おまけ.魔法使いと天の邪鬼
休日は昼まで寝ているに限る。
仲間とわいわい遊びに行くのも好きだが、幸い俺は1人でも退屈しない質だった。何もしなくとも、自分の時間というものはいい。ぼーっと煙草を吸っているだけで、リラックスして頭がすっきりする。
そういうわけで、俺はこの貴重な休日を、のんびりと家で過ごしていた。パチンコにでも行こうかと思ったが、今月の懐具合を思い出してやめておいた。誰もいない家は広くて心地いい。両親は仲良く映画、弟は生徒会で学校、妹は友達と買い物に行っている。この隙に、久しぶりの1人を満喫しない手はない。
ソファーに腰を掛け、ラジオを小さくつけて、読んでいなかった雑誌をめくる。自然と口元が緩んだ。ささやかだが、こういう潤いは大切だと思う。
気楽な実家暮らしだが、こうして家で好きに過ごせることはなかなかない。仕事であまり家にいないということもあるが、なにしろ長男なもので、いつもは座り心地のいいソファーもラジオのついたオーディオも、弟と妹に譲っているのだ。
俺には5歳違いの双子の弟妹がいる。
「兄貴だから」とあれこれ我慢させられることに反発を覚えたのは、もうずいぶん昔までだ。年の差もあるから、今では余裕をもって大概のことは流せるようになった。まぁ、弟妹に迷惑をかけられたことはほとんどないが。それに俺の方も、兄貴として立派なことをしてやった覚えはない。
弟も妹も、兄に面倒をかけない、良い子たちなので。
「ただいま」
玄関の扉が開く音で、つい真剣になって雑誌を読んでいた意識がふと浮上した。
聞こえたのは明彦の声だ。俺は意外に思って、時計を振り仰いだ。
「おう。ずいぶん早いな」
まだ時計は4時にもなっていない。生徒会の集まりがある時、明彦は大抵帰りが遅いから、こんな中途半端な時間に帰ってくることは珍しかった。
「うん。そんなにやることなかったから、早く終わった」
明彦は居間に入ってくると、ネクタイを緩めて前髪をかき上げた。この弟は、そういう仕草が嫌味なほど様になる。
「お疲れ」
俺は雑誌を閉じた。まだ途中だったが、読みかけの雑誌より弟の方が優先だ。明彦と2人だけで話すのは、1人の休日よりも久しぶりだった。
俺の弟の明彦は、すごい奴だ。身内の贔屓目を除いてもそう思う。
こいつは勉強も運動も大変できる奴だ。おまけに責任感もあって、生徒会長なんかをやっている。明彦を見ていると、すげえなぁ、と俺は素直に感心してしまう。妬む気も起きないくらいだ。
家でも学校でも、明彦は問題を起こすということがなかった。誰とでも上手くやれる奴、なんて俺は都市伝説だと思っているが、明彦を見ているとその存在を信じてしまう。いつも自然に人の中心にいて、笑顔で皆を惹きつける。あいつは子供の時から、ひどく大人びていた。ませているのとは少し違う。対応が大人なのだ。
それは、明彦と明子を並べてみるとよくわかった。明子は小さい頃、癇癪持ちの子供だった。母親も手を焼いていたのに、明彦はなぜか明子をなだめるのが上手かった。明子の癇癪に引きずられることなく落ち着いて話をして、いつの間にか明子の気を上手く逸らしているのだ。傍で見ていて、呆れるほどの手際だった。
男兄弟だし、面と向かって褒めるなんてしたことはないが、とにかく大した奴だ。
明彦は黙って鞄をテーブルに置くと、椅子に座った。ごそごそファイルを取り出しているその姿を見ながら、俺と会話する気はあるかな、と考える。
自分が18の時の感覚は薄れてしまってわからないが、家族に声をかけられるのも嫌な時期というものが、誰にでもあるからだ。このくらいの年頃の男にとっては、兄なんぞ目の上のたんこぶでしかないだろう。
明子には感じない逡巡を、明彦には感じる。俺は近頃この弟との距離を、いまいち計りかねていた。
作業を始めた明彦の邪魔になるとは思いつつ、俺は声をかけた。めったにない機会だから、ウザい兄貴になるくらい構わないと開き直った。
「――なぁ。明子とは、もう仲直りしたのか?」
明彦はプリントをめくる手をぴたりと止めた。怪訝そうな顔をして、こちらを振り返る。
でも、そんな顔をして誤魔化しても無駄だ。俺は思わず苦笑した。
「お前らこの間、喧嘩してただろ」
「――してないよ。喧嘩なんか」
明彦はふいと目をそらした。その反応に、おや、と思う。ウザい兄貴の好奇心が疼いた。
「明子はかなり、ダメージくらっていたようだったが?」
「……モト兄には敵わないな」
明彦は一瞬眉をひそめてから、観念したように小さく笑った。
「仲直りというか、一応普通にはなったと思う」
「そりゃ、よかった」
