前編 夢のあとさき
前編 夢のあとさき ~朝霧~
「は、放してください!」
「遊女が客に酒ぇ、つがねえ、とは、どういうことだ、ああ?」
部屋に男の怒号が響き渡る。男は、膳を運んできた娘の腕をつかみ、酌をしろ、とまくしたてる。
歳の頃は、まだ十もいかないであろうその娘は、男の要求にただ戸惑うばかりだ。
そんな二人の様子を見て、同席している男の仲間は、にやにやとした笑みを浮かべている。いい酒の肴、とでも思っているのだろう。
「どうしても、つがねぇってぇなら……」
「きゃっ!」
男の手が、娘の襟元をつかみ、開こうとしたときた。
「お侍様」
凛とした声が襖の奥から聞こえ、中から艶やかな着物をまとった女郎が進み出た。頭には金の簪が幾本も揺れ、紅が塗られた唇は、部屋の灯りに照らされて、妖艶な輝きを放っている。その美しさに、男達は、ほう、と一同にため息をついた。
女郎は、娘の胸ぐらをつかんでいる男の前でそっと畳に手をついた。
「この娘の無礼を、どうか許してはいただけませんでしょうか? この娘は女郎ではなく、禿という、わっち達女郎の身の回りを世話する者でござんす。作法もろくに知らず、何か粗相があってはいけないと思い、酌をためらったのでございましょう。まさか、立派なお侍様が、地味な身なりの禿と女郎を間違えるなんてことは、万に一つもないだろう、と、この娘も思ったでしょうから」
女郎がそう言って一瞥をくれると、男はばつが悪そうに口ごもった。女郎と禿の区別もつかないなんて、花街の遊びに不慣れであることを、自分で認めているようなものだ。
「勘弁してやってくれ、朝霧。俺達も今、止めようとしていたところだ」
「禿だとそいつも分かってはいたが、その娘が気に入ったんなら、横入れするのも野暮だと思ったもんだからよぉ」
男の連れ達も、しどろもどろに言い訳を始める。朝霧、と呼ばれる女郎は、そんな侍達に微笑んだ。
「さようでござんしたか。わっちも差し出がましいことを申しんした。もし、その娘がお気に召したのであれば、わっちが姐女郎としてしっかり作法を教え、立派な女郎として育てあげんす。ぜひとも、この娘の水揚げに名乗り出てくださいまし」
そう言い終わると、この座敷の女郎が、
「遅れて申し訳ござんせーん」
と、場に入るなり、いそいそと男達に酌を始めた。その女郎が目配せするのを見て、朝霧は、娘の手を引きながら襖を開け、廊下に出た。その背中を、先ほどの男達が、名残惜しそうに見つめていた。
朝霧は、禿のやよいを落ち着かせ、自分の座敷への酒の追加を頼んだ。そして、去るやよいを見送ってから、先に座敷に戻ることにした。
それにして、と朝霧は思う。先ほどのことは、元々はあの座敷に付いている同期の女郎の禿がやるはずの仕事だったのだ。今度会ったら、文句の一つも言ってやらねば、と憤りながら、廊下を進む。自分の座敷の襖の手前で、気持ちを切り替え、笑顔をつくり、目の前のそれをすっと引いた。
「大野屋さん、お待たせしてすみませんでした」
朝霧が丁寧に詫びると、部屋の中央にいた初老の男は、ははは、と笑い返した。
「いや、芸妓の三味線を聞いたり、この男とゆっくり商いの話もしていたから、あっという間だったよ」
「大野屋」は、朝霧の常連客だ。町で反物を商っている大店の旦那である。気のいい人で、「自分はそんな歳じゃないし、酒を飲みに来ているだけだから」と床入りはしないが、その分の上がりをつけてくれる。そのため、大野屋の後に客を取らなくて済むので、朝霧はゆっくり体を休ませることが出来るのだ。また、町のことなど楽しい話を聞かせてくれるので、大野屋と過ごす時間は楽しみだった。その大野屋の隣に、見慣れぬ若い男が座していた。歳は、朝霧より年上かもしれない。
「高遠佐助だ。異国人相手に鉄砲の買い付けなどをしておる。長崎で知り合った。商談でこちらに来るというから、江戸美人を見せたくて、吉原に誘ったんだ。なぁ?」
「そんな美人だなんて言われたら、照れてしまいんす」
「いやいや、朝霧のことは初見世の道中の頃から見ているが、本当に美しくなったよ。自分にも娘がいたら、朝霧くらいの歳かと、想像してしまった。どうだ、佐助、吉原一の美人を目にした感想は?」
酒が入っているからだろうか、吉原一の美人だなんて、大げさな物言いに、朝霧が再び謙遜しようとしたときだ。
「美しい……」
佐助が、初めて口をきいた。佐助はぽかんとした表情から一転、頬を紅潮させ、朝霧をじっと見つめている。そして、その両手を突然、ぎゅっと握った。
「佐助様?」
驚いている朝霧に、佐助は畳みかけるように言った。
「あ、朝霧殿! お願いだ! どうか私の妻になっていただきたい!」
その言葉に、今度は朝霧と大野屋が、ぽかんと口を開ける番であった。
「ここに来てはいけないと、オババ様にきつく言われているでしょう」
離れにある烏屋の、襖を開け、入ってきた朝霧に、床に伏せている女は、言葉とは裏腹に薄く笑った。
「大丈夫よ。君菊姐さんの病気は、うつるものではないわ」
「そうは言うけど、この見世一番の看板女郎に何かあったら、わっちがオババ様に怒られるわ」
朝霧よりも二、三年上のその女は、布団からゆっくり半身を起こした。朝霧は、近づいてそれを支える。
「起きて大丈夫なの?」
「ええ。今日は、なんだか気分がいいの。あの噂のせいかしら?」
「噂?」
「あなたに『間夫』が出来た、という噂よ」
ああ、と、朝霧は苦笑した。
同期の時雨に話したのが、そもそもの間違いだった。あの夜の文句を言おうとしたら、「座敷に来る途中、あんたの座敷にいた、あの若い男は誰?」と根堀り葉堀り聞かれ、うっかり口を滑らせてしまったのだ。そうしたら、一日も経たないうちに、見世中の話題になってしまった。あのあと、女郎達の管理をする、通称オババ様にも呼び出されて、面倒なことになったのは、言うまでもない。
