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8 梅鼠

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 人ごみを掻き分け、須桜は駆ける。騒ぎの原因は物取りであるようだ。駆けつけた壱班に捕縛された男が、どうにか逃れようとわめきながらもがいている。

 人々は好奇心と不安をざわめきに変えながら、その様子を遠巻きに眺めていた。須桜は首をめぐらして、先程ちらと見かけた姿を探す。だが中々に見つけられず、苛立ちをごまかすようにして汗ばんだ頬に貼りつく髪を払いのけた。その足元に、鳩が一羽舞い降りる。崇が先程飛ばした鳩だろう。一見ただの鳩に見えるが、その実、情報収集に特化した黒器である。未だ試作品の域を出ずに不鮮明な音ではあるが、周囲の様子はこの鳩を通して、崇の耳に届いているはずだ。

 中々に抵抗をやめない男に痺れを切らしたのか、壱班の隊員が厳しく恫喝する。その声に、周囲のざわめきは一瞬途切れた。僅かなその静寂に響いた声を、須桜は捉えた。知った声であった。知った男の声であった。

 ざわめきはすぐにまた周囲を埋め尽くしたが、その声の出所を須桜は見逃さない。人と人との隙間には、蹲った少女がいる。おそらくは物取りの被害者だ。側には、その少女に手を貸し、立たせてやっている男がいる。屈強な男だ。年の頃は三十代半ば程だろう。少女に手を振り別れた男の、短く刈った明るい茶色の髪が、人ごみの中ひとつ抜けて高くに見える。

 須桜は男を追った。しかし小柄な須桜は人の波に飲まれてしまい、中々距離を縮められない。人波に泳ぐ頭を見失う事は無いが、どんどんと距離は離れていく。

「――待って!」

 思わず声を大に叫ぶが、男は振り返らない。周囲の注目ばかりがこちらに集う。これは好機だ、と須桜は汗のにおいの立ち込めた埃っぽい空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。

「待って! お父さん!!」

 悲痛な声で叫ぶ須桜に、周囲の好奇と同情の視線が集う。その視線はやがて、須桜の視線の先へと転じた。

「お父さん! お願い、あたしを置いていかないで!!」

 転じたその先には、男がいる。須桜の叫びにも足を止めず歩む男を、周囲は『お父さん』と見なしたのだろう。非難の声がただちに上がった。親切にも男の肩を掴み、足を止めさせてくれる女性もいる。男は頭を掻いて、煩わしげにこちらを振り返った。

 垂れた若草色の瞳が、須桜の姿を映し出す。左頬から鼻筋を通り右頬へと走る刀傷が、朗らかな顔立ちを物騒な物に見せていた。

「――そりゃ卑怯ってもんだろ、お嬢ちゃん」

「あんた! 自分の娘になんだいその言い様は!」

「いや、この子は娘じゃ……」

「……あたしは、お父さんの娘じゃないの……?」

 追いついた須桜が声を震わせて涙を零すと、男を捕まえてくれていた女性は怒りも顕に男の頬を抓った。

「娘泣かせてんじゃないよ!」

「あいだだだだ分かった、分かったから!」

 男は涙目で、女性の手から逃れた。最後にばしっと力強く男の肩を叩き、親切な女性は帰途についた。すれ違い様に寄越された笑顔に少しばかりの罪悪感を覚えつつも、須桜は感謝の気持ちに深く頭を下げる。

「どうしてここにいるの? ――竜造お父さん」

 向き直れば、春日井竜造は傷跡の目立つ顔に、あくまでも朗らかな笑みを滲ませた。

「下見、……ってとこかな」

 竜造は、ざわめく周囲をぐるりと見渡した。物取りの男はようやく抵抗を諦めたのか、大人しく壱班に連れて行かれようとしていた。壱班は警笛を鳴らし、好奇の視線を寄越す人々を散らしている。どこからか夕餉の支度の香りが漂ってきた。その香りに誘われたのかどうかは知らないが、先程までの騒ぎをひとまず置きやり、人々はそれぞれに道を行く。

