきりとした距離感がわからない。

 ただ、そこから飛び降りるのが、なんとなく恐かったのを覚えている。

 あの、飛び降りるときの、ふわっとした感じ。

 おなかの底が冷えるような感触。

 ある程度の高さから飛び降りた経験がある人だったら、この感覚はわかるはずだ。

 でも、どうして人は、高いところから飛び降りようとするんだろう。

 馬鹿は高いところと火が好きだ、っていう言葉があったような気がする。

 もしそうなら、ぼくは馬鹿なんだろう。

 高いところも、火も好きだから。

 学校の成績は、いいんだけどな。

 そのあたりには、石の壁、今思えばアパートの壁があって、そこに絵を描いたりした。

 チョークとかクレヨンで、じゃない。

 そこいらにおっこちている石ころで、だ。

 そこらへんに落ちている石ころを使って、ぼくたちは、壁に絵を描いた。

 あのころ、世界は、滅茶苦茶広かった。

 ぼくたちの周りの世界、現実世界は、とても広くて、とても――なんだろう、なんというか、とてもリアルだった。

 うまくいえないけど、今のほうが、ずっと色がくすんでいる気がする。

 そのころのぼくは、頭の中で、空想しながら歩いていた。

 学校の行き帰り、空想しながら歩いていた。

 魔法が出てくる世界のこととか、ヒーローが出てくる世界のこととか、考えていた。

 頭の外だけじゃなくて、頭の中も、すごい広さがあった、ってことだ。

 それでも、孤独ではなかったのか、と聞かれたら、孤独はあった、と答えるべきだろう。

 そのころから、ぼくは世界から孤立していた。


 まず、一番最初に、ぼくが世界からずれていると思ったのは、こういうことがあったからだ。

 保育園に入ったとき。

 ぼくは、聞かれた。

「としは?」

 ぼくは、答えた。

「へびどしです」

 としを聞かれているのだから、へびどし。

 ねずみどし、うしどし、などの干支を、ぼくは知っていた。だから、へび。

 だけど、そこで思わず、笑いがこぼれたのだ。

 それは、全然悪意のあるものではなかっただろう。

 むしろ、かわいい、というたぐいのものだったのだろうと、今なら想像ができる。

 だけど、ぼくがそのとき思ったのは、何かを間違えたようだぞ、ということだった。

 あのときの違和感、疎外感というのは、あまり気持ちのいいものではなかった。

「なんさい?」

 そのあとに聞かれて、

「さんさいです」

 と答えた。

 そこまで、覚えている。

 赤色の、四角い、プラスチックの箱みたいなのがあって、その上で自己紹介をしたような気さえする。

 すくなくとも、その正方形の赤色のボックスがあったのは確かだ。

「としは?」という質問は、「なんさい?」、「いくつ?」といったことと同じ意味だったんだろう。

 でも、今考えても、子どもに干支を聞くときは、やっぱり「なにどし?」とか聞くと思うし、それを考えると、誤解を招きやすい言い方だったよな、と思う。

 それから、保育園では、指を左手に一本、右手に一本、合計二本出した先生が、

「これいくつ?」

 と聞いて、みんなが

「に!」

 という中で、ぼくだけが

「じゅういち!」

 と答えたのも覚えている。

 ぼくは、自分が間違っていたとは、今でも思っていない。


 世界から孤立しているというよりも、孤高だったのかもしれない。

 疎外されている、というのとは、少し違っていたように思う。

 まるで、ぼくの自然が、この世の自然と違うような感じ。

 ぼくは、小学校のとき、本を読んでいた。

 休み時間もだ。

 学級文庫、というものがあって、そこには本がたくさん詰まっていた。

 だれだって読んでよかったけれど、ぼく以外には、あまり読んでいなかった。

 みんなが休み時間ドッヂボールをする中で、ぼくだけが本を読む、なんてこともあった。

 基本的に、外でやる遊びは、好きじゃなかったから。

 ああ、それでも、かくれ鬼は好きだった。

 学校の中で走り回るから、外で遊ぶ、というものとは違うかもしれないけれど。

 それに、逃げているときは一人だから、やっぱりソロプレイが好きなのかもしれない。

 ぼくが逃げているときは、鬼の気持ちになって、逃げようとしていた。

 相手の心理を読む、みたいなことを考えていたのを覚えている。

 



 わたし、いじめられてるんだよね、たぶん



 学院の近くに、僕は小さな住宅をあてがわれて、そこに住んでいた。

 そこには、僕以外に、女の子がいる。

 だから、僕たちは二人で住んでいることになる。


 こうして二人ですんでいると、心ない人たちが、僕たちにセックスしてるの、なんて無神経なことを聞いてくるやつらがたまにいる。

 もちろん、こんなあからさまな言い方はしない。

「ほら、東海林さんと一緒に住んでいるんだろ? だとしたら、ほら、そういうことって起こったりするんじゃないの……」。

「年頃の男女が二人きりで住んでいるってことは、やっぱり、そういう仲なの?」。

「もうやった?」。

 クソみたいな連中だ。

 男と女がいたらセックスのことしか思いつけないのか?