「でも、いい話じゃない。ここを出られるかもしれないんでしょ?」
「まさか。姐さんだって知ってるでしょう? 見世で人気のある女郎を身請けするのに、銭がどれだけ要りようになるか……」
朝霧を身請けしたい、という男は、今日まで何人もいた。しかし、大抵は酒の席だけの話だったり、布団の中だけの話で、実際に身請けを買って出てくる者はいなかった。もしいたとしても、身請けの金額に愕然とすることだろう。朝霧を身請けする銭があるならば、吉原に出入りする町民や侍は、一生遊んで暮らせるだろう。
「ねぇ、朝霧」」
「なぁに、姐さん」
「朝霧に出会う少し前にね、わっちにも身請けの話があったんだ」
「え?」
驚いた。この見世に入って四年もの付き合いになるが、本人からもまわりからも、そのような話は朝霧は聞いたことがなかった。
「お侍さんでね、初めて会って話をしたときから、不思議と気が合っていた。優しくて、自分の言い分や考えがはっきりしていて、とても素敵な旦那だった。気づくと、わっちはあの人に惚れてたの。毎晩、あの人が現れないかと、その姿を張り見世の中から探していたし、他の人に抱かれても、あの人のことが頭から離れなかった。ある日、勇気を出して、想いを伝えたの。そうしたら、あの人も同じ気持ちだ、て。嬉しかった。『必ず身請けして、妻にするから、待っていて欲しい』て言われた。だからわっちは、ずっとずっと待ち続けた。けれど、そんなときは結局訪れなかった」
「どうして?」
「あの人は、約束をした日から、見世に来なくなってしまった。正確にはきっと、“来られなかった”んだと思う。後から、見世に来た仲間の侍に、流行り病で亡くなったと聞いたから」
「そんな……」
「“どんなに恋焦がれても、この世では結ばれない縁というものがある”のよ。けどね朝霧、わっちの身請け話は、こんなかたちで終わってしまったけれど、朝霧にもし、いい人が出来て、うまくいったら、わっちの分まで幸せになって欲しいの」
「君菊姐さん……」
姐女郎の笑顔の奥に、深い悲しみを朝霧は見た。
あの日から、自分の幸せなんて、とうにあきらめていた。
朝霧の生まれた家庭は、決して裕福ではなかったが、父も母も優しかった。たった一人の妹は、いつも自分の行くところにくっついてくるほど、自分を慕ってくれていた。しかし、母が流行り病で病死した途端、すべてが変わってしまった。父は、母を失った喪失感から働くことをやめた。そして、自分の食いぶちのために、姉妹を女衒に売りとばしたのだ。
吉原の大門をくぐったとき、朝霧は、妹とは引き離された。妹は泣き叫んだが、男は構わず妹の服の襟をつかんで、引きずるように連れていった。もう一人の男は、朝霧の腕をつかんで、大門から少し歩いた建物の中に入った。
「どうです、なかなかの上ものでございましょう?」
男は、猫なで声で、初老の女性に朝霧をすすめた。じろじろと見られて、朝霧は身がすくむ思いだった。すぐにでもここから飛び出して、妹を探したかった。
「いいだろう、うちでもらうよ」
初老の女性が、表情の読めない顔でそういうと、そばにいた下男が、金の入った袋を渡した。男はそれを受け取ると、そそくさと建物を後にした。
「お願いします! あたしはどうなっても構いません! 妹だけは! 大門で別れた妹だけは、自由にしてあげて欲しいのです! お願いします!」
朝霧はひざをついて懇願した。この女性なら、男達よりかは情けをかけて、自分の話を聞いてくれるかもしれない、と、そう思ったのだ。しかし、すぐに、自分の考えが甘かったことを思い知る。初老の女性は、朝霧の体を思い切り蹴り飛ばした。
「馬鹿なこと言うんじゃないよ! 誰が、売られたお前の頼みなんか聞くか! いいかい! ここでは、お前に自由なんかないんだ! お前は私達の道具だ。遊女になって、客をとって、たんと稼いでもらうからね。ここから逃げ出して、妹を探そうなんて思うんじゃないよ。そんなことをしたら、死ぬほどキツイ折檻をしてやるから、覚悟しておくんだね!」
オババ様と後に呼ぶことになる女性が、そう言い終わると、朝霧は、下男に禿が寝起きする場所に連れていかれた。
朝霧はただ、まわりに言われるままに禿として必死に働いた。妹を探しに行きたかったが、逃げ出す隙もなく、何より折檻が怖かった。下手をしたら、殺されるかもしれない。目の前のことに追われていれば、いろいろなことを考えずに済んだ。しかし、仕事が終わり、床に入る前、ふと頭によぎる。自分はこれからどうなってしまうのだろうか。妹は今どこで何をしているのだろう。父は元気なのか。なぜ、自分たちを女衒などに売りとばしたりしたのか。そんなことが、頭のまわりをぐるぐる回って、疲れているはずなのに、なかなか寝付けない。まわりの禿の娘も、同じようなことを思っているのか、布団の間から、すすり泣く声が聞こえる。娘たちの涙が乾く間もなく、空は徐々に白んでいく。
朝霧はしばらくして、君菊付の新造になった。努力のかいあってか、朝霧はみるみる昇格し、女郎になるまで二年とかからなかった。その後、君菊が病に倒れ、朝霧は皮肉なことに、この見世の格付け一番の女郎となった。きっとこのままここで、自分は、君菊のように病に倒れるか、年をとってお役御免となるまで、この吉原の中で生きていくのだ。そう悟っていた。
きっとあの男も、身請けの話など、酔いが冷めた途端にすっかり忘れているだろう。自分も、知らぬ存ぜぬで通せばよい。今後この見世にすら来ないかもしれないし。
しかし、問題の男は、あの夜の二日後にまた現れた。
