爪 紅 -爪染める紅-
弐章での政宗様。
開け放たれた室内で、私は運指を違える事無く笛を奏で行く。
与えられた課題曲は今までとは違い、流れの速い長曲。
練習は飽きるほど、家人等は呆れつつも耳を傾け応援してくれた。
終盤がこの曲最大の難所、緊張のため筒を押さえる指に力が篭る。
息を吸い込み緩やかに篠笛に流して音を切った。
低く響いた笛の音を止めて、私は篠笛の歌口を隠す。
「……上達が御早いですね、姫様。
全ての音が濁り無く綺麗に出てらっしゃる。
もう新しい歌に挑戦なされてみては如何でしょう?」
掲げた笛を膝に乗せ、私は師匠たる片倉様に頭を下げた。
一息の肺活量と音量はどう練習しても埋められない。
未だに落ち着かず、吐息と呼吸が忙しなく続く。
「か、片倉様がそう仰ってくださいますのなら……是非」
「その曲は、随分と御練習されたと聞きました。
日がな一日暇を見つけて吹き続けていたと、政景殿が仰っておりましたよ」
私は、聞かされた話に苦笑いした。
今朝も父上が浮かべた呆れ顔を思い出して。
「片倉様が手本に吹いてく下さいました折り、曲調と音域がとても綺麗で感動したのです。
音色を真似出来れば嬉しいのですが……。
納得のいく出来合えとは程遠く、幾度も練習を重ねてしまいました」
「……姫様、音色などは決して真似なさらないで下さい。
御自身の音色で人に聞かせるのが、奏者としての嗜みであり矜持なのです」
その、自信の音色が不満なのである。
そう片倉様に提訴して理由を説明した。
私の笛の音は薄く甲高く、落ち着いた深み有る音色が出せない。
運指や口元を試行錯誤しようが、願う音が出せず悔しい思いをしているのだ。
「個々の音色が千差万別だからこそ、笛の音に趣が生まれるのでございましょう」
宥めるが様に、片倉様が御愛用の名笛“潮風”に唇を寄せた。
同じ曲目で同じ調べ、だが深く静かに広がる心地よい音色。
あきらかに違いが判ってしまう技量の差と音域の幅に、溜息が漏れる。
私は目を閉じて静かに聞き入った。
* *
しっとりと奏でた音の余韻に浸り、私は吐息を漏らす。
片倉様の左手が歌口を隠して離れるを、気配に捉えながら。
師と仰ぐ御方の名演に聞惚れ、私は膝に乗せた両手で賛辞を送る。
廊下を背に座す私の背後から、一際大きく打たれた拍手に驚いて振り返った。
「調子狂った先程の笛音は、雛姫だったか。
俺はてっきり、風邪ひいた小十郎が演奏してるかと思ったぞ?
心配して足を運んでみれば、理由判して一安心だ……」
襖に背を預けて拍手を送っていたのは政宗様だった。
炯炯たる眼光、幽玄たる佇まいに纏うのは色気。
「小十郎に笛を習っているのは、聞いていたが……。
技量が上がっても耳を塞ぎたくなる音では、周囲の失笑を買うだけだろう。
自分らしい雛姫だけの音で吹くのが一番だと思うが……なぁ?」
飾り気の無い服装ならば尚に存在感を増す人物。
蒼穹を背後に従える王者の気。
私は据えられた其の眼光に怯え、視線に囚われる。
「政宗様もそう思われましょう。
姫様は御自身の音色が嫌だと申され、敢えて真似をなさる」
傾けた体を正し室内へと歩み寄るを目視して、上座を譲る片倉様。
政宗様のしなやかな身のこなし、所作に目を奪われる。
肩膝を立てて優雅に座す御姿。
にやりと笑む政宗様から次いで出された御言葉は意外なもの。
「特別に俺が個人練習に付き合ってやろう。
有難く思えよ、多忙な小十郎を引き止めるのも大概にしないとな」
「えーぇ、あーはぁ……」
何とも押し付けがましい言い分だ。
有難迷惑との我が思いを無視し、さも良案と見事に押し切る。
片倉様とて同じ懐中であろうが……。
当主の申し出には異を唱えられぬ。
「……それでは、政宗様の言葉に甘えましょうか。
