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2 瑠璃紺

*************************************


 伝鳥越しの影虎の声は、珍しく焦燥を露にしていた。連絡を受けた須桜は、急いで乾壱班へと向かった。それが、今より少し前の事である。

 須桜は額から流れる汗を肩口で拭い、ふぅと一つ息を吐く。寝台に横たわった紫呉の意識は戻らぬままであるが、治療はあらかた済んだ。

「……ひどいものね」

 傍らに立つ影虎に声を投げかける。ややして返った影虎の声は沈鬱だ。気持ちは痛い程に分かる。

 決定的な致致命傷は無い。しかし体に残る傷は多く、そのどれもがひどく痛々しかった。血と汚れを拭い、清潔な麻の薄物に着替えさせた紫呉の顔色は悪く、彼が受けた痛みを如実に語っている。

 須桜はだらりと投げ出された紫呉の手を取った。転んだのだろう、手のひらには擦過傷が残っている。傷口に触れぬように、包み込む。確かな体温に、言い知れぬ安堵を感じた。持ち上げて、爪の割れた指先に口づけを落とす。普段ならばすぐさま気持ちが悪いと罵られるだろうに、紫呉の声は無い。それが悲しい。

紫呉の手をゆっくりと寝台に戻す。腕には青痣と裂傷。首筋には創傷。口腔にも傷が有った。数えだしたらキリが無い。刃物に因るものだけではなく、打撲の痕だって有った。

「……ほんと、無茶ばっかり」

 苦笑まじりの須桜の声は、僅かに涙に濡れていた。

「須桜、お前も休んでろ。こないだから治療続きで疲れてんだろ」

「平気よ。血を使うって言っても、そんなに大量じゃないもの」

 滲んだ涙を手の甲で拭い、須桜は影虎に向きなおる。

「だとしても疲れてんのは事実だろ? その顔で万全の体調ですーとか、ふざけんなよ」

 じ、と須桜は影虎を見上げた。しかめっ面の影虎は、明らかに機嫌が悪かった。

 心配をされているわけではないと、須桜は理解している。影虎は諌めているのだ。平気だと嘘をついて、不調のままで、戦力だと言えるのかと。迷惑をかけるなと。

「自分だってあんまり寝てないくせに。格好つけないでよ」

「うるせえ」

 舌を打って、影虎は寝不足の顔を隠すように、須桜から顔を背けた。

 しばし、無言が落ちた。薬と血のにおいの充満した部屋の空気は、重苦しく張り詰めている。窓から覗く瑠璃紺の空は冴え冴えと涼やかで、どこか硬質に感じた。清涼な硬質さはこの澱んだ空気にあまりにも似合わず、須桜は何となく笑いたい気持ちになってしまう。

 ふいに静寂を揺らす足音が響いた。壱班の隊員は足音を殺す歩法を最初に習得するはずであるが、彼が外部以外でそれをしないのはきっと、面倒臭いからだ。問えばおそらく、敵のいない屯所で気を張る必要なんてないだろ、と答えが返ってくるだろう。戸口の前で止まった足音に、二人は揃ってそちらを見る。

「入んぞー、……って、怖いなお前さんら。睨むなよ」

 怖い、と口にしながらも、莉功はまるでそんな気は無い様子だ。

「様子はどうよ」

 重苦しい空気を無視して、莉功はひょいと紫呉の顔を覗き込む。未だ閉ざされたままの瞼を軽く指先でなぞり、莉功は小さく息を吐いた。

「……こんな状態で言うのも何だけどさ。紫呉くん監舎に移すこと決定だから」

 監舎、と須桜は繰り返す。

 監舎は、壱班の保護舎の中に存在する。保護舎という全体の括りで見れば、事件に関わった者(例えば雪斗のような犯罪被害者。もしくは加・被害者の周辺の重度精神傷者)の保護を目的とした舎であるが、監舎だけを差すならば、意味が異なってくる。監舎は、被疑者を仮に拘置しておく場だ。

「それは何で」

 冷え切った影虎の声が、莉功を射抜く。莉功は動じる事なく、影虎に視線を据えた。

「別に、紫呉くんが何らかの事件の犯人だって思ってるわけじゃねえよ。ただ、命令違反は命令違反だ。俺は、……彰司も、来いって言ってたんだぜ? それを破った。俺たちも一応は部隊長だ。部隊長の命令に背いた隊員を罰しないわけにはいかない」

 眼鏡越しの莉功の目は真剣だ。須桜はもう一度、小さく繰り返す。監舎。被疑者を仮に拘置しておく場。もしくは、隊内の罰則者を留置く場。

「……ま、閉じ込めときゃしばらくは無茶も出来ねえんじゃねえの?」

 呆れたような声音で言い、莉功は軽く紫呉の頭を撫でた。

「保護舎に突っ込んでやりてえのもヤマヤマだけど。そうなると、他の隊員に示しがつかんからさ。悪ぃな」

「……いえ」

 首を振る影虎は、少しばかりバツが悪そうだった。

「治療は須桜ちゃんに任せた方が良いのかね?」

「出来れば。数日おきに看に来ます」

 本音を言うならば付きっきりでいたいが、そういうわけにもいかない。

「了ー解。んじゃ運ぶな」

 言うなり、莉功はぱんと手を高く打ち鳴らした。それを受けて、戸の外に控えていた隊員達が室内に入ってくる。紫呉が担架に乗せられ運ばれていくのを目の端に捉えながら、須桜は治療道具を片付けていく。

