我が愛する祟り神へ
穢れに満ちたこの世に、また、僕だけが残された。
さっきまで、雷神・建御雷がいたというのに、その男はいつの間にか僕を残して消えていた。
ことは、ほんの少し前。
僕は、この地を穢そうとした人間を無残に殺した。本当はあとひとり殺すつもりだったのだが、かなわなかった。
そのひとりを殺せば、僕は完璧な祟り神になることができた。憎悪と殺意、敵意に満ち、ある種の神々しさをまとわせ、祟り神に成り果てる……はずだった。
だが、そううまくはいかなかった。祟り神というには中途半端に張り付いた鱗、風神というには醜い白髪。
僕は、祟り神にも風神にもなれない、中途半端な『神』になっていた。
そうなった原因は、遠い場所からやってきた『建御雷』という雷神。
僕の住む世界には、『建御雷』という神は、存在しない。
この世界の住人誰に聞いても、そんな神は知らぬと答えるだろう。僕だって知らなかった。
だけれど、突如僕の目の前に現れた、ひょろりと高い男をひと目見て、なぜだか懐かしさを覚えていた。
その理由など、僕にはわかるはずもなく。
建御雷は、僕を見て心底驚いていた。
初めて会うはずの神なのに、僕を「諏訪」と呼んでいた。
祟り神になる前の僕は、親しい仲からはそう呼ばれていた。それを、見ず知らずの男がどうして知っていたんだろう。
その雷神に、僕は、最後のひとりを祟ることを、阻止された。
雷神は、僕が祟り神に成り果てることを、どうしても避けたかったらしい。おかげで、こんな半端者になってしまった。
祟り神というには、祟りの力はそれほど強くなく。
かつての風神というには、もう神風を起こすこともできない。
穢れに満ちたこの世界で、僕はひとり、眠っていた。
地はどろどろに濁り、あちこち瘴気が放たれている。とても、生き物が住めるような状態じゃない。
中つ国に住んでいる人間たちは、高天原へと避難した。国つ神は、最後までこの中つ国に残り続けた。
そうして、みんな穢れに呑まれていった。
兄も、父も、妹も、友人も、みんな。
それを目の当たりにした僕は、絶望した。心に隙をつくり、祟り神に成り果てる手助けをしてしまったのだ。
そうして、決定打になったのが、この国の住人が、穢れ侵食に手を貸していたということだ。
この中つ国の住人でありながら、中つ国を侵そうとする穢れと手を組んで、異形を発生させるなんて、我慢がならなかった。
そして、僕は祟り神になりかけた。今の僕は、祟り神一歩手前だ。半端な、神。僕にはお似合いだ。
建御雷の放電で、体が上手く動かない。右手を汚す赤い血は、その建御雷の胴を貫いたときについたもの。
ふしぎなことが、起きた。
その血が、うねうねと動き始めた。僕の手から離れ、地面に降り立ち、もぞもぞと動いて形に成っていく。
むくむくと、人の形を成していき、最後には、体を丸めて眠る、童が生まれた。
神、天つ神の、誕生だ。
僕の方に顔を向けて、この穢れに満ちた地であるにもかかわらず、あどけなく眠っている。
ありえない。この穢れた中つ国で、新たに神が生まれるなんて、思っても見なかった。
あの建御雷の血から、小さな神が生まれた。
これは、幸運といってもいいくらい、ありえないことなんだ。
僕は、それを目の当たりにした。
「……ん」
生まれたばかりの神が、目を覚ました。僕は、自分の羽織をかけてやる。素っ裸は寒かろう。
あぁ、似ているのだ。僕をこんな半端者にした、どこか別の世界から跳んできた雷神に。
髪の色とか、目元とか、屈託なく笑うその表情が、なぜだか懐かしい。
「……だれ?」
ふしぎそうに、こちらを見つめてくる。羽織を掴み、上体を起こしていく。僕よりも小さなその神は、うろうろと周りを見回す。
「おれ、は……?」
かわいらしく首をかしげる。その仕草が愛おしい。
憎悪と殺意に埋め尽くされた僕の心が、和らいだ気がした。
「だれ?」
また、問いかけてくる。僕は、思わず答えてしまった。
「……建御名方」
「たけみ、な……?」
「たけみなかた」
「建御名方か!」
童は嬉しそうに、僕のかつての名前を呼ぶ。この世界で、僕をそう呼んでくれる者などいないのに。
「あ、おれは? 生まれたばっかりだから、わかんないんだ」
そう。生まれたばかりのこの子には、名前がない。
ならば、僕が名付けてあげよう。
おまえに、ふさわしいその名を。
「おまえは、今日から、建御雷、だ」
ひょっとしたら、別の世界から来た建御雷という神が、僕に残してくれたのかもしれない。
絶望しかない、この世界で、憎悪と祟りに支配された僕を救うために、新たな神を、僕に授けてくれたのかもしれない。
僕は、百年以上も張り付いていた無表情を和らげて、久々に微笑んだ。
建御雷も、それにつられて笑ってくれた。
「建御名方!」
「なんだ、建御雷」
「えへへ。建御名方と、建御雷か。なんだろ、へっへっへー」
「……そうか」
僕は、建御雷を優しく抱き寄せた。
『鹿島のディメンジョンシフト』上の諏訪様の後日談です。こっちの世界には鹿島の存在自体がないという設定だったりします。