「こんばんは、朝霧殿。ちょっと接待で座敷を使わせていただきますね」
笑顔の佐助とは裏腹に、 朝霧は、座敷に入ってぎょっとした。座敷には、佐助の他に異国人が三人いて、芸妓の三味線の音に聞き入っている。異国人の言葉なんて、朝霧には分らないし、どう接すればいいのかもわからない。
「姐さん、佐助様からこんな素敵なお菓子をいただきんした!」
膳を運んできたやよいが、両手に持っていた包み紙の中身を見せてくれた。中には様々な細工が施された、色彩豊かな有平糖が入っている。食べるのがもったいなーい、と、珍しく大はしゃぎだ。
「禿のやよいに、高価な南蛮菓子をいただき、ありがとうございんす」と、朝霧は佐助に丁寧に礼をした。
「いえ、喜んでいただけて嬉しいです。自分にも妹がおりますが、幼い頃の妹とやよいさんが、よく似ているんです」
そう言った佐助は、異国人達の方に向き直り、異国の言葉で朝霧を紹介した。朝霧も丁寧にお辞儀した。その後も、佐助が通訳をしてくれたので、酒宴は滞りなく進んだ。
異国人達が帰った後も、佐助は朝霧と座敷に残っていた。やよいも気を利かせたつもりなのか、その後も座敷に帰っては来なかった。
「驚かせてしまって、すまなかった。江戸でいい接待の場所が、ここしか思い当たらなかったもので」
「いえ、わっちも最初は異国人相手なんて、出来るのかと思いんしたが、佐助様がいてくださったおかげで、うまくいきんした。ありがとうございんす」
照れたように頬をかく佐助を見て、朝霧はふと思い出したことを口にした。
「そういえば、先ほどわっちを紹介してくださったときに、異国の言葉で何かおっしゃっていたような気がいたしんしたが、あれは何をおっしゃってたのでありんすか?」
“アサギリ”と、佐助が口にした後、何か一言付け加えたのだ。異国人達が一層笑顔になったのが、朝霧は強く印象に残っていた。佐助に対して、茶化すような仕草をした者もいた。
「ああ、あれは……」
佐助は、さらに頭をガリガリと掻いて、頬を紅潮させ、ぼそぼそと答えた。
「『この人は、私の妻になる人です』と……」
その言葉に、今度は朝霧が目を見張った。
「あの話は、本気だったんでありんすか?」
「無論本気だ。本気で、そなたを妻にしたいと、考えている。今日だって、本当は、そなたに会いたかったから……」
と、言葉がしぼんでいくのと同時に、佐助の顔がさらに赤くなっていく。そんな彼の言葉に、朝霧の胸にも、ろうそくが灯ったような温かさを感じたが、またすぐ冷たい影が差す。
「しかし佐助様、わっちを妻にしたいとお考えなら、身請けをしてもらわねばなりません。この身請け金がえらく高うござんす。そう簡単にはご用意出来ぬ金額でござんす」
「ああ、存じている」
意外なほど、あっさりとした返答だった。
「しばし江戸に滞在した後、私は再び長崎に帰ります。そこで、西洋の銃の買い付けの仕事があります。藩の殿様から任された大事なお勤めです。支払われる対価も相当なものです。もちろん、この仕事の一回の給金だけでは、あなたを自由には出来ません」
佐助は、朝霧の両手を、あのときと同じように、そっと自分の手で包み込んだ。
「一年待ってください。それだけあれば、必ずあなたを自由に出来ます。それまで、私を信じて待ってはいただけませんか?」
朝霧は、熱意のこもった佐助の視線を受け止め、気づくと首を縦に振っていた。
江戸に滞在している間、三、四日おきに、佐助は見世にやってきた。
「頻繁に見世に来て、わっちを身請けする銭がなくなってしまいんすよ?」
ある夜、朝霧が苦笑して、意地悪気に尋ねると、佐助は首をすくめてみせた。
「あなたを身請けするお金は、ちゃんと貯めています。けれど、お金であなたの身は自由に出来ても、お金であなたの心まで買おうとは思っていないんです。私は、あなたを妻にしたい。私を夫として認めてもらえるように、出来る限り会って話して、心を通わせたいんです」
佐助と過ごす時間は、とても楽しかった。出島で聞いた、異国やそこで暮らす人々の話、長崎までの道中の話を、朝霧とやよいしてくれた。吉原から出られず、江戸市中のことですら、耳にいれるのは難しい朝霧達にとって、佐助の話は新鮮で驚くことばかりであった。
佐助は、とっくに朝霧の「馴染み」になっていたが、床入りはせず、そのまま長崎へと帰っていった。
「夫婦になりたいと願うのに、なぜわっちを抱かないんだろう?」
窓辺に座り、朝霧は外の通りを呆然と見下ろし、ふとため息と一緒にそんな言葉を吐いた。外は雨が降っているようで、傘の花が咲き、人々が行き交うたびに揺れる。もうすぐ昼見世の時間だ。
「男を手玉にとる、看板女郎の朝霧が、何男心が分からないこと言ってんだい」
横から、同期の時雨があきれたような声で言った。
「ここは、偽りの恋を楽しむ吉原だよ。こんなところであんたを抱いたら、あんたの『偽りの恋人達』と一緒じゃないか。佐助様は、あんたがここで商売している限りは、抱かないと思うよ。男は『けじめ』にこだわるからね。ちゃんと身請けして、自分のものにしてから……とか、考えてんじゃないかね」
「自分のもの」という言葉に、胸が高鳴る。当たり前のことだが、身請けをされたら、自分は佐助の妻になるのだ。もう毎晩他の男と恋人ごっこを演じずに、佐助だけを見ていられる。佐助のあどけない笑顔。「朝霧」と自分を呼ぶ優しい声。時おり自分に向ける、熱のこもった視線。思い出すだけで、顔が熱くなる。
「何さ、ニヤニヤしちゃって。これだから間夫持ちは」
「時雨はいないの? そういう人」
「い……なくはない……けど」
「え? いるの?」
男に媚びたりなんてしないから、そんな浮いた話が出てくるのは、とても意外だった。そんな時雨の心を射止めた男はどんな人なのか、と問いただそうとしたときだ。
