地を這う旅人
ここは瓦礫の下だ、と意識を取り戻した旅人は独りごちた。混乱していて、自分の置かれている状況に気付くまでにどれくらいの時間が掛かったのか分からない。とにかく、今は気付いた。脚の感覚が無い。うつ伏せの姿勢のまま、体を動かすことができない。さっき道を歩いていた時、時刻は昼過ぎ頃だったはずだが、周囲は暗くはっきりと見えない。
一瞬の光だった。表通りの景色が一面真っ白になったかと思うと、突然、視界が歪んで意識を失った。今、頭の中はぼんやりしているが、アドレナリンが出ているのだろうか、不思議と痛みを感じない。今、地面の冷たい感触以外、認知できる状況には現実感が無かった。ここはあの世だよ、と、もし誰かが耳に囁いたら納得できそうだった。
頬に微かな風を感じた。距離は分からないが何処かから鳥の鳴き声が聞こえた。その鳴き声の鳥を今朝ホテルのベランダから見たことを思い出した。自分の国ではあまり見かけない種類だったので、煙草を吸い終わるまで、なんとなく眺めていた。優雅で、美しい飛び方をする鳥だった。その鳥が朝の光に照らされながら大空を羽ばたく姿を頭の中にイメージした時、不意に自分の息遣いと手の平の感覚に気付いた。俺は生きている、と旅人は思った。
これから死ぬのだ。嵐のような猛烈な恐怖と淋しさが旅人の体内に吹き荒んだ。旅人は這いつくばったまま、大声で助けを呼ぼうとしたが、どういうわけか声が上手く出せなかった。無理に声を出そうとした時、体の奥から今までに経験したことの無い鈍くて強い痛みが走った。旅人は殆ど声を発することができないまま、その痛みに悶え苦しんだ。
強い痛みは怒りを生んだ。うつ伏せの姿勢で真っ暗な地面で旅人は怒った。怒りは痛みを緩和した。脳裏に母国で味わった苦痛が蘇った。なんで俺だけがこんなことになるんだ。苦しい時期を越え、一念発起して一人で旅に出たというのに、なんだ。何故こんなに痛いんだ。なんで外国まで来て、こんなに嫌な目に遭わないといけないんだ。今、この世界で苦しいのは俺だけだ。
時折頬を掠める風は冷たかった。寒さが込み上げてきた。いつの間にか微かに差し込んでいた光が消えつつある。旅人は目を凝らして周囲を見た。
赤ん坊がいる。
さっきまで光が差し込んでいた場所のすぐ近くで赤ん坊が眠っている。死んでいるのかも知れない、と旅人は思ったが、ほんの一瞬、赤ん坊の小さな手が動いた気がした。その小さな指を見ていると、旅人の胸の中から怒りが遠のいた。痛みは耐えられる程度の強さに変わっていた。旅人は、赤ん坊を助けたい、と思った。
旅人は、今、動くことができない。周囲に人の気配は無い。これから夜が来る。赤ん坊は寒さに耐えられないかも知れない。赤ん坊の近くに行きたいが右手を思い切り伸ばしても到底届かない。
長い時間が経った後、旅人は決断した。痛みを堪えて瓦礫を抜け出し、這って赤ん坊の元へ前進した。瓦礫が動いて左腕を挟まれた。人生で一度くらい、かけがえのない誰かの役に立ちたい。旅人は近くに落ちていた刃物を手に取り、自分の左腕に突き刺した。そのまま自分の腕を切り落として、赤ん坊の元へ前進した。
旅人は赤ん坊を右手で掴み、渾身の力を振り絞って瓦礫の上へ押し上げた。背中を思い切り反る体制を維持して、右腕を思い切り上へ上へ突き出した。赤ん坊の体が瓦礫の上に出た。旅人の左腕から流れ出ている大量の血液が地面を濡らした。旅人は力を込めて長い時間その姿勢を維持し続けた。
やがて夜が明けて、人々が救助に駆けつけた。その内の一人が、大量の血が瓦礫の中から外まで流れ出ているのを見つけた。そのすぐ近くで女の子の赤ん坊を見つけた。赤ん坊を抱き上げようとした時、何かに引っかかり、それが人の手だと気付き、その奥の暗闇に声をかけた。返事は無かった。
「あなたは二度生まれたのよ」
と、赤ん坊は後に養子となってから、育ての親から言われた。養母に名乗りを挙げたのは、当時まだ十九歳の看護学生だった。
「どんなに未熟でも、どんな過去があっても、どんな人生でもね、自分の意志で生き方を決断した人間は、その瞬間から必ず誰かを助けることができるの。きっと、神様が約束してくれるのね。私たちはいつだって、まだ知らないどこか遠くへ行こうという人の勇気と優しさに支えられているのよ」
そう養母に言われて育った赤ん坊は懸命に勉強して大学へ進んだ。広い世界を知りたかった。外国語を学び、人をつなぐ架け橋になりたいと思った。
就職活動を終え、もうすぐ最後の春休みを迎える。養母と一緒に海外旅行へ行く予定だ。