俺が肩をすくめると、明彦は視線を手元のプリントに戻した。もう話は終わりだと思ったのだろう。
だが、甘い。暇な兄貴の詮索をなめるなよ。
「――お前ね、18になったからって、ちょっと急ぎ過ぎたんだよ。明子はまだガキだぞ」
今度こそ、明彦が顔を顰めた。
◆◆◆◆◆◆
誰にも言ったことはないが、俺の覚えている一番昔の記憶は、病室で母親が赤ん坊を抱いている光景だ。
モトくん、今日からお兄ちゃんよ――。
そう言って、母さんが腕の中の赤ん坊を俺に見せる。ピンク色の産着に包まれて、赤いサルのような顔をした女の子が眠っている。
手なんかあまりに小さくて、俺は怖くて触ることができなかった。尻ごみする俺を見て、母さんは苦笑してこう言ったのだ。
――怖がっちゃ、かわいそうよ。可愛い女の子でしょう。
そう。
18年前、俺にできたのは妹だけだった。
けれどそれ以降の記憶では、明彦と明子の双子がちゃんと存在する。母親に聞いたって、生んだのは双子だと言うだろう。だからこの一番古い記憶は、俺の頭の隅にしかないものだ。
幼い頃のことだから、単なる俺の覚え違いかもしれない。だがそうでなくても、今も昔も、俺に双子の弟妹がいることには変わりはない。誰にも言ったことがないのは、この記憶がどうでもいいものだからだ。
◆◆◆◆◆◆
「本当、モト兄には敵わない」
明彦がため息をついた。できる弟をやりこめることができて、俺は良い気分で笑った。
「それでなくとも明子は、お前に妙に張り合おうとするところがあるからな」
「……張り合うっていうか、一方的にムカつかれてるだけだよね」
明彦が途方に暮れたように頭をかく。
何てことないように言葉は軽いが、目を伏せる様子には根の深い悩みが見えた。
だが本気で困っている明彦には悪いが、俺は微笑ましいなと思ってしまう。
「まぁ、せいぜい頑張れや」
俺の軽い言葉に、明彦は少し驚いたように目を見開いた。
「――いいの?俺が、頑張っても」
いいもなにも、と肩をすくめる。そんなの、俺が決めることじゃない。
「お前の好きにしろ。……でも、全部お前の思い通りにいくかどうかは、わからんぞ」
まずは明子の気持ち次第だ。それ以外にも実際こいつには、越えなければならない障害は多いだろう。軽い警告のつもりで言った俺に、明彦は口の端だけで笑んだ。その目の奥が、きらりと光ったような気がした。
「そんなの、全力をつくすだけだ」
こんなすごい奴の全力とは恐ろしい。だが明彦らしい自信に満ちた言葉に、俺は小さく笑った。
難儀な双子だ、と思う。
お互いに、コンプレックスに縛られているように思うのだ。明子の劣等感はとてもわかりやすい。さすがに癇癪を起こすことは少なくなったが、あいつは嫉妬すると、すぐに態度に出る。その後に自己嫌悪するところも、劣等感を抱くくせに明彦と一緒にいたがる甘えたれなところも、昔から変わらない。
だがコンプレックスは、決して一歩通行ではないのだ。明彦のそれは明子より見えにくいだけで、確かに存在している。この間、誕生日に明子へネックレスを贈ったことなんかに、少し表れていると思う。明彦は、自分が明子に最も影響を与える存在だと自覚しているし、その位置を誰にも譲るつもりはないのだ。
そしてどうやら18歳になったのを期に、より明子を独占できる位置に、動き出そうとしているようだった。
そのことに関して、俺は別に反対はしないし、積極的に協力することもない。
立派じゃない兄貴はただ見守るだけだ。明彦と明子がこれから、何をどう選ぶかは俺が決めることじゃない。あいつらの自由だ。
魔法使いのような弟は、天の邪鬼な妹の心を解きほぐすことができるのか。見ものだと思ってしまうあたり、やはり俺は気楽な傍観者でしかないのだろう。
別にどうなろうと、俺が2人の兄貴だということに変わりはない。
どちらも俺にとっては、可愛い弟と妹なのだから。
だけど、弟と妹が兄妹以上の関係になったら、さすがに一つ屋根の下の家族としては気まずいかもしれない。
「……俺、家を出て独立しようかな」
ふと俺が呟くと、明彦は目を丸くした。
「え、どうして?」
「まぁ、長男だしな。そろそろ、自活能力もつけようかと」
曖昧に誤魔化すと、明彦はピンとこなさそうに、ふうんと頷いた。
「めーこが寂しがるよ、モト兄がいなくなると」
そうだろうか。1つ部屋が空いて、喜んで物置部屋を作る母と明子の姿しか、俺は思い浮かべることができない。
「お前はどうだ、寂しいか?」
聞くと、明彦はにっこり笑った。
きっと女なら赤面するんだろうと思うくらい、完璧な笑顔だった。
「――早く出てけよ、クソ兄貴」
爆笑した。さすが、俺の弟だ。
お読みくださり、ありがとうございました。