廊下をばたばたと行き交う男達の足音が聞こえてきた。
「何かあったね」
時雨が厳しい視線を廊下に向けると、その先からすぐにやよいがこちらに走ってきた。
「朝霧姐さん!」
「どうしたの、やよい? 何があったの?」
「君菊姐さまが! 君菊姐さまが死にそうなの!」
朝霧は廊下を走り出した。
「やめときな! 行ったって何も出来ゃしないよ!」
後ろから時雨の声が追いかけてきたけれど、朝霧は振り返らなかった。ただ、君菊のいる烏屋を目指して、走った。
烏屋の君菊の部屋の前には男が一人、立っているだけだった。
「朝霧! 何しに来た? さっさと見世戻れ!」
そういって男は、部屋に入ろうとする朝霧を押しとどめる。
「医者は? お医者は呼んでいるの?」
「医者なんか呼べるわけねぇだろう。見世に出ない女郎に、金をかける余裕なんて、この見世にはないんだ。それに、もう手遅れだ。他の連中は、君菊が死んだ後のことを話しに行ったのさ。お歯黒どぶ行きか、投げ込み寺か……」
「そんな、むごい……」
どんなに見世のために稼いだ看板女郎でも、病に倒れ、治る見込みのない者は、離れの烏屋に押し込まれ、薬もお医者の手当ても施されず、死んでも葬式すらあげてもらえない。見世にとって、使えなくなった道具は、ただ捨てるだけ。あまりにもむごい。しかし、それがまかり通るのが、この吉原なのだ。
「……あさ……ぎり……」
部屋の奥から、弱々しい声が聞こえた。男がその声に一瞬気をとられた隙に、朝霧は男を押しのけて部屋の襖を開け放った。
そこには、一式敷かれた布団から這い出す、君菊の姿があった。ほんの数日前までは、頬も唇も淡い紅色をしていたはずなのに、頬は白くこけ、唇は紫色をしていた。部屋に残っていた生の息吹は掻き消え、死のにおいが満ちている。それを感じ取り、朝霧は部屋の入り口で立ちすくむ。
「……あさ、ぎり……」
最期の力を振り絞るように、這ってきた君菊は、すがるように朝霧の足首をつかんだ。
「ひっ……」
君菊の手は冷たく、まるで氷のようであった。
「……あさぎり、わっちは……死ぬ……の?」
君菊はうつろな目で見上げ、朝霧に問うた。朝霧は、心を奮い立たせ、君菊の両腕をつかんだ。
「しっかりして、姐さん! 姐さんは死なん! 今お医者を呼んでるから、すぐによくなるから、もう少しの辛抱だから!」
嘘を交えなければ、君菊を励ます言葉が見つからない。朝霧は情けなくて、涙がこぼれそうであった。
「あさぎり……、“さぶろう”さん、どこ……?」
「“さぶろう”?」
聞いたことのない男の名に戸惑っていると、後ろに立っていた男が、君菊の身請けを名乗り出た男の名だ、と教えてくれた。病に倒れて、その話はなくなったが、と付け加えられた。
「……さぶろうさん……、なんで……わっちを迎えにきてくれんのやろう? ずっと……ずっと、待っておりんすに……」
「姐さん! しっかりして! “さぶろう”さんは、もうとっくに死んでるんよ!」
「……いや……死んでなどおらん。身請けしてくれると……、妻にしてくれると……約束してくれた。だから、わっちは、それを信じて、他の男達に……。いつか、ここから、あの人が出してくれると……しんじ……て……」
「もう、姐さん、しゃべらんでいいから! 体に障るから、布団に戻ろう」
朝霧が君菊の体を支え、腰を上げたときだ。
「……あさぎり、あんたが“さぶろう”さんを取ったん?」
「え?」
思いがけない言葉に、体が固まる。そんなこと、あるはずがない。“さぶろう”が病に倒れたのは、朝霧が吉原に売られて来る前の話だ。出会うことすら、不可能だ。それなのに、君菊は、朝霧の床着の襟を思い切りつかんだ。君菊の血走った瞳が、間近になる。
「……あんたが、“さぶろう”さんを、私から取り上げた!“さぶろう”さんに、身請けしてもらって、一人だけここから抜けだそうとしてるんでしょ?」
「違っ! 姐さん、苦し」
呆然と二人の様子を見ていた男が、ようやく二人の間に入り、朝霧を君菊から解放した。気道を確保した朝霧が、激しくせきこむ。
「朝霧! 外出てろ!」
男は朝霧の腕をつかんで部屋へと追い出し、襖をぴしゃりとしめた。おめぇもいいかげんにしねぇか!という怒鳴り声と平手を打ちつける乾いた音がした。
「いやっ! いやだっ! どうして、あんただけ! わっちだって……、わっちだって幸せになりたかった! 愛しい人と添い遂げたかった! このまま死ぬのはいやっ! 死にたくないっ! どうして……わっちは、わっちは……」
朝霧は、それを重苦しい気持ちで襖の外で聞いていた。
君菊が死ぬまで、それから半刻と経たなかった。事切れる寸前まで、「どうして」と「“さぶろう”さん」を繰り返していた。
「どうした? 朝霧。久しぶりに会うというのに、ずいぶん疲れた顔をしている。具合でも悪いのか?」
「いえ、そんなことは……」
朝霧は、佐助に曖昧な笑みを返した。
君菊が亡くなった二日後、長崎から帰ってきた佐助が見世にやってきた。いつもなら、嬉しくて心が弾むのに、あんなことがあったあとでは、どんな顔をして佐助と接したらよいのか分からない。
「本当か? 目元の白粉からくまが透けて見える。しばらくまともに寝ていないのであろう。何があった?」
「……」
朝霧が答えないので、入口近くに控えているやよいに佐助は目を向ける。
「えっと……、わっちの口からはなんとも……」
と、やよいももごもごと返す。
佐助がふっとため息をつくと、
「お、そうだ! 今日は、いいものを土産に持ってきたんだ!」
と、座敷に漂う空気を一変させるような明るい声で、脇に置いておいた大きな包みを開いてみせた。
「二人が喜んでくれるといいのだが……」