私は滞っている政務に早速と戻り仕事を片付けて参ります」
「嗚呼、確り仕事に励めよ」
「では、姫様の演奏宜しく御指導下さいませ」
畳を滑る衣擦れの音を残し、師が席を立つ。
譲られた席、上座の脇息に腕を突き、肩膝を立てた政宗様。
庭先の蝉も静まり返った部屋に、二人きり。
彼の人の視線を興味を一身に受けるのは、今や私だけとなった。
「……早速?」
御耳汚しとは、此れを意味するのだと思う。
平謝りしたくなる一曲を、御当主様に披露せねばならぬとは……。
酷と言うモノ、当に羞恥の極み。
自然と震える指先、幾度も違えるだろう運指に嫌気がさす。
歌口を左手で隠し吐息と悲哀が漏れた。
* *
「御耳汚しにて、大変お粗末でございました!」
「嗚呼、コレマタ……」
伏せられた眼差しが目元に濃い影を映す。
艶やかな玉藻の如き髪、白く細い項が息を吐いくのを聞き取った。
淡く紅を刷いた口元からは、恥しげな謝罪が継いで漏れる。
自らの音色を耳汚しと謝る姿がひどく健気で愛らしい、俺は苦笑いする。
可憐で儚げな風情に目を奪われて、殆ど聞いてなど居なかったのに。
全てが可憐と華奢な様相の佳人。
心根優しい従妹に俺は陶酔していたのだ。
謝罪を含め、再度の打診をする。
「最初っからもう一回吹いてみな、焦らず丁寧に指を置いて」
「……は、い」
白くて細い雛姫の腕先。
今度は、確りと篠笛を奏でる指先に視線を寄せる。
震える指先、筒を押さえるそれは軽やかに動く。
高くか細い音域と艶のある音色が部屋に響き渡る。
音を捕らえ耳に拾うが、視線は雛姫の指に集中していた。
紅に染まっている爪先を目敏く見つけて。
「もう止めろ、雛姫。一旦休憩しろ」
「もっ、申訳御座いません!!」
篠笛を膝に乗せ、頭を下げる雛姫から腕ごと笛を取り上げる。
彼女の紅く色づいた爪先に自らの顔を寄せて呟く。
強引に少しばかり艷めいて。
「男の気を引くために爪紅で染めたか。
鳳仙花は“私に触れるな”との意を含むのに?」
「……えっ?」
「どんな心算で爪を紅に染めたのか、是非聞きたいものだな」
白く細い雛姫の指先に俺は唇を寄せた。
震える紅い爪先に口付けを落として、耳元に囁く。
「駒の爪音(馬の蹄音を)を聞かされた、俺の身にも為ってくれ?」
意味するのは、彼女の愛称“駒”に引っ掛けての嫌味。
忙しなく五月蝿い音だったとの嘲り、戯言と少しばかりの意地悪だ。
雛姫の色白の頬が怒りと羞恥で見事な紅に染まる。
俯いた顔を顎を掴んで上げさせれば、涙目で睨み返された。
成実や小十郎、政景に告口されたのでは堪ったものではない。
「何だ、本気にしたのか?
案外上手だったと褒めてやろうと思ったのになぁ……残念だ」
からかいと揶揄半分。
麗しの従妹に、我が目を奪われていた恥しさ半分。
片腕を雛姫の後頭部に回し、己の肩口へと顔を押し付ける。
「何者にも真似できない自分らしさを奏じろ。
それが一番、オマエらしい雛姫らしい笛の音じゃないか」
体を強張らせて、朱色の耳朶を披露した雛姫。
羞恥して固まった我が従妹殿の首筋に、吐息を態と漏らしてみた。
此れは面白い反応である。予想外だった。
彼女は意外と初心だと、知る事が出来たのだから。
まあ、成実は舅たる政景が怖くて未だ手が出せなずに居るのだろうと……。
「これは案外、俺にも分が在る勝負事やも知れぬなぁ」
儚げに座り込む美しい蕾花。
咲けば大輪たる、百花の紅を俺は眺めた。
“立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花”
成実は、雛姫を百合の花に例える。
俺が例えるならば、花王たる牡丹の花だが……。
一寸ばかり、コイツには威厳が足りないな。
旧・拍手御礼用。