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3 紺碧

 戸を開けた莉功は、どこか安心した様子であった。同時に、不安げでもある。寄せられた眉は、己の心の置き所を捉えかねているかのようだった。

 莉功は、ひょいと手を挙げて二人を招く。

「目ぇ、覚ましたってさ」

 思わず須桜は影虎を見た。喜色の滲む影虎の桃色の目に、己もまた喜びと安堵を抱く。自然と、ほぅと息が漏れた。

 しかし、莉功の様子が気にかかった。須桜は首を傾げて、莉功の顔を覗き込む。

「莉功さん?」

「……んー、いや、何かさ、目え覚ましたには覚ましたけど、何てぇか……」

 唸りながら、莉功は腕を組む。

「……強がりきれねえなら、強がんなきゃ良いのにな」

 仕方ない奴だと言いたげに、莉功は溜息まじりに呟く。

「会うだろ? 案内する」

 何かを言おうとする影虎を遮るように、莉功は背を向けた。来い、と無言で示す莉功に、二人は付き従った。

 俯きながら、監舎を目指し歩く。廊下が汚れているな、などとどうでも良いことを考えた。

 左右非対称の足音は、すぐ隣を歩んでいる。影虎は何かを押さえつけるように短く嘆息し、義足のつま先を廊下に打ち付けた。不安か心配か苛立ちか。その類を影虎が分かりやすく表に出すのは珍しい。

 ちらりと隣を見上げて、影虎の様子を覗き見る。その視線が煩わしかったのか、影虎は舌を打ってそっぽを向いた。須桜は腹立たしさを覚えたが、まあ良い。どうせ影虎は、気遣われた自分自身に腹を立てているのだ。全く、意地っ張りばかりだ。

 奥へ奥へと、監舎を目指し歩く。内庭、と呼ぶには気が引けるような僅かばかりの空間を隔てた先に、監舎はあった。

 内庭へ出た途端に蝉の鳴き声が降り注ぎ、耳の奥にわんと音が広がった。さんざめく夏の陽射しが息苦しくて、須桜は大きな目を伏せた。

 ふいに音の群れから一つ蝉がはぐれた。ジ、ジと悶えるようにして、地面に落ちた蝉が熱された土の上を這っている。それを横目に、監舎を目指す。

 近づくにつれ、鼓動は早まる。呼吸が浅い。緊張しているのだと、妙に客観的に須桜は思った。

 錆びの乗った鉛色の扉に、莉功は鍵を差し込んだ。がちゃがちゃと面倒臭げに鍵を回し、莉功は重い扉を押した。

「ほんとは立会い義務あんだけどさ。面倒くせえので俺は仮眠室にいます。あとで鍵持ってきてねー」

 ほい、と気の抜けた声で、莉功は鍵の束を影虎に手渡した。

「……ありがとうございます」

 影虎は手の中の鍵を見やりながら、低い声で言う。別に、と気の無いそぶりで言いながら、莉功は制帽を目深に被り直した。

「ちなみに紫呉くん一番奥ね」

 ひらひらと手を振って、莉功は関わりたくないとばかりにさっさと背を向ける。その背に、須桜は頭を下げた。一番奥ならば、潜めてしまえば見張りの隊員に声が届く事もないだろう。莉功の気遣いがありがたかった。

 鍵の束を袂に収め、影虎が歩を進めた。ギィ、と重く軋んだ音を立てて、背後で戸が閉まる。監舎独特の、重苦しい空気が身に纏いつき、じわりと締め上げてくるかのようだ。

 入り口のすぐ側には、見張りの隊員が二人。ちらりと視線を寄こされたが、投げかけられる言葉は特に無い。

 階段を、ゆっくりと下りる。格子の嵌めこまれた明り取りの天窓は小さく、全体を照らすには不十分な光しか無い。朝だというのに、監舎はまるで夕方のような薄暗さであった。そのおかげか、格子越しの四角い空が、やけに青く色濃く目に映えた。

 むっと澱んだ空気は、屎尿の臭いに浸されている。その臭気に鼻の奥がツンと痛んだ。そよぐ風すら無く、こもった熱気が肌にねばねばと絡む。噴出す汗が頭皮を伝い、うなじを流れていった。

 そう広くは無い空間だ。両脇には狭い牢が立ち並ぶ。木格子の向こう側は空の時もあれば、薄暗い目をした男がいる事もあった。何事かを喚いて木格子を掴む女がいる事もあった。そのどれもに視線は長く留めずに、須桜は逸る己の鼓動を数える。先を歩く影虎の歩みは、徐々に早まっていた。

 その歩みが、ふいに止まる。そしてまた歩き出す。ゆっくりと、踏みしめるように。やがて行き着いた奥の牢の木格子を、影虎は右の手で強く握った。須桜も影虎に並び、ざらついた木格子を両手で握る。ささくれた木が手のひらに痛かったが、どうだって良かった。