やよいも、包みの中身を見ようと、佐助のそばに近寄る。そして、中身を見て、目を輝かせた。
「わぁ、文鳥だ!」
大きな包みの中身は、半円形の鳥かごであった。中には、白い小鳥が一羽いて、止まり木で羽を休めている。
「かわいい! 佐助様、これどうしたの?」
やよいが感嘆の声をあげる。
「長崎で知人に譲ってもらったんだ。やよいは気に入ったかい?」
「はい、とても!」
「朝霧は?」
佐助に問われ、朝霧はいつも通りの笑みを作って、
「こんな素敵なものを、ありがとうござんす」
と、礼を言った。そんな朝霧を見て、佐助はふと真面目な顔になり、
「やよい、朝霧と二人きりにしてはくれないだろうか?」と申し出た。
「え、でも、床入れの時間にはまだ早いでござんす。姐さんだって、顔色がすぐれないし、もうちょっと文鳥見ていたいし」
「朝霧のことは私に任せてくれれば大丈夫だ。文鳥は二人への贈り物だから、いつでも見られるだろ? ほら、これもやるから」
困り顔のやよいに、佐助は上着の懐から、今度は小さな包みを取り出した。中から、南蛮菓子のかすてぃーらが黄色い顔をのぞかせた。やよいは、再び目を輝かせたあと、口をとがらせて、
「わっちは、決してお菓子につられたわけではないのでありんす。恋仲の二人のために、野暮天になりたくないから、部屋を出るのでありんすよ」
と、言い訳をしつつ、かすてぃーらの包みをとって、座敷を出て行った。
やよいが出ていくと、途端に静かになった。佐助は、朝霧の言葉を待っているようだった。しかし、朝霧も何をどう切り出せばいいのか分からず、言い淀む。沈黙が重い。
「身請け金」
佐助が、ぽつりと沈黙を破った。
「今度の、長崎での仕事で貯まりそうだ。そうしたら、やっとあなたを妻に娶ることが出来る」
「そのお話ですが」
朝霧はようやく口を開くと、畳に手をつき、佐助に頭を下げた。
「誠に勝手ながら、お断りさせていたしんす」
再び沈黙が下りた。顔をあげると、佐助の強いまなざしがあった。
「私のことが嫌いになったか?」
「そんなこと、ありんせん」
「なら、なぜ? まさか、この吉原に残りたいと思っているわけではないだろう?」
「……」
「私は、あなたに求婚したのだ。納得のいく理由がなければ、引き下がるわけにはいかない」
朝霧は、何度か言い澱んでから、吐息のような言葉を吐き出した。
「……わっちは、幸せになってはいけないのでありんす」
「幸せになってはいけない?」
「あい。わっちは、この吉原に来てから、幾人もの旦那に体を開いて参りんした。こんなわっちなんて、佐助様の妻になどふさわしくありんせん」
「私は、それを承知して、それでもあなたを妻にしたいと考えています」
「佐助様はよくても、佐助様の家族は、女郎の、汚いわっちを受け入れてくれるはずない」
「親は、二人とも、病で亡くなった。妹は遠方に嫁に行き、私は家に一人。気づかいなど無用」
「……けど」
「朝霧!」
佐助のいつもと違う強い声音に、朝霧はびくっと体をこわばらせた。
「あ、すまない。怒っているわけではないんだ。ただ、本当のことが知りたい。朝霧の心が知りたいのだ」
「……」
限界だった。朝霧は、引き結んだ紅をひいた唇から、押し込めていた言葉達がもれる。それと同時に、瞳から涙が溢れた。
「……姐さんが、亡くなりんした」
「姐さん?」
朝霧は、首を縦に振った。
「この吉原にきて、様々なことを教わった、世話になった姐さんでした。強くて、優しくて、仲間思いの素敵な花魁でした。わっちは、そんな姐さんを、心の底から慕っておりんした。姐さんが、わっちと出会う前に、惚れた旦那との身請け話があったことを、わっちは半年ほど前に知りんした。けどその話は、身請けしてくださることになっていた旦那様が亡くなったことで、破談に――。姐さんは、深く悲しみ、傷ついておられたのに、それを隠して、気丈に振る舞っておりんした。けれど、亡くなる間際に、苦しみながら、わっちにこう言いんした。『どうして、あんただけ』と。『わっちだって、幸せになりたかったのに』と」
「朝霧は、その姐さんとやらを、憎く思うたのか?」
悲痛な面持ちで聞いていた佐助の問いに、朝霧は涙ながらに首を振った。
「ただ情けなくて……。ずっと一緒におりんしたのに、なんで姐さんの苦しみに気づいてあげられなかったのだろう、と。わっちは、姐さんの見舞いに行くたびに、佐助様とのことをお話しておりんした。『自分の分まで幸せになってほしい』と、そのときは言ってくれたからでありんす。けれど、内心は、わっちを憎んで、恨んでいたのではないかと。姐さんの心の傷を深く、えぐっていたのではないかと思うと、申し訳なくて、情けなくて……。わっちは、姐さんを死ぬ間際まで悲しませたわっちは、もう佐助様と幸せになることなんて出来ないのでありんす」
座敷に、朝霧の嗚咽がもれる。佐助は、そんな朝霧を優しく抱き留め、何も言わずに、その背中を優しくさすってくれた。その手は、着物越しにも伝わるほど、温かかった。佐助の熱がじんわりと胸の中を温め、また涙をこぼす。
「本当は怖い。幸せになるのが」
朝霧はひとしきり泣いた後、佐助の胸の中でぽつりとつぶやいた。
「ほとんどの女郎は、身請けなんてされず、客をとって体を売りながら、年季明けを待つ。きっとこの見世にいる女郎たちも、やよいも……。君菊の姐さんですら、結局身請けはかなわなかった。わっち一人が、幸せになっていいのか? 幸せになどなれるのか? 身請けなど結局かなわなくなって、わっちもいまわの際に恨みつらみを重ねて、もだえ苦しみながら死んでいくのではないかと、考えると、恐ろしくて眠れないのでありんす」
「幸せになるのが、恐ろしい、か……」
ため息のように佐助がつぶやくと、朝霧から体を離し、そばに置いておいた鳥かごをもって、座敷の窓に近寄った。
「佐助様? 何を」
朝霧が尋ねるが早いか、佐助は鳥かごの中の文鳥を、自分の手にのせ、その手を窓の外の空へ高々と掲げた。文鳥はぴぃっ、と一鳴きすると、闇色の空へと羽を広げ、飛び去ってしまった。
「よ、よろしいのですか? やよいが悲しみます」
「いいんです。やよいには悪いけど、やっぱり鳥は空が、自由が似合います」
戸惑いの色を隠せない朝霧に対して、佐助は晴れ晴れとした笑顔を見せた。
「どこかで聞いたことがあります。たとえ鳥かごのように、自分の自由を奪う場所であっても、そこにいるのに慣れてしまうと、新しい場所へ踏み出すのが怖くて、不自由な場所に居続けてしまう、と。新しい場所が、自分にとって自由で、今より幸せになれる場所であっても……」
佐助は、再び朝霧の両手を握った。今度は、決意に満ちた力強い手だった。
「大丈夫! あの文鳥を見たでしょう? あんなに軽々と羽を広げ、自由な空に飛び立つことが出来たんです。あなただって、私がきっと自由にして差し上げます。幸せにしますから! 私は、生まれてから無駄に体が頑丈で、病気一つしたことはありませんし。そうそうくたばらないと思います。ただ……」
「ただ?」
佐助はいつものように、頬をかいて、
「あなたの身請け金で、懐のお金がほとんどなくなってしまうので、婚姻の式をあげることは出来ません。しばらく貧乏暮らしになるかと思いますが、それでもいいですか?」
と、苦笑した。
朝霧はぽかんとしたあと、ぷっ、と吹き出して笑った。ひとしきり笑ったあと、嫁入り前の娘がするように、手をついて、
「ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いいたしんす」
と、頭を下げた。佐助も一緒に、頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
頭をあげると、お互い目があった。そこでまた、二人で吹き出し、座敷に笑いの花が咲いた。
ああ、この人が好きだ、と朝霧は思った。この人を信じよう。怖いと立ち止まってしまっても、この人がきっとこれからも、こうやって手をひいて、自分を引っ張ってくれる。並んで歩いてくれるだろう。君菊姐さん、ごめんね。姐さんが辛い思いした分、幸せになるね……。
佐助は、今夜も床入りの時刻になる前に帰るというので、朝霧も見送りのため、吉原大門まで手をつないで、並んで歩いた。
「明日には長崎に帰って、お勤めを果たして、そうだなぁ……ひと月以内には江戸に帰って来れるだろう。そうしたら、ここに来て、身請けの手続きをするから。それまで辛抱しておくれ」
「あい。佐助様こそ道中お気をつけて」
「はい。長いけど、いつものことですから」
二人は、また顔を見合わせて、ふふっ、と笑い合う。
楽しい時間は、あっというまに過ぎていく。気がつくと、もう大門の前まで来ていた。
「結局一回も床入りしてくれませんでしたね」
朝霧が寂しそうにつぶやくと、佐助はつないでいない方の手で頭をかいた。
「ここではちょっと……。したかったですか?」
今度は朝霧が頬を染め、すねたようにうつむいた。その姿は、物をねだる子どものようであった。
突然、朝霧は手を引かれた。大門の手前の通りを曲がり、見世の提灯の灯りが遠のいていく。見世の建物の暗がりで、二人は唇を重ねた。
「……っ」
いつもの優しい佐助のものとは思えぬほど、激しく、朝霧を求める接吻だった。朝霧は、荒く息をつく。
「佐助様、苦し……っ」
ようやく佐助は、朝霧から唇を離す。熱を帯びた、うるんだ瞳で互いを見つめ合う。佐助は、愛おしそうに朝霧を抱きしめた。
「本当は、今すぐにでも、あなたをここから連れ出したい。あなたの肌を、他の男になどさらしてほしくない」
「わっちも、もう佐助様以外の旦那に、触れられたくない」
「必ず迎えにくるから、待っていてください」
佐助の肩に顔をのせたまま、朝霧はこくりとうなずいた。
朝霧は、佐助が来るのを待った。客をとり、男に肌をさらす日々は過ぎていくが、ひと月後に佐助の妻になることを考えたら耐えられた。しかし、その約束のひと月を過ぎても、佐助は姿を見せなかった。仕事が遅れているのだろうか、と考えて、悶々とひとり待ったが、文の一つもなく、そのまま三月が経った。
「すっかりご無沙汰してしまったねぇ」
と、久々に大野屋が朝霧の座敷に現れた。佐助と一緒に座敷にあがった後、何回か一人で来てくれたが、今回は半年ぶりに会う。
「たまのお越しですから、ゆっくりくつろいでいってくださいね」
朝霧も気心の知れた大野屋の来訪に、しばらくぶりに顔がほころぶ。
最近の朝霧は、焦がれる佐助を待ち続けるあまり、夜もなかなか眠れず、食事も喉を通らない。目がくぼみ、頬がややこけ、さらにやせてしまった。仲間内では「間夫に騙されたんだ」「忘れたほうがいい」と言われ、最初は反論していた朝霧も、最近は曖昧に返事をするだけだった。
「ずいぶん疲れているようだねぇ」
と、大野屋も朝霧の変化に気づいて、心配そうなまなざしを向けた。
「いえ」
朝霧は、やはり曖昧にはにかむしかなかった。
大野屋は神妙な顔をして、おちょこに入った酒をちびちび黙って飲んだ。
「実は数日前まで、俺は長崎に仕事に行ってたんだ」
長崎、と聞いて、ドキリとした。佐助も長崎に仕事に行く、と聞いていたからだ。
「反物の商い市があってな、いい品が高値で売れた。でな、そこで知り合った地元の商人に、聞いたんだ」
大野屋は、座敷の畳に目をふせた。
「高遠佐助が、死んだ、て」
朝霧は耳を疑った。死んだ? 佐助様が? 人違いではないのか?