 やがて訪れた静寂に、影虎の嘆息がやけに大きく響いた。

「……玻璃に、行ったのよね」

 片付けの手は止めずに聞く。

「多分な。確認はしちゃいねえけど」

 影虎は思案顔で寝台に歩み寄り、腰を下ろした。長い脚を組んで、己の膝に肘をつく。

「夜にな、玻璃の若様から声が飛ばされてきたんだ」

 須桜は手を止め、影虎を見上げる。

「紫呉の部屋に直接な。瑠璃に月は在りますか、ってさ。まあ、僕が対応して事なき事を得たわけですが」

 と、影虎は紫呉の声を真似た。相変わらず、空恐ろしいほどに似ている。物真似の次元ではない。声帯を模写したのでは、と思う程の出来だ。忍の才としては非常に有用だろう。声音をすぐさま真似られるというのは、忍ばれる相手方にとっては脅威に違いない。

「おそらくは、向こうで紫呉を知る人間に姿を見られた。けど捕らえたわけでもねえし、紫呉が本当に紫呉だっていう確たる証拠は無い。だから紫呉の玻璃における在を確かにしたくて、まずは昔親交のあった若様が、非公式に声を飛ばして瑠璃における不在を確かめた」

「でも影虎が紫呉の在を作った」

「ああ。だから、この件であっちが公的に何かしてくるって事はもう無いはずだ」

「公的には、ね」

「そうだな」

 となると、公的では無いところでの動きはあるだろうという事か。ならば、今までと変わりはない。

「でも、見られたって、誰に?」

 紫呉が如月紫呉だと一見してすぐに分かる人間は、そう多くないはずだ。

「可能性としては若様と、二吼。あとは日生焔本人。それから……」

「護焔隊の隊長」

 思案する須桜の言葉尻に被せ、影虎は言った。

 そうか。澪月のあの日、庵にはもう一人男がいた。白といって良い程に色の薄い茶の髪に、まるで糸のように細い目。何を考えているのだか分からない、不気味な雰囲気を覚えている。

「誰とどう、あっちで関わったのかはまだ分かんねえけどな」

「そうね」

 道具を全て箱に収め、須桜は立ち上がる。影虎の横に腰を下ろした。両手を後ろにつき、ぷらぷらと脚を前後に揺らした。

「ほんと、いったい何がしたいのかしらね」

「若様は奪うって言ってたんだろ」

「うん。でも、それは目的? ただの手段?」

「俺が知るか」

「あたしに当たらないでよ。あたしだってむかついてるんだから。……雪斗の傷ね、深いには深いんだけど、巧いの。健は傷つけられてる。でも、それ自体は浅いの。必ず治るわ。出血は多かったけど、見た目ほど派手な傷じゃないのよ」

 影虎は脚を組み替え、須桜に視線を寄こした。

「あれをやったのは若様よね?」

「だと思うぜ? 紫呉が平静失って体幹への攻撃を許してる。そんなに揺さぶられる相手、若様ぐらいのもんじゃねえの?」

 それで、と影虎は腕を組んだ。

「何が言いたい?」

「あれは見せるための傷よ。紫呉を誘うためのね」

 何かを言い募ろうとする影虎を遮るように、須桜は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

「だって、奪うと言ったのよ。ならどうして殺さないの? 簡単じゃない、雪斗は戦う術を持たないわ。その相手の家に忍び込んで、隙をついて殺す。簡単でしょ? なのにどうしてそうしないの?」

「……まあ、確かにな」

「若様は、紫呉に近しい人間を奪うって告げたんだと思うわ。って、多分影虎も同じこと思ってると思うんだけど」

 影虎は須桜に視線を合わせて頷いた。

「奪うとは言ったけど、それがつまり殺すってことでは無いと思うの。推測だし、だからと言って安全が保証されるわけでもないけど」

 影虎は神妙な顔をして、須桜の声に耳を傾けている。須桜は身を乗り出した。

「若様は追って来いとも言っていたのよ。だから、雪斗に限っては手段だわ。紫呉に自分を追わせる為の」

「……だとしても、結局の目的は何だ?」

「さあね」

 須桜は長く息を吐き、昂った心を鎮めた。睡眠不足と心労、血を使ったこともあってか頭痛がする。

 影虎は腕を組み、床に視線を落としている。何かを考えている様子だ。

 昇りつつある陽の光が、窓から差し込む。眠い目に眩しく、じんと頭の奥が痺れるようだった。軽やかに囀る鳥の声も、頭痛に響いて不快であった。

こちらに向かい、駆けてくる気配を感じる。二人は目を合わせ、戸口を見やる。やがて戸の前で気配は止まり、控えめな合図が送られた。


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