8、親子
「ノベルさーん、そろそろ起きてくださーい」
元気に掃除をする千恵の声が、ノベルを呼び起こした。
「ああ、おはよう。……なんだ? シドが来たか?」
昨日に続き、シドの来訪かと思ったのか、ノベルはすぐに起き上がり、部屋を見渡す。
「いえ、まだ来ていませんよ。今日も来るんでしょうか」
「多分、奴のことだから定時報告に来るだろうな」
シドの仕事ぶりや生活習慣について語るノベルは、さすが長年の付き合いといったところか。
「そうなんだ。では、コーヒーをそろそろ淹れておきますね」
千恵はサイフォン式のコーヒーