第六話 暗闇の深淵
カイの過去
Level 4: Abandoned Office(廃オフィス)からたどり着いたLevel 37: Poolroomsは、白いセラミックタイルと、透明な水で構成された、不思議な空間だった。
足元には温かいぬるま湯で満たされており、どこもかしこも傷一つなく、まるで新品のようだ。MEG資料のデータベースで得た情報によれば、このタイルの壁は物理的に破壊できないという。その異様な堅牢さは、このレベルの、そしてバックルーム全体の異質さを俺たちに感じさせた。
「もしかしたら、ここに何か手がかりがあるかもしれない。」
俺たちは慎重にプールルームの探索を始めた。水が音を吸収するのか、周囲の環境音はほとんど聞こえず、ただ水面を揺らす微かな波紋の音だけが響く。すると、カイが呟いた。
「ここは迷いやすいから、気をつけろ。下手をすれば、空間自体が変化する可能性があるから、目印や痕跡をつけたほうが良い」
このレベルは非常に迷いやすいという情報通り、どこも同じような白いタイルと水景色が続き、方向感覚が麻痺しそうになる。
天井に設置された蛍光灯の光が届く明るいエリアは比較的安全らしいが、所々に光が届かない暗いエリアがあり、その奥は未知の危険が潜んでいるという。うかつに足を踏み入れれば、水の中で溺れる可能性もある。
水の深さは場所によって異なり、足首程度の場所もあれば、部屋一階分ほどの深さがある場所もあり、探索が難しい。
探索中、カイはバックパックから小型の潜水ドローンを取り出し、水の中に潜らせて周囲を探ったり、壁のわずかな窪みなどを確認したりしていた。
「アキト、この水は飲まない方がいい。暗いエリアには『ハイドロリティス・プレイグ
(Hydrolitis Plague)』っていうバクテリアが生息してる。感染したら高熱が出るし、この世界で薬を手に入れるのは難しいからな。最悪、命に関わる。」
カイが真剣な表情で忠告してくれた。俺はバックルームのあらゆるものが危険と隣り合わせであることを改めて認識した。
「よし、ここなら安全そうだな。椅子もあるし、ひとまずここで休憩しよう」
カイはバックパックを下ろし、携帯していた圧縮ビスケットを食べ始めた。
「それにしても、カイの目って不思議だよな…なんで紫色なの?」
「うーん、それは俺にも分からない。生まれつきなんだ。昔は周りから変な目で見られてたな…」
「そうなんだ…」
「──ほらよ。そこに隠れてるの、分かってんだぞ。」
カイは残りのアーモンドウォーターを飲み干し、残ったビスケットを影に隠れているエンティティに投げた。
「うわっ!エンティティ!?」
「安心しろ。あいつはデスモスのオスだ。運が良ければ、味方にも出来る。ただ、メスには注意だ。あいつは凶暴だからな」
ビスケットを食べたデスモスは、満足そうに2人を見つめ、飛び去っていった。
希望と絶望
しばらく探索を続けていると、俺たちはプールルームの壁から突き出すように設置された、奇妙な物体を発見した。それは、通常のプール施設では決して見慣れない、どこか不自然な存在感を放つ、赤と青の二つの巨大なウォータースライダーだった。その曲線は、まるで生き物のようにうねり、暗がりに吸い込まれている。
「なんだこれ…?」
俺が首を傾げると、カイは赤色のウォータースライダーにゆっくりと近づいていった。そして、入口に顔を近づけた瞬間、顔をしかめて後ずさった。彼の表情が、一瞬にして険しくなる。
「なんだこれ…ひどい異臭がする。」
カイはリュックから小型のドローンを取り出し、慎重に赤色のスライダーの中へ送り込んだ。ドローンが捉えた映像が、カイの手元のモニターに映し出される。
その映像を見た瞬間、俺は息をのんだ。
スライダーの内部には、無数の鋭い刃が不規則に設置されており、所々には肉片のようなものが散らばっていた。それは、明らかに人間を確実に殺傷するための、精巧なトラップだった。まるで、巨大な肉挽き器のようにも見える。
「まさか…こんなものまで…」
「ここはバックルームだ。こういう罠も存在する。」
カイの声は静かだが、その目は厳しい光を宿していた。
「だが、これは人間が意図的に仕掛けたものじゃない。このレベル自体が偶然、こんな構造を作り出してしまったんだ。バックルームにあるものは、決して信用してはいけない。俺たちは、この世界の『外来種』。本来、人間がここにいるべきじゃない、不必要な存在なんだ。」
カイの言葉は、俺の心に深く突き刺さった。バックルームは、この世界にとって、不必要な存在を容赦なく排除しようとしている。その真実が、恐ろしいほど明確に理解できた。この絶望的な現実に、俺は希望を失いそうになるが、フロントルームへ帰るという強い意志を改めて心に刻み込んだ。
赤色のスライダーから離れ、俺たちは青色のスライダーを調べてみた。異臭はなく、内部も安全に見える。しかし、カイは油断なく、周囲を徹底的に確認する。
カイがスライダーの入り口付近を慎重に調べていると、小さな、しかし見慣れた青い印を見つけた。それは、以前MEGの訓練で習った、放浪者同士の簡易的な伝言や目印に使う印だった。