 僕は、そういう人たちを殺してやりたい気持ちになる。

 しかし、そもそも、この世界は悪の宇宙であるのだから、こういうことが起こるのは、いわば必然といえる。


 この世は悪の宇宙である。

 この世界の創造主は悪である。

 なぜなら、この世界には悪があるから。

 この世界を創ったものが善であるならば、この世界は本質的に善であるはずだ。

 しかし、この世界を創ったものが悪であるならば、この世界は本質的に悪である。

 そして、僕は、この世界が本質的に悪であると感じる。

 強く、強く感じる。

 だから、僕は悪に立ち向かわなくてはならない。

 どんな犠牲をはらっても、正義を執行しなくてはならない。

 正義とは何か?

 僕にとっては、その質問の答えは、ぞっとするほどシンプルだ。

「弱きをたすけ、強きをくじく」のが正義。

「弱きをくじき、強きをたすける」のが悪だ。

 僕は、弱者の味方に立つ。

 それが、正義だから。


 僕は、ネックレスの先の十字架に祈る。

 この世界が、一刻も早く終わって、正しい世界がやってきますように、と。




「ヘレン・バーンズになりたかったんだ」

 百目木どめきくんは、そう言った。

 春の昼下がり、いっしょのふとんで横になりながら。

「でも、実際、僕は、セント・ジョンなのかもしれない」

「なんの話?」

「ジェーン・エア」

「イギリス文学?」

「そう」

 ジェーン・エア。

 シャーロット・ブロンテの手によるイギリスの小説だ。

「どんな話だっけ?」

「頭のいい主人公が、頭のいい男と恋に落ちて、いろいろありながらもハッピーエンドを迎える話、かな。僕が要約するならば。ほかの人が要約したら、別の話になると思う」

「うん」

 たぶん、恋愛小説として読める、ということはわかった。

 でも、小説の要約って、何か意味があるんだろうか?

 小説を要約すると、こぼれおちるものって、絶対にあると思う。

 どこを強調して話すかというのも、人によって違うだろうし。

 だから、要約を聞いても、その話のこと、実は全然わからないのかもしれない。

 もっとも、どんな話なのか、と最初に質問したのは、ぼくなのだから、えらそうなことは言えない。

「僕、嫌いなんだよな、セント・ジョン」

「そのキャラの事は知らないけど、なんで嫌いなの?」

「いやらしいやつなんだよ」

 いやらしいって、エッチってこと?

「どういう意味?」

「人間味がなくて、不愉快なんだ」

「ほう」

 おおざっぱな説明すぎて、ほうとしか言えない。

「冷たいんだよな、なにか」

「うん」

「自分の正義を貫くタイプでさ、最後にはインドに行っちゃうの。宣教師として。そんでそこで死ぬ。気候が合わずにね」

「悲惨だね」

「でも、宣教師っていい仕事だとは思えないぜ。だって、相手の文化を尊重してないだろう。文化破壊者だと思う」

「なるほど、確かに」

 キリスト教を広めることで、そこの土着の宗教文化が破壊される、という話は、どこかで読んだことがあった。

 文化人類学者などから、文化の多様性を破壊する、「植民地主義的」な行いだと批判されたりもしているらしい。

「それに、そいつには好きな人がいるんだけど、宣教師の妻としてふさわしくないから、その人とは結婚しないんだ。その人も、そいつのことが好きなのに」

「すさまじいね、それは」

「でしょ?」

「でも、すごく信念に忠実なんだね」

「でも、人間らしくないよ。読んでて、めちゃくちゃ不愉快だった。いやなやつが、この小説には何人か出てくるけど、一番不愉快かもしれない」

 そこで、百目木くんは一息つく。

「でも、同族嫌悪なのかもしれないんだよね」

 ここで、最初の話に戻るのだ。

 実際、僕は、セント・ジョンなのかもしれない。

「僕もクリスチャンでね」

「へえ、初耳」

「ま、親がクリスチャンだったから、僕も自然とそうなったわけだけど。僕の宗教解釈は、自分独自のものだから」

「それで、どこがセント・ジョンみたいなの?」

「神さまをいまいち信じられないんだよね、僕は」

 それって、クリスチャンっていえるのか?

