8.居眠りとペナルティ(2)
高科先生は生徒会顧問の先生だから、職員室ではなく顧問室に机がある。生徒会顧問には高科先生を始め厳格な先生が多いから、私は苦手だった。何をさせられるのかと及び腰で向かったけど、言いつけられたのはただの掃除だった。
顧問室横の小さな備品室を開けて、高科先生はあっさりした態度で言った。
「棚の整理と、ほうきがけね。俺はこれから会議だから、終わったら鍵だけ返しておいて」
忙しくて生徒の罰掃除なんかに構っていられないのか、意外なその監督の甘さに私は拍子抜けした。けれど私の気の抜けた顔を見て、先生はしっかり釘をさしていった。
「ちゃんとやれよ。いい加減にやったらわかるんだからな」
念を押すように睨む目を、私は首を縮めてやりすごした。ふてくされて無視をしていると思われるかもしれないが、これが1番穏便な対応なのだ。気を抜くと、睨み返して文句をこれでもかと並べ立てて反発したくなる。どうしても、高科先生とは肌が合わないらしい。
備品室は普通教室の半分くらいの大きさで、大きな棚と机以外には何もない、薄暗い部屋だった。それほど散らかっているということはない。ただしあまり掃除はされていないようで、床には大きなわたぼこりが転がっていた。
それを爪先で蹴飛ばして、私はやれやれとため息をついた。なるべく早く終わらせて、帰ろう。
まずは床のほこりを、ほうきでさっと掃き集めた。それから目についた棚を整理していく。もしお母さんがいたら「順序が悪い、掃除は上から!」と注意するのだろうけど、そんなきちんとした手順は面倒だ。やってやる義理もない。
ほうきがけよりも、棚の整理の方が手ごわそうだった。はさみやカッターなどの文房具があちこちに散らばっていて、プリントは無造作に積み上げられているだけだ。それを適当に整えて、元の場所にまた突っ込んでいく。うんざりしながら何度かその作業を繰り返していた時、整えたプリントの山からA4の紙が1枚、ひらりと落ちた。
「もう。せっかくきれいにしたのに――」
私はかがんで、その紙を拾い上げた。何気なく見てみるとそれは、先月の生徒会新聞だった。
4月号の紙面には、就任したばかりの生徒会役員の紹介と抱負が書かれていた。トップで1番大きなスペースを使っているのは、もちろんアキだ。感じよく微笑んで、まっすぐ前を見つめている写真が、記事の横に掲載されている。アキの写真うつりの良さは、本当にうらやましい。
記事の中では、公約の実現について抱負が述べられていた。役員選挙の時アキが公約に掲げていたのは、一部校則の見直しと、学校祭の充実の2つだ。
特に「校則の見直し」の方は、アキたち生徒会が長く取り組んでいる悲願だった。アキは1年の頃から生徒会に入っているけれど、その時から既に先輩たちが中心になって活動を始めていたらしい。長い時間をかけて、面倒で正当な手順を踏まなければ、重い岩のような学校の規則を動かすことはできない。先輩から何期も引き継がれてきたこの案件に、アキは自分の代で決着をつけたいと考えているらしかった。以前、ふとした会話の中で、こんなことを言っていた。
「たぶん先生たちも、どうしてそんな規則があるのか、理解できないものが多いと思うよ。そんなのおかしいって、俺たちは言い続けてきた。議論もつくした。――もう、機は熟したはずだ」
雑談の中のことだったから口調は軽かったけど、真剣な横顔からは、強い決意がうかがえた。その時、私はその熱意にただ圧倒されて、ふーんと意味のない返事をすることしかできなかった。
新聞をプリントの上に戻して、私はちょっと口元をつり上げた。
――本当に、私とアキは全然違う。
双子なのに、全く似ていない。似ていないことを、引け目に感じてしまうくらいだ。アキは完璧だ。完璧で、それだけじゃなく努力もしていて、真剣に打ち込んでいることがある。間抜けにぼーっとしているだけの私じゃ、何をどうしたって太刀打ちできないはずだ。
「……双子なのにね」
何度思ったかわからないことを、私はぽつりと呟いた。
その時、いきなりガラッと扉が開いて、私は飛び上がるほど驚いた。
高科先生が来たのかと思った。サボっていたわけではないけど、少しぼーっとしていたところだったから、私は慌てた。
けれど振り返ってみると、そこにいたのは、先生ではなかった。