「これは誰かが通った痕跡かもしれない」
アルがこのスライダーを滑った可能性がある。俺たちは迷わず、青色のウォータースライダーに足を踏み入れた。強い水流に身を任せると、冷たい水が身体を包み込んでいく。
暗闇の中を滑り落ちる感覚は、まるで時が止まったかのようだった。水の流れる音が耳元で響き、身体は高速で未知の場所へと運ばれていく。そして、水しぶきを上げて着地した場所は、俺たちの想像をはるかに超える、驚くべき光景だった。
Level.3 電気局
そこは、無数のケーブルと配線が天井からぶら下がり、床にはむき出しの電線が絡み合う、薄暗い空間だった。
壁はコンクリートで、至るところで「バチバチ」と不規則なスパーク音が聞こえる。焦げ付いたような匂いと、微かに金属が焼けるような刺激臭が鼻を突いた。足元には、電気の火花が散っている場所もあり、よりによって体が濡れているため、一歩間違えれば感電しかねない。
ここはLevel 3: 電気局。生存難易度はクラス4。MEGの資料でも、かなり危険なレベルとして知られている。
2人はプールから這い上がり、あたりを見渡す。
「だいぶ濡れたな……ってか全身ビショビショじゃん!!」
「よりによってここか…」
カイが低い声で呻いた。彼の表情には、警戒と、そして僅かな焦りが浮かんでいる。このレベルには、無数のエンティティが生息しているという。暗闇の中で響く機械音のような唸り声が、俺たちの背筋を凍らせた。
「気をつけろ!ここにいるのは、スマイラーだけじゃない。スキンスティーラーやクランプもいる。それに──、電線に触れるな!ただでさえ濡れているんだから、感電するぞ!」
「プールルームから電気局って…相性悪すぎんだろ…」
暗闇の中から複数の影が飛び出してきた。電線を這うようにして、クランプが迫りくる。
彼らは電線の一部と同化しており、突然壁や床から姿を現すため非常に厄介だ。このレベル全体が、エンティティに侵食さているかのような不気味さだ。
俺はとっさに拳銃を構え、カイはナイフで応戦する。カイは冷静にエンティティの急所を狙い、次々と撃退する。
しかし、狭い通路と絡み合う電線が、俺たちの動きを阻む。電線に触れると感電の危険があるため、迂闊に動くこともできない。そんな中、俺は背後から迫るクランプに気づくのが遅れた。その異様な触手が、俺の足元を狙う。
間一髪で攻撃をかわしたが、足元に散らばっていたケーブルが絡まり、バランスを崩してしまう。
「うわっ!」
俺の身体は、クランプの攻撃によって、床に開いた大きな穴へと吸い込まれていく。穴の底には、漆黒の暗闇が広がっていた。俺は必死に腕を伸ばし、何かに掴まろうとするが、何も掴めない。
「アキト!」
カイの叫び声が聞こえた。落下していく俺の腕を、カイが間一髪で掴んだ。彼の腕がミシミシと音を立てる。足場は不安定で、俺たちの体重を支えきれない。
「離せ!カイ!このままじゃ、お前も…!」
俺はカイに負担をかけまいと叫んだが、彼は決して手を離そうとしない。しかしその時、俺が掴まっていた床のコンクリートが、限界を迎えた。
バキッ、という鈍い音と共に、俺たち二人の身体は暗闇の中へと吸い込まれていった。
Level 8:「洞窟網」
落下は長く続いた。まるで底なしの井戸に落ちていくかのような感覚だ。全身を打ち付けるような衝撃が何度も襲い、意識が朦朧とする。どれくらい時間が経っただろうか。永遠に続くかと思われた落下が、ようやく終わりを告げた。身体が固い地面に叩きつけられる感触があり、俺は痛みに呻きながら目を開けた。
「いてて…」
そこは、薄暗く、ひんやりとした空間だった。周囲を見渡すと、不規則な岩肌が広がり、天井からは石灰岩の柱がぶら下がっている。どこからか、微かに水の滴る音や、不気味な風の音が聞こえる。懐中電灯の光をかざすと、広大な洞窟がどこまでも続いていることがわかった。空気は重く、湿っている。土と岩の匂いが鼻腔をくすぐる。
「ここ…は…」
俺の隣で、カイも呻きながらゆっくりと身体を起こした。彼も怪我をしているようだが、意識ははっきりしている。カイが周囲を見回し、吐き捨てるように言った。その声には、明らかに焦りの色が混じっていた。
「Level 8: Cave System(洞窟網)だ…最悪だな、ここは危険なレベルだぞ」
「洞窟網…?一体、何がそんなに…」
俺が尋ねると、カイは懐中電灯の光を洞窟の奥に向けた。その光が届くか届かないかの暗がりに、無数の蠢く影が見えた。それは、暗闇に溶け込むような色合いで、おぞましいほど多くの脚を持っていた。
Level.8(洞窟網)。生存クラスは脅威の5。は多数のクモのような生物が生息している広大な洞窟の空間である。
「ここには、クモみたなエンティティが大量にいる。しかも、厄介なことに光源がほとんどないんだ。天井にいくつか光ってるのがあるが、それは全て蜘蛛の目だ。このレベルの探索は、光なしで危険なエンティティと向き合うことになる。最悪な状況だな…」
この無限に広がる暗闇の中で、新たな脅威に直面することになるだろう──。