 竜造の視線は最後に、悠々館へと留められた。店の前では、掃除をしながら崇がこちらの様子をさりげなく窺っている。

「瑠璃は良い里だな。清も濁も混然と在る」

「……何が目的なの」

 竜造は答えずに、笑むだけだ。邪魔になる、と須桜を手招いて、道べりの石灯籠にまで移動する。どうやら逃げようという気は、もう無いらしい。

「目的、ね。うちの若様から聞いてるだろ?」

「……奪う、と」

「その言葉のまんまだ」

「理由は何」

「俺の口からは言えねえな」

 と、竜造は側の木に視線を転じた。木には鳩がとまっている。崇の鳩だ。鳩を眺めやる竜造の視線は意味ありげで、この鳩が何であるのかを知っているかのように思えた。

 落ちた沈黙の間を、風が吹き抜ける。その風に乗って、鳩はどこかへと飛び去った。会話を聞いていた崇が、そうさせたのかもしれない。

「しっかし、顔色が悪いなあ。御影のお嬢ちゃんよ、あんまし無理はするなよ? 危険な事ばっかりしてると、親が泣くぞ?」

「そっちこそ。娘が泣くわよ。まだ小さいんでしょ?」

「は、そりゃ脅しか?」

「そうね」

 娘の事を口にした途端、竜造の纏う空気が硬く変じた。知らず伝う冷や汗を知らぬ顔で、須桜は竜造を睨め上げる。

「奪う、と言ったわね。あたしは御影須桜よ。主を害するならば、相手が誰であれ戦うわ」

 たとえ、勝ち目が無かろうとも。

 転じた竜造の空気に、息が詰まる。人目もある事だ、この場ですぐさまに刃を向けられる事は無いだろう。とはいえ、力量差に須桜は歯噛みする。分かっていた事ではある。この男と対して勝ち目などは無い。だとしても、何もせずにいられようはずも無い。

「……お嬢ちゃん、俺は別にやりあいたいってわけじゃあない。お前を死なせたいわけでもない」

「死なせる? 大した自信ね」

「事実だ」

 ぐ、と須桜は息を呑む。

「下見って言っただろう? 今日は別に、何もしねえさ」

「じゃあ、いつ。今日じゃなければいつなの?いつ、どこで、誰に何をするのよ。どうしたいの」

 強く握った拳が震える。須桜は奥歯を強く噛み締めながら、左の手首の数珠へと指先を触れさせた。

「やめときな」

 咄嗟に須桜は竜造から距離を取る。竜造の声に、警告以外の響きを感じたからだ。

「死にたくはねえだろ。大人しくしときな」

「勝手な事を……っ」

 吐き捨てた須桜の声が、怒りに震えた。

 勝手な事ばかりを言う。奪うと言って、それに抗えばやめろと言う。馬鹿げている。ふざけている

「今すぐに、誰かをどうこうしようってわけじゃない。そう言っただろ?」

「だからそれはいつなの! 誰をどうするつもりなの! ……やめてよ。もう、ひどい事しないで」

 懇願じみた己の声を、須桜は嗤う。滲んだ涙が、どうしようもなく悔しかった。

 この歯痒さは紫呉も抱いたものだ。この焦燥、この恐怖、この怒り、この無力感。これが、紫呉も感じていたものだ。

 零れる涙もそのままに、須桜は竜造を睨む。今は、ただそれしか出来ない。

 竜造は長く息を吐き、短い髪を掻き乱した。須桜から顔を背け、情けなく眉を下げる。纏う空気はもう、先程のようには尖っていない。

「この年頃の娘に泣かれるのは、嫌なもんだな……」

「泣いてない」

 そうか、と竜造は笑う。まるで実の娘の癇癪を宥めるように。その事が余計に、須桜の神経を逆撫でする。

「だが、立ちはだかると言うのならば、俺はお前を排除する」

 低めた竜造の声が、重く須桜に圧し掛かった。

 茜の空は薄い闇に覆われ始め、立ちこめた雲は梅鼠色の綾を成している。どこからか聞こえる親子連れの暖かな声に、張り詰めていた竜造の空気は霧散した。小さく笑みを浮かべそちらを見やる竜造の横顔は優しく、それが一層、須桜の背に冷や汗を浮かばせる。

 その後は何も言葉を紡がぬまま、竜造は須桜に背を向けた。その大きな背を、須桜は今度は呼び止めなかった。


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