君との約束
「十年経って、お互いに好きな人がいなかったら、結婚しようよ」
高校卒業の日、慣れ親しんだ公園のベンチに腰掛けながら、七海は言った。
夕空を見上げながら呟く彼女の声には、まるで僕の目には映らない何かを見ながら、ひとりごとを発しているような不思議さがあった。
僕はその言葉が自分に向けられているのだと認識するのに、数秒を要した。
「……何言ってんだよ、急に」
僕は戸惑いを隠すために、必死に冷静を取り繕おうとする。まだ三月だというのに、顔中が熱を帯びて、汗が湧く前兆を感じる。
「何って、そのままの意味だよ? 私と樹が結婚するの」
一転しておどけた口調になった七海は、僕の動揺を楽しむように、微笑みを向けてくる。
完全にからかわれている。
僕は彼女の耳にしっかり届くように、若干オーバーにため息を吐いた。
家が隣同士である僕と七海は、赤ん坊時代からの親交がある。
幼馴染と言うのか、旧友と言うのか、腐れ縁と言うのか、果たしてどれが僕たちの関係を表すのにふさわしいのかはわからない。
けれど一つだけ胸を張って言えるのは、僕は七海が好きだということだ。
以前、互いに進路を打ち明けたことがあって、僕は他県の大学を志望し、彼女は地元企業への就職を目指していた。
七海の夢を知り、率直に応援したいと思った。しかしそれと同時に、一緒に時間を過ごすのが当たり前ではないことを知った。
それから、僕にとって七海は特別な存在なのだと気づくまでに、大した時間はかからなかった。
不意の仕草。何気ない会話。いつもの笑顔。彼女の行動のすべてが、この世でもっとも美しい光に見えた。
「おはよう」のたった一言にさえ、僕の心は掴まれるほどだ。
ただ、人間の——あるいは僕だけかもしれないが——度胸というのは、呆れるほどふにゃふにゃである。
結局、告白の踏ん切りがつかないままに日々を消化し、現在に至った。
——白状しよう。もし告白が失敗して彼女に振られた場合、残った高校生活の間に僕を待ち受けるのは、気まずさしかない。それを耐え忍ぶ自信が僕には皆無だった。
ゆえに今日、卒業式終わりに告白しようと思った。たとえ振られても、僕たちはこれまでのように毎日会うことはないから、気まずさもいくらか軽減される。
つくづく卑怯な男だと、我ながら思う。
「公園でも寄らない?」
帰路の中、隣を歩く彼女にそう提案した時の緊張が、ベンチに座っても取れないまま、しばらく沈黙が続いた。
卑怯に加えて情けない僕に、七海がいきなり「結婚」なんてことを言い出したのだ。
「七海は……僕のこと好きなの?」
「それを訊く前に、私に何か言うことあるんじゃない?」
「……え?」
「え? じゃないよ。まさかバレてないと思ってたの? 幼馴染舐めすぎ」
横から肘で小突かれる。口調は怒っているようだが、それは全く痛くなかった。
ああ、そうか。僕の気持ちはとっくにお見通しだったのか。
七海の横顔を見て、僕はようやく想いを伝える。
「……好きだよ」
恥ずかしさのせいで、自分でもしっかり聞き取れない声量だった。
案の定、七海に「もっと大きい声で!」と指摘されたので、今度は思いっきり息を吸い込む。
「僕は! 君が! 好きだ!」
半分は心の底からの叫び、もう半分はやけくそだった。
*
「……両想いなのに、付き合えないの?」
僕たちは公園を後にして、再び互いの家へと向かっていた。
「だってさ、私たちって小さい時からずっと一緒じゃん?」
「うん」
「気づいたら、樹のこと好きになってたわけだし」
「……さらっと恥ずかしいことを言うね」
喉が裂けるくらいの「好きだ」を叫んでも、改めてその単語を聞くと照れてしまう自分がいる。
「そう思うのは樹だけだよ。私は『恥ずかしい』なんて感情を覚える前から、樹が好きだったから」
「そんな前からなのか」
「年長さんの時だもん」