「信じたいんだけどね。神さま。いるのかいないのか、よくわからない。いや、疑問を持つくらいのことは、誰でもあると思う。本当にいるのかな? でもきっといるよね、って。むしろ、自分の信仰に一度も疑問を抱いたことがない人間は、真の信者とはいえない、という言葉も聞いたことあるし」

「それで?」

「うん、それでね。神さまがいないときの、保険になりたいと、ぼくは思ったんだ」

「保険?」

「そう。もし神さまが本当にいるのなら、悪いことした人がいても、きっと地獄に叩き落としてくれるでしょう?」

「うん、たぶん」

「でも、神さまがいないなら、悪いことをした人がいても、地獄には落ちないわけじゃないか」

「そういうことになるね」

「でも、僕はそれがいやなんだ」

「つまり?」

「つまり、悪いやつを僕が殺せば、神さまがいないときの保険になると思ったんだよ。そうすれば、もし神さまがいなくても、悪には罰がくだることになる」

「でも、人を殺しちゃったら、本当に神さまがいた場合……」

「地獄に落ちるかもね。いや、きっと落ちるだろうな」

 ぼくは、神さまがいると信じているわけじゃない。

 神さまがいないと信じているわけでもない。

 わからないと思っている。

 だから、彼の話は、中途半端にしかわからなかったけれど。

「なんか、ちょっと悲しいね」

「ありがと」

 ぼくの言葉に、彼は少しだけ微笑んだように見えた。

 それから、すこしだけ時間がたってから、百目木くんは、また口を開いた。

「あのさ」

 少しだけ、声が震えている。

「僕、そういうわけで、悪い人を殺したこと、あるんだよね」

「ああ」

 きっと、この学校には、人を殺したことがある人も来ているのだろうとは思ってはいたが。

 実際に目にするのは、これがはじめてだった。

「何人か、人助けもした、つもりだ」

 そういえば、彼には、一緒に暮らしている女の子がいる、という話を、ぼくも聞いたことがあった。

 その子は、このことを、知っているのだろうか。

 もしかしたら、彼が助けたことのある人なのかもしれない。

 いや、それは、ぼくが踏み込んでいい領域じゃないかもしれないな。

「自分が正義だと、僕は今でも信じている―――」

 ぎゅ、と手をにぎられた。

「しかし―――」

 しかし、のあとの言葉を、ぼくは聞くことができない。

 何も、そこから言葉が出てこなかったから。

 話題を、彼が少しだけ変える。

「僕が、この添い寝倶楽部に来ていることは、彼女にも話してある」

「ああ、そうなんだ」

 彼女、というのは、一緒に暮らしているという女の子のことだろう。

 ここで一緒に寝るときは、顔写真と名前が公開されるので、恋人がいる人間は、まずもって利用できないようになっている。

 恋人と合意の上でない場合は利用できない。

 でも、それは、逆にいえば、合意があれば、利用できるということだ。

「でも、恋人ってわけじゃないよ」

「そっか」

「僕は悪いやつらを殺したし、それは間違っていないと信じている。でも、こういうところが、実にセント・ジョンらしいと思う」

 人間らしさが足りてない。

 百目木くんは、そう付けたした。

「前にさ、ゾフィー・リープクネヒトにあてた、ローザ・ルクセンブルクの手紙を読んだんだ」

「うん」

「そこにさ、インディアンを殺したアメリカ人たちに罰を与えたいという気持ちがある、って書いてあった。卑劣にだましうちのような形で殺したわけだし」

「うん」

「でも、もう彼らは死んでしまっているから、罰を与えることはできない、とも書いてあった」

「うん」

「僕も同じ気持ちだ」

「うん」

 ぼくも、彼の手をぎゅっと握る。

 そして沈黙が降りる。

 しばらくして、となりで身じろぎする気配がする。

 彼がおきあがっていた。

「ありがとう。なんか、少し、楽になった気がする」

 そして、そのまま、彼は出ていった。




原稿枚数は、ファンタジア文庫と同様の40字×16行で換算して200?250枚にしてください。

あらすじは同換算で5枚程度にまとめてください。ラストまで簡潔にまとめてください。

本編:80,000-160,000文字程度を目安にしてください。

あらすじ:1,600-3,200文字を目安にしてください。

※「文字数」は目安とし、「換算枚数」で合わせてください。


大阪 きつめの美人 恋心



おのおのの章の間に、テロリスト的な文章がはさまる。


1.諜報部にて

主人公の紹介。八反丸さんの紹介。デュパンの紹介。桜子の紹介。


2.異端の名称

変わった名前の女の子の話


3.混血種

ハーフの女の子の話


4.宗教的な人

宗教的な男の子の話。


5.一人称問題

デュパンと主人公の話。




神がいないときの保険






キルシェ・クラインは殺せない(テロリスト)