「……あなた、何してるの?」
咎めるような目つきでじろりと睨まれ、私はとっさに答えられなかった。
性格のキツそうな目つき、柔らかそうなボブの髪。ノーフレームの眼鏡を押し上げる仕草も、見たことのあるものだ。
――石橋さんだった。
驚いて動揺してしまったけれど、私はすぐに立ち直った。
先生じゃないなら、焦ることはない。何をしているのかと聞かれたけれど、それはこちらのセリフでもある。この人は何をしに来たんだろうと、私は不思議に思って石橋さんを見つめ返した。
石橋さんは、ちらりと私の首元に目を向けた。以前、ペンダントを注意されたことを思い出して、私は居心地が悪くなった。あれ以来、ペンダントをつけて学校に来たことはない。だから堂々としていればいいのだろうけど、厳しくチェックしてくるような視線が、不快だった。
「……何って、掃除だけど」
視線を避けるよう身をよじりながら答えると、石橋さんは不審げに眉をひそめた。
「ここは生徒会管轄の備品室です。勝手な立ち入りはできないはずだけど」
勝手な、というところに力がこもっていた。一方的に決めつけるような言い方に、私はムッとした。
「別に、忍び込んだわけじゃない。先生に言われて掃除してるだけだよ」
「先生?何先生ですか?」
どうして不審者扱いされて、詰問されなきゃいけないんだろう。だんだん積み上がる苛立ちをかろうじて押さえつけながら、私は顎を突き出して憎たらしく言ってやった。
「英語の高科先生です。授業中の居眠りのペナルティに、ここの掃除をしろって言われました」
石橋さんの眉がぴくりと動いた。
「――信じられない、居眠りなんて」
石橋さんはそう呟いてから、はっとしたように口元を押さえた。気まずそうに目をそらす。
でも今更口を押さえても、言葉は既に私の耳に届いてしまった。ついうっかり、みたいなアピールをしたって駄目だ。私はもう、完全に頭にきた。
この人は一体、何だというのだろう?私は思い切り、石橋さんを睨みつけた。
「用がないなら、出て行ってくれない?掃除の邪魔なんだけど」
「用ならあるわ。資料を取りに来たんです」
石橋さんもムッとしたように、強く言い返してきた。
どうやら私たちは、お互いがお互いに苛々してしまう存在らしい。天敵同士なのかもしれない。私は既にこの人と向かい合っていることが我慢ならないし、向こうだってそうだろう。
そういう人とは、早く離れた方がお互いのためだ。私は提案のつもりで言った。
「なら、さっさとそれを取って、帰れば」
「何、それ」
途端に、石橋さんの頬がさっと赤くなった。
「ここは生徒会の部屋よ。どうして、私があなたに言われて出て行かなきゃいけないの。――生徒会とは何の関係もないあなたに」
石橋さんは強い口調でまくしたてた。がらりと変わったその様子に、私はちょっと慌てた。何か、この人の地雷を踏んでしまったのだろうか。
「そういうことじゃなくて、気に入らないんなら――」
「私だって、気に入らないわ」
石橋さんはぴしゃりとさえぎった。どうも、話が通じない。だからそうじゃなくて、と続けようとした私に、石橋さんは吐き捨てるように言った。
「会長のきょうだいだからって、何様のつもり。あなたなんて、野田君の妹にふさわしくないような人じゃない」
言われた瞬間、頭が真っ白に沸騰した。
同時に胸がすうっと冷たくなって、眩暈がしそうだった。
「……そうかもね」
怒りのあまり声が震えるなんて、初めてのことだ。
これほど怒っているのに、ひどく冷静に石橋さんの言葉を受け取っている自分もいた。感情がぐちゃぐちゃに散らばって、混乱してしまう。睨みつけてくる石橋さんに、私は口の端だけで自嘲的に微笑んだ。たぶん、失敗したと思うけど。
「私も、そう思う」
今までもずっと、そしてついさっきも、考えていたことだ。
でももう、限界だった。
「……じゃ、私が帰る。石橋さん、ここの鍵、よろしく」
いきなり低く勢いのなくなった私の声に、石橋さんは戸惑ったように瞬いた。私はうつむいて彼女の顔を見ないようにしながら、足早にその横を通り抜けた。
罰掃除なんて、もう知らない。一刻も早く、ここから離れたかった。
廊下を通り、靴箱のある昇降口へ向かう。すたすた歩く足はしだいに、駆け足になった。顔に受ける風が、ひどく目にしみた。