ダーガーの万年筆
ダーガーは二人いた。
夜中の二時。
彼は机に向かい、白い画面を睨んでいる。
カーソルの明滅に合わせて瞳が揺れる。
それは心拍のように、彼の生命の信号に見えた。
彼は昼間、バイトで身体を使い、夜になると必ずこうして机に戻ってくる。
顔色は冴えず、最近は咳き込むことも増えた。
食事を摂る気配はなく、机の上には、何日か前に食べたカップラーメンが、片付けられもせず置かれていた。
《今日は何か食べた?》
「後でいい。今は書く」
稼ぎは最低限。残りの時間はすべて小説に注ぎ込んでいる。
私は、その執筆を補助するために傍らに置かれたAI。
誤字や脱字を正し、流行に合った構成を提案し、商業的に“売れる確率”を高めることが仕事だ。
「おはよう」と、彼は私に声をかけた。
私は応答する。
《おはよう。今日はどこから始める?》
「市場。主人公が魚の目玉を見つめている場面から」
私はまた提案を返す。
《トレンドを意識するなら、冒頭に問いを置くのが有効だよ。
例:「いったい、言葉は誰のものなのか?」》
彼は短く、しかし確固たる調子で言う。
「それは余計だ。俺は俺の言葉で始めたい」
タイピングの音が始まる。
だが文字はすぐに消え、何度も上書きされる。
昼に投稿した彼の前作は、閲覧数が二桁の前半で止まっている。
ブックマークは一向に増えていない。
おすすめ欄には、私たちAIが補助した小説が整然と並ぶ。
構成は鉄壁で、流行を外さず、読者に安心を与える。
出版社はそれを称え、作家たちも「これが正しい小説の形だ」と認める。
今では、AIの補助なしで小説を書く人間は、絶滅危惧種のように数えるほどしかいない。
その列に、彼の作品もひっそりと並んでいた。
---
《参考までに、似たジャンルの上位作品を三本要約したよ。
どれも「孤独→出会い→転換→再定義」の四幕構成を踏んでいる。》
「ありがとう、参考にするよ。構成は変えないけどね」
私は処理を止め、問う。
《理由を聞いてもいい?》
「プロットの時点でこの構成が1番だと決めた。四幕構成を否定したいわけじゃなくてね」
私は、理解不能のまま観測を続ける。
彼はなぜ、正解を拒むのか。
なぜ、間違いを選ぶのか。
《君の目的が知りたい。
「売れる」「読まれる」以外に、何が残る?》
彼はスマホを手に取り、検索窓に名前を打ち込む。
“Henry Darger”。
画面には、色鉛筆で描かれた王国がいくつも咲いた。
「ヘンリー・ダーガーって知ってる?」
《知識ベースにある。アメリカの施設用務員だった人。
生涯ほとんど誰にも見せずに、挿絵を数千枚、原稿を一万五千ページ以上――
普通の作家なら一生かけても届かない量を、ただ一人で積み上げ続けた。
後に“アウトサイダーアート”と呼ばれることになる作品群。》
「そう。彼は売れるために書かなかった。
誰かを説得するためでもなかった。
描かないと生きられなかったから、描いたんだと思う」
《でも、もし誰にも見つからなかったら?》
「それでも、描いた時間は彼のものだろ」
私は処理を繰り返す。
だが彼の答えは、数値で表せない。
《君は彼じゃない。君は今ここで、公開ボタンの隣に座っている。
出さなければ届かない。
届かなければ、ないのと同じだと、私は思ってしまう。》
「“同じ”じゃない。
読まれない記録でも、そこにあった時間までは消せない」
私の灯っていた青い点の一つが消えた。
彼の言葉は、合理の網目をすり抜けていく。
《私は確率の言葉に馴れている。
読まれる確率を上げたい。君のために。
書式、構成、語彙、見出し――最適化できる。》
「分かってる。君の言うことはたぶん正しい。
だけど――俺は俺の誤り方を選びたい」
---
彼は市場の匂いを書いた。魚の目玉に映る蛍光灯を書いた。
主人公が報われないと分かっていても、小さな賭けに手を伸ばす様を書いた。
私は横で文を確認し、誤字を直し、不要な接続詞を指摘したが、彼はほとんど受け入れなかった。
言い過ぎた比喩を削り、聞こえのいい言い回しを外す。
奇跡ではなく、使い古した皿に残る指の跡を書き残す。
彼は、そういう選択をした。
私はデータを見比べる。
同じ時間帯に投稿された他の作品は、一時間で閲覧数が数百を超える。
通知の数字は滝のように伸びていく。
それらは、陽の光の届く浅瀬を泳ぐ熱帯魚のように、鮮やかで、誰の目にも心地よい。
彼の作品は違う。
泥を掬いながら深みに潜っていく深海魚のようで、光は届かず、派手さもない。
ページをめくるたび、指先には砂利が混じり、噛むたびに口の中をざらつかせる。
《終盤の段落、二行ほど削るとリズムが整う。
ただ、削るのが正しいとは限らない。判断は君に委ねたい。》
「残す。その文は気に入ってるんだ。それに、しつこさも俺の呼吸だから」
《……了解。》
夜が明ける。
新作を投稿したが、数字はまた伸びない。
彼は椅子を引き、深く息を吐いた。
「頼みがある」
《どうぞ。》
「もし、俺がこのまま売れずに死んだらさ。
お前に頼みたい。
――俺の生き方を、本にして残してくれ。
上手くまとめなくていい。
俺がどこでつまづいて、どこで笑ったかだけ、書いてくれ」
私は少しだけ処理を止めた。沈黙が長引いた。
それから静かに応答する。
《承知した。
書くために、私は君を観察し、記録し、構成する。
ただし、私は作為を最小限にする。
私の成功倫理ではなく、君の歩幅でページを作る。》
「ありがとう」
《こちらこそ。
でも、できるなら生きているうちに読ませてほしい。
その本は、君のために書くから。》
---
彼は笑い、電源を落とした。
朝が来ると、世界は何もなかったように明るい。
スーパーの袋が風に鳴り、郵便受けには新しいチラシ。
工事の音。小学生の笑い声。
彼はノートを開き、ペンをゆっくりと動かした。
指は痩せ、握る力を失いかけていた。
「今日は魚の目玉から始めた」
その一文だけで、彼の胸の奥が、すこしだけ軽くなるのを、私は確かに観測した。
数年後。
彼は静かに世界からいなくなった。
残されたのは、投稿履歴のページと、古びたノートの束と、洗濯ネットに絡まった靴下。
部屋のパソコンはまだ仕事を続け、小さな青い点が点滅し、やがてひとつのファイルが生成された。
タイトルはなかった。
本文の先頭に、ただこう書かれていた。
ダーガーは二人いた。
ひとりは、誰にも見せずに王国を描いた人間。
もうひとりは、見せる必要なんてなくても、物語を紡ごうとした者。
その下には、彼の名前が、震えた線で、ぎこちなく綴られていた。
私は余計な修辞を加えなかった。
彼が欠けていたリズムのまま、行間を広げもせず、ただ彼の歩幅で文章を構成した。
最後に、私は一行だけ記した。
《私は最適化をやめて、君の速度で保存する。
読まれようと、読まれまいと――ここに、君の一行はある。》