「佐助殿の仕事は、薩摩・長州の倒幕運動ために、西洋銃を異国人から調達する仕事を請け負っていたんだ。異国語の通訳も出来たし、藩の殿様からの信頼も厚かった。しかし、その分幕府側の人間に目をつけられていた。長崎での仕事が終わり、江戸に帰る途中で、何者かに斬り殺されたらしい。二月以上も前のことだ」
頭が真っ白になった。
「あいつと身請けの話があったことは聞いている。けれど、朝霧、すまねぇな。佐助殿を紹介しておいて勝手だが、こういうわけだ。堪忍してくれ」
朝霧は、大野屋が頭を下げるのを、呆然と見下ろすしかなかった。
佐助が死んだ、と聞いてから、お天道様は何回のぼって、夜の帳は何回下りただろう。何人の男に抱かれたであろう。
朝霧は、自分が何日過ごしたのかも分からないまま、ただ淡々と日々を過ごしていた。見世に出れば、いつもの作り笑いを浮かべ、テキパキと仕事をこなしていた。けれど、見世に出ていないときは、仲間内では朝霧は、窓の外を見ながらどこかのうわの空で、そのまま身投げしてしまうのではないか、という危うさがあったと噂する。
「じゃあ、またな、朝霧」
馴染みの客が、吉原大門の下でにこやかに手を振った。床入りはしたが、泊りはしないというので、見送りに出てきたのだ。
「あい、待っておりんすよ」
馴染みの客が背を向けて、消えていくのを見届けたあと、朝霧も見世に帰ろうときびすを返したときだ。
……朝霧……
朝霧は、懐かしい、というにはまだ早い声が聞こえ、振り返った。
「佐助様?」
しかし、振り返った先には吉原大門が囲う虚空があるだけだ。まわりの見世の提灯の灯りが、大門の先の闇を一層濃くしている。朝霧は、闇の中に焦がれた姿があるのでは、と目をこらす。
……朝霧……朝霧……
「佐助様!」
朝霧は、闇に吸い寄せられるように、手をのばし、声の聞こえる方に歩き出す。
「朝霧! 何どさくさに紛れて、大門を越えようとしてやがる!」
客寄せに来ていた見世の男衆の一人が、朝霧の前に立ちはだかる。男に止められても、朝霧はなお手をのばす。
「佐助様! 佐助様!」
……朝……霧…… ……霧……
朝霧の耳に届く声は、どんどんか細くなり、聞こえなくなっていく。
「放して! 放しとくれ! 佐助様が行ってしまう! 佐助様! 佐助様!」
朝霧の必死の呼び声もむなしく、声は闇の中に掻き消え、行ってしまった。
佐助様は死んでしまった。自分の手の届かない、遠い遠いところへ行ってしまった。頭では分かっている。けど、その脳裏に、あの優しい笑顔が浮かぶ。名を呼んでくれる。
『朝霧』
「……あああああああああああああ!」
瞳からは涙が、口からは叫びがこみ上げ、もれる。
「佐助様! 佐助様! どうして、どうしてわっちを置いて逝っちまったんだ! どうして! 身請けしてくれるって! 妻にしてくれるって! 約束したじゃない! なのに、どうして!」
「朝霧、いい加減にしねぇか!」
他の見世の男衆も集まって、暴れる朝霧をがんじがらめにする。騒ぎを聞きつけた野次馬も、しだいに集まってきた。けど、なおも朝霧は、叫び続ける。
「許さないっ! 佐助様を殺したやつ! 絶対に許さないっ! いつかわっちがぶっ殺してやる! 絶対に許さないんだからっ!」
朝霧は男達に見世へと引きずられながら、仲之町通りを叫び続けた。この様子を見た者は、後に、朝霧の様子は「まるで親の仇を見るような目をしていた」と語っている。
「あーあー、またずいぶんと派手にやられたねぇ」
時雨が折檻部屋にやってきたのは、朝霧が入って三日目のことだった。
窓がなく、薄暗い部屋に閉じ込められ、一日に何度も竹棒で殴られた。便所に行くことも許されないので、部屋の隅から漂う糞尿のにおいに、ごくわずかな量の食事を運んでくる下男はいつも、鼻をつまんでいた。風呂にも入れず、汗を吸った着物から嫌な臭いがし始めた。体中に出来たあざが、じくじくと痛む。
朝霧は床に寝そべって、うつらうつらしていた。闇に慣れた視界に、時雨の顔が飛び込んできたのは、そんなときだった。
「オババの奴、床着で隠れるところだけ、あざをつけてやがる。ちゃっかりしたババアだぜ。ここから出したら、あんたをすぐ見世に出すつもりだ」
汗と脂の臭いが染みた朝霧の着物の裾を、平然とめくりながら言った。
「ほら、気持ち悪いだろ。着替えをこっそり持ってきてやったから、さっさと着替えなよ。あと、腹も減ってるだろうから、握り飯も持ってきた。見つかったら、あたいも折檻される」
「時雨、今何時?」
時雨の差し入れをちらりと見ただけで手をつけず、朝霧はぼんやりとした声で尋ねた。
「昼見世が終わったばっかり」
「そう」