「――紫呉」

 身を横たえていた紫呉は、硬い須桜の声音に僅かに身じろいだ。肩がゆるりと上下して、彼が深い息を吐いたのだと知る。

 紫呉はゆっくりと時間をかけて体を起こした。時折動きがぎこちなく固まるのはきっと、傷が痛んだからだろう。粗末な麻の着物ごしの包帯の白が、薄暗い監舎ではやけに目立つ。

 先程までうるさいほどだった鼓動は、今はもう鳴りをひそめている。やけに落ち着いた心地だった。落ち着かねばいけない、と思っている所為なのかもしれなかった。

 そのうちに紫呉はこちらに向きなおり、固い床に正座をした。伏せられた目は、こちらを見てはくれない。

「……この度は、申し訳ございませんでした」

 言って、紫呉は深々と頭を下げる。

 毅然とした声音ではあった。硬質な、表情の少ない、いつもの紫呉の声だ。ただ、ひどく掠れている。言葉を紡ぐのもつらそうだった。口中にまで傷を負っているからだろう。膝の上で握り締められた拳が、微かに震えていた。

「勝手な行動をお詫び申し上げます。本当に、申し訳ございませんでした。迷惑を……、かけました」

 俯いた彼の表情は分からない。おとがいから滴った汗が、固く握られた拳にぽつと垂れ落ちる。

「――ごめんなさい」

 ひゅ、と隣から息を吸う音が聞こえた。影虎は今まで閉ざしていた口を開き、何か言葉を探している様子だった。だが結局、形の良い唇は何の音も紡がぬままに閉じられた。

 須桜とて一緒だ。何かを告げたい。しかし何を言えば良いのか、言葉を見つけあぐねている。頭を上げてくれと、言いたいような気がしている。足を崩してくれとも。傷が痛むだろうとも。しかし上手く音にはならず、声は喉元で滞ったままだ。

 須桜はその場に膝をついた。触れたいと思った。固く握られた拳が痛々しくて、触れて、その指を開かせてやりたいと、そう思った。しかし木格子に邪魔をされて、手は届かない。

 それでも手を伸ばした。今、己は喜びを感じている。体中の隅々まで、喜びで満ちている。そこにいる。そこに在る。それがひたすらに、喜ばしいのだと。そう、伝えたかった。

 紫呉、と名を紡ぐ。呼ばう相手がすぐ側に在る事が嬉しくて、声は自然と微笑みまじりのものとなる。

 夜色の髪先が微かに揺れた。少しばかり顔をあげて、紫呉は須桜の指先を見た。固い拳が緩み、ゆるゆると腕が持ち上げられる。伸ばされる汚れた指先は、しかし須桜に触れる事無く、紫呉の膝の上に落ちた。背けられた顔は、まるで恥じているかのようだった。

 熱く澱んだ空気が揺れたかと思えば、影虎もまた、須桜と同じようにその場に膝をついていた。紫呉に視線の高さを合わせるように。

「――おかえり」

 苦笑まじりに告げた影虎の声は、微かに揺れている。返る声は無かったが、影虎はもう一度告げた。おかえり。

 髪に隠され、紫呉の顔は見えずにいる。真一文字に引き結ばれた唇は噛みしめられ、白く色を変えていた。

 やがて紫呉は何かを断ち切るように一度首を振り、顔をあげた。しっかりとこちらに合わせられた視線は、声と同じくやはり毅然としており、それがやけに莉功の言葉を思い出させてくれる。

『強がりきれねえなら、強がんなきゃ良いのにな』

 紫呉は引き結んでいた口を開く。

「雪斗は、――」

「平気よ。あたしを信じて。絶対に治すから」

 先を探す紫呉の言葉を、須桜は補う。須桜の言葉に、紫呉はほっとした目をした。しかしすぐさま、それを責めるかのような色を浮かべる。

 逸らされた瞳はすぐさま伏せられ、またも彼の心を隠してしまう。

 とん、と軽く格子を叩き、影虎が立ち上がった。

「ま、ともかく今は休めよ。たまにゃゆっくり寝とけって」

 わざとらしいほどの明るい声音を、影虎は投げかける。

「っつっても、ここじゃそんなゆっくり寝てらんねえだろうけどさ」

 薄暗い監舎を見回して、影虎は己の胸元を摘んで風を送り込んでいる。ちょうど折りよく、入り口付近の誰かが喚いた。

「……そうですね」

 答えた紫呉の声には微かに苦みを含んだ笑みが滲んでいた。思わずといった調子のその苦笑が、須桜に安堵をもたらしてくれる。

 飾られぬままの彼の心が、嬉しかった。


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