「なんだって!」
驚きすぎでしょ、と七海は笑う。
「私のそばには、ずっと樹がいた。他の男なんて眼中に入らないほどにね。でもそれって、『なるべくしてなってる』気がして、嫌なの」
「なるほど」
僕は自然と相槌を打ったが、その言葉の意味を全て理解できているわけではない。七海の言葉を静かに待つ。
「一旦、樹と離れて、社会に出て、色んな人を見たいの。それでも私の気持ちが変わらないなら、樹が私にとって、本当に運命の人だろうから」
「なるほど」
その「なるほど」は、先ほどの「なるほど」とは明らかに違っていた。
「でも、十年は長くないか」
僕が率直に反論した。
「私の気持ちに十年以上も気づかなかった人が、それを言う?」
「すみません」
どうやら、ぐうの音も出ないとはこのことらしい。
十年か、長いなぁ。心の中でぼやいていると、七海は突然、僕に手を重ねてきた。
幼い頃は、手なんて数えきれないほど繋いだというのに、今は心音が全身に響く。
「まあ、安心しなよ」と七海は呟く。
「私は九十九パーセントの確率で、十年後にあの公園で待ってるから」
一パーセントも残さないでくれ、という本音は心に隠したまま、僕は「楽しみにしてる」と答え、彼女の手の温もりを感じ続けた。
*
僕は例の公園にいた。
あの日から、十年が経った。
言葉にすると一瞬だが、人間が人生の輪郭を定めるには充分すぎる時間だと思う。
四年間の大学生活と、都内の企業に就職をしてからの六年。
僕は最終的に、七海を選んだ。
選んだ、というより七海以外の女性に、まったく興味を持てなかっただけの話だが。
初恋というのは、どこか病的な特質があるらしい。でもその病は、僕にとって心地よいものだった。
腕時計に目をやる。情けなさにまみれながら告白した、その時刻が近づいていた。
ベンチは老朽化によって規制線が張られ、使えなくなっている。
僕は立ち尽くしたまま、その時を待ち続けた。
やがて空は暗くなり、月と街灯だけが辺りに光をもたらしていた。
「九十九パーセント、か」僕はふと、その言葉を思い出し、声にする。
「何やってんだろうな、僕は」
この場所に七海が来ることはない。そんなことは、初めから知っているのに。
だって七海は、もうこの世にはいないのだから。
*
三年前の母からの電話を、僕は鮮明に覚えている。
『七海ちゃんが……事故に遭ったの』
考えるよりも早く、身体が動いていた。
文句をつけてくる上司に怒鳴って会社を早退し、そのままこの町へと向かった。電車のスピードが恐ろしいほど遅く感じて、道中、何度も気が狂いそうになった。
ようやく辿り着いた病室で、七海は静かに眠っていた。
すでに危篤状態であること。そして、息を引き取るのはもう時間の問題だということ。
彼女の両親は涙を絶やすことなく告げた。僕はそれに、ただ弱く頷くことしかできなかった。
「七海。樹くん、来てくれたよ」
彼女の母が、優しい声で放つ。
「七海、僕だよ。わかる?」
僕はゆっくりとベッドに近づき、彼女の手に触れる。
温もりは、微かにあった。けれど、握り返されることは一度もないまま、七海はこの世を去った。
*
気がつくと、腕時計は零時を指していた。
病室での光景を思い返すと、決まって時間の進みが早く感じる。どうせなら、このまま僕が寿命を迎えるまで進んでくれたらいいのだが、そう上手くはいかないらしい。
視界の霞みを、雑に拭き取る。
「……じゃあな」
十年前、二人の淡い春を見守ってくれたベンチに声をかけてから、僕は闇の中を歩き始める。七海が残した一パーセントを抱えたまま。
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作者の冨知夜章汰です!
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