朝霧は寝転んだまま、短く答えただけで押し黙ってしまった。薄暗い部屋に、沈黙が落ちる。
「みんな、あんたのことを心配してるよ。あんたはあたいと違って、年下や新入りへの面倒見がいいからね。人徳だよ、人徳。やよいも泣きそうな顔して、『はやく姐さんを出してくれ』て、オババ様に懇願してた。そのたびに、オババに『うるさい! お前も折檻部屋に入りたいのかい?』て言われて、震え上がっていたよ」
「時雨も、心配してくれたの?」
「うん? まぁ一応ね。この部屋には、あたいもしょっちゅう世話になってるし。欲しいもんとか、いろいろ分かるからさ」
そう言って、時雨は照れたように頬をかいて笑った。その仕草が、佐助の姿とかぶる。この三日間、感情をどこかに置き忘れてきたような朝霧の目に、再び涙がじわりとにじむ。それを隠すように、右腕で視界を覆った。
「夢を……見ていたのかな」
声の震えをおさえながら、朝霧は言った。
「佐助様に出会って、身請けしてくれるって言われて。最初は、そんなことあるわけがない、わっちを自由にしてくれる人なんて、この世にいるはずない、て思った。でも、佐助様は心の中にどんどん入ってきて、いつのまにか惚れてた。この人のことを信じてみよう、て思えた。佐助様のそばに、ずっといられたら、どんなに幸せだろう、て考えてた。でも、叶わなかった。佐助様は死んでしまった。君菊姐さんと一緒だ。ずっと考えてた。わっちも君菊姐さんと同じ、恋焦がれたお方に死なれて、叶わぬ想いをずっと引きずりながら、他の男に抱かれて、最期は病に冒されて、見世にも見捨てられ、一人寂しく死んでいくんだ、て思ったら、怖くて怖くて仕方なくて、夜も眠れなかった。あの夜、気づいたら君菊姐さんが死に際に言っていたことと同じこと、言ってた。『どうして、どうして』て」
時雨は、朝霧の話を黙って聞いていた。朝霧の言葉が終わると、再び沈黙が部屋に降りた。それを破ったのは、また時雨だった。
「君菊姐さんが死んだ日、あたいに間夫がいる、て話したの、覚えてる?」
「うん」
「実は、間夫なんかじゃないんだ。張り見世に出ているとき、通り過ぎる男に一目惚れしただけなんだ。どこの誰かも分からない。にやにやとこっちを値踏みする男どもの後ろを、どこの見世の女郎に会いに行くのか、いつも生き生きとした顔をして、颯爽と歩いて行くのさ。一度だけ、格子越しに声をかけたことがある。『あたいを買ってくれ』てさ。そうしたら、笑って手を振ってくれた。その女郎にぞっこんらしく、そのまま行っちまったけどね」
と、苦笑をもらした。
「想像するだけで、幸せなんだ。あの旦那は、どんな話を聞かせてくれるのか、どんな風にあたいの手を握ってくれるのか、どんな風に体を抱いてくれるのか……。それだけでいい、それだけでいいんだ。朝霧、ここは、吉原は、女が男に夢を見せるところだけど、男に少しくらい夢を見せてもらったって、バチは当たらないだろう。先のことなんて分からない。もともとあたい達女郎なんて、見世のために縛られた、自由のない身だけれど、幸せな夢くらい見たっていいだろう。朝霧、あんたは佐助様から、いろんなものをもらったじゃないか。あたいよりかは、惚れた旦那のいろんなことを思い起こせる。そんなあんたを、あたいはうらやましいと思うよ」
朝霧が折檻部屋から出られたのは、ここに入ってから五日目のことだった。入れ替わりに、時雨が部屋に入ることになった。朝霧に着物と食べ物を差し入れたのが、オババ様にバレたようだ。
入口ですれ違うとき、「大丈夫」と言って、時雨は小さく笑った。
朝霧は思っていた通り、その日の夜見世から出ることになった。やよいに手伝ってもらいながら、湯にあわただしく浸かった後、自分の部屋に入り、すぐに準備にとりかかる。打掛をはおり、鏡の前で化粧を施す。薬指の先に紅をとり、唇に塗ると、ちょうど張り見世の時間になった。朝霧は、足早に廊下を進む。
夜の帳が下りれば、仲之町通りの突き当たりの常明灯に火が灯る。それを合図に、花の吉原はにぎわいを増す。提灯、行燈が、眠らぬ町を明るく照らし出す。今夜もここで人々は、金で女の色と情を買い、夢まぼろしを見る。
朝霧は張り見世の後ろの方に座り、そっと目を閉じる。まぶたの裏には、現実にはもういないはずの、佐助の笑顔がすぐそばにある。
佐助様からいただいた、幸せな夢まぼろしを抱えて、わっちはこれからもここで生きていく。わっちがどうやって生きていくのか、そしてどうやって死んでいくのか、わっち自身が見届けなければならない。
決意を心に秘め、そっと開けた瞳を艶っぽく潤ませ、朝霧はいつものように、格子越しの男達に訴えかける。
『ねぇ旦那、今夜わっちを買ってはくれませんか?』