第五話 リミナルスペース
もし、貴方が誤って世界から外れ落ちてしまえば、湿気を帯びた異臭を放つカーペット、狂気じみたモノイエローの壁紙、そしてハム音のけたたましく鳴り響く、果てしなくどこまでも続く空虚な空間 "バックルーム" に迷い込んでしまうことになる。付近でなにかの気配を感じたならば、それは確実に貴方の声を聞いているだろう。不条理と不合理に呑まれた貴方に、あらん限りの救いを。
「ほう…随分と生意気な口をきくじゃねぇか。まだこのバックルームの厳しさを知らねぇようだな。お望み通り、ここで教えてやるよ」
リーダーが冷たい笑みを浮かべた。俺は咄嗟にカイを庇うように前に出ようとしたが、カイは俺の肩を掴んで制した。彼の指が、俺の肩を強く握りしめている。
「アキト、下がっていろ。こいつらは…俺が片付ける」
すると突然、カイの目が紫光の如く、光りだした。
「人間同士の殺し合いは久々だな──。」
カイは思考を巡らせる。
呼吸を整えろ。目をつぶって、空間を把握しろ──。ここに居る相手の人数は約5人。うち、目の前にいる一人はガタイが良い。恐らく肉弾戦に持ち込めば戦況は危うい。
リーダーはライフルで、後ろの連中はナイフ──。
──ん?腰に拳銃を携帯してるのか。リーダーの後ろに隠れて油断しているな。ならば、リーダーの隙をついて後ろに周り、端から片付けていく他ないだろう──。
これらの戦略図を瞬時で計算し、一番最適な戦略を見出す。
カイの顔は、先ほどまでの疲労の色とは全く異なっていた。そこには、研ぎ澄まされた刃のような冷徹さと、圧倒的なまでの自信が宿っていた。まるで、彼の中に眠っていた何かが、今この瞬間に目覚めたようだ。
BNTGの隊員たちは鼻で笑った。たった二人で、重武装した5人を相手に何をすると。隊員の一人が嘲笑しながら、リーダーが先制攻撃を仕掛けてきた。
「実行──。」
その瞬間、カイの動きは常人のそれをはるかに超えていた。
彼は流れるような動作で、リーダーの攻撃に対し、姿勢を低くしながら飛び込み、懐に入り込むと思いきや、リーダーを通り抜かして後ろの隊員を目掛けて一気に距離を詰める。不意を突かれた隊員がナイフを振りかざそうにも、事前にその動作をシュミレートしたかのような素早さで相手のナイフを叩き落とす。そして、腰につけている拳銃を相手が引き抜く前に、カイが相手の拳銃を抜き取った。
奪われた隊員が呆然とする中、カイは相手の頭部に銃床で叩きつけた。鈍い音と共に隊員は意識を失い、その場に崩れ落ちる。
俺は目の前の光景に息をのんだ。信じられない光景だ。彼の動きには一切の無駄がなく、的確で冷徹だ。
その後、4人を相手に接近戦に持ち込まれるが、意識を失った隊員を担ぎ上げ、盾にしながら距離を詰めていく、盾にしている隊員の身体に容赦なく銃弾が撃ち込まれるが、カイは冷静に急所を狙い、相手を完全に制圧する。一人、また一人と、BNTGの隊員が倒れていく。
最終的に生き残ったのはリーダーのみとなり、ナイフを抜き、静かに背後からカイを襲おうとした。だが、カイは気配で既に察知しており、素早く振り返ると、相手の手からナイフを弾き飛ばし、そのまま体術で制圧した。血に染まったナイフが、リーダーの頸動脈にぴたりと当てられている。
「筋肉はある癖に、意外と弱いな」
「言ったはずだ…お前みたいなやつと平等な取引はしな──」
「は?」
カイの声は、氷のように冷たかった。恐怖に染まった目でカイを見上げた。彼の額には、冷や汗がびっしりと浮かんでいる。
「頼む…頼むから殺さないでくれ…必要な物資は全部やるから…」
「バックルームには、秩序も法律もないんだろ?」
「──」
カイは、不必要な武器を無造作に放り投げた。その場には、制圧されたBNTG隊員と、散らばった物資が残された。
「アキト!良いものがたくさんあるぞ。」
カイは涼しい顔でBNTGが持っていた物資の中から、必要なものを手早く選別し始めた。大量のアーモンドウォーター、保存食、医療キット、予備の懐中電灯、ナイフと小型の銃。隊員が落とした装備の中から、使えそうな弾薬も回収する。
カイは慣れた手つきでそれらをリュックに詰め込んでいく。
「これで、必要なものは手に入ったな。時間も惜しい。もたもたしてると、他の支部が来るぞ」
俺は、改めてカイの恐ろしさと、そして何よりも頼もしさを感じていた。彼が味方で本当に良かったと、心から思った。
Level 37:The Poolrooms
BNTGから調達した物資は、俺たちの旅に十分なものだった。
「さて、アルを探す旅の始まりだ。まずは移動だな」
カイは廃オフィスの壁の一つを指差した。そこには、他の壁とは少し異なる、ガラス製のドアがあった。ドアの上には、緑色の文字で、「EXIT」のランプが点灯ている。俺は警戒しながらドアノブに手をかけたが、カイは迷うことなくドアを開けた。彼の表情には、この先のレベルに対する経験に裏打ちされた自信が見えた。
ドアの向こうに広がっていたのは、驚くべき光景だった。
そこは、どこまでも続く、白いタイルと透明な水に満たされた空間だった。天井は高く、どこまでも広がっているように見える。規則的に配置された柱、特に意味を成さない幾何学的な建造物。
水面は静かで、微かに塩素のような匂いが漂っている。水は透き通っており、膝まで浸かる所や、底が見えないほど深い所もある。
「Level 37: Poolroomsか…」
カイが呟いた。このレベルもまた、以前俺が迷い込んだLevel 0やLevel 1、あるいはLevel 2のような閉塞感も、Level -1のような絶望的な暗闇もなかった。
水に満たされているという点は共通しているが、どこか清涼感があり、エンティティの気配は感じられない。生存難易度はクラス1。
見た目に反して比較的安全な部類に入るらしい。MEGの資料でも、このレベルは比較的休憩場所として利用されることが多いと書かれていた。
俺たちはドアをくぐり、この無限のプールへと足を踏み入れた。タイル張りの床は水で覆われ、足首ほどの深さしかないが、場所によっては深く沈んでいる箇所もあるようだ。
どこからか、微かに水が滴る音だけが聞こえてくる。
アルを見つけるための新たな一歩だ。だが、この広大なプールルームのどこに、彼の手がかりが隠されているのだろうか。そして、次に俺たちを待ち受けるレベルは、一体どんな場所なのだろうか──。