人は痛みを伝えることができる

あなたの痛みを口でいってもわからないやつらには、その体にあなたの痛みを思い知らせてやるがいい

死を与える力


宗教テロリスト、名前、ハーフ

テレパス、東海林さん(友情)





合唱コンクールのうらみ

サッカーみたいなむりやりさをやめて


小学校いじめ、事故、見捨てる

先生を見殺し、子供が泣いているのをみて悲しくなる


決着をつける

許す、忘れる、許すことも忘れることもできない自分を認める、復讐する



ギムナジウムと吸血鬼

狼、虎、変身物語

二人(僕ということを隠している女の子――探偵?)






 八反丸家は、宗教の教祖の家として、その名を知られている。

 そこ家系の娘である、僕、八反丸葉月は、宗教的な表舞台に立つことはないと思っていた。

 実際、長女とはいえ、分家の人間であり、そもそも、我が家が設立したあの宗教は、血統によって正当性が保たれる宗教ではない。


 そうか、この子は、女の子だけど、自分のことをぼくって、恥ずかしがらずに言えるんだ。





 春は狂った季節だ。

 自殺する人が、四季の中で、一番多いのは春らしい。

 さもありなん。

 春は、浮かれた気分で、なんだかいつもと違った感じになる。

 なんでもできてしまいそうな気分だ。

 自分を殺してしまうようなことさえ。

 他人を殺してしまうようなことさえ。

 ナイフ一本で世界は変わる。

 あなたは、ナイフ一本で世界を変えることができる。


  諜報部資料「優しいあなたのための殺人肯定論」より引用



 正義。

 テロリスト。


東海林晶とうかいりん・しょう

あだ名はしょうちゃん。桜子にしょうじ・あきらと誤読される。

身体能力は高い。本を読むのはけっこう好き。

無所属だが、フリーペーパー(ジン)を発行する、ジン同好会をやっている。

というのは表向きの姿で、実態は学生理事会直属の「諜報部」。

学生理事会に持ち込まれた案件で、表向きの調査や問題解決だけではどうにもなりそうにないものを扱う秘匿部署。

現在のメンバーは、晶と「デュパン」のみ。デュパンとは、ネットワーク上でしか話さないので、晶はその素顔を知らない。

一人称「ぼく」。物語のあとのほうまで、女性であることがあかされない。

語尾。中世的。「~だよ」「しかしさ」「~じゃない?」「~と思うよ」。親しみやすい。


八反丸葉月はったんまる・はづき

オーギュスト・デュパンと、電子探偵団のあの人がモデル。

八反丸学園の理事長の娘。成績優秀だが、運動は苦手。

学生理事会のメンバー。

正体は「デュパン」。

一人称「私」。でも、本当は「僕」。

語尾。「私」のときは、「そうね」「かしら」「だわ」「~して頂戴」など過度に女性的。(意図的にふるまっているため)

「僕」のときは、ネットワーク上では「ではないかね?」「だろうな」、現実では「じゃない?」「だろう」「思う」など基本的に短く切る。

あるいは「じゃないか?」「だろうね」「思うな」「君は~」インテリっぽい。



テロリスト予備軍

桜子。違うクラス。美術部で一緒。ジンにイラストを提供してくれるときも。

ペンネームは「キルシェ・クライン」(キルシェはさくらんぼ、クラインは小さい)

爆弾を作っている。絶望している。

インターネットで、アジテーション文書や理論書を執筆

最終的に、友だちになる

一人称「わたし」


異端の名称

変わった名前でつらい思いをしている

ギャルっぽい

一人称「あたし」


ハーフ

血が混じっていることでつらいことが

アラビアっぽい、中東の人

美人、知的、ひねくれている

一人称「わたし」、「し」の発音が「shi」に聞こえる。


宗教的な人

図書館で会う。

一人称「僕」。





「俺は、女好きなのかもしれない」

 添い寝倶楽部にその日、来たのは、


 女の子と話すのは、とても楽しいことが多い。

 もちろん、楽しくない人もいる。

 でも、男の子と話すのは、あまり楽しくないことが多い。

 もちろん、楽しい人もいる。

 全体的な傾向を言えば、女の子と話す方が、男の子と話すよりも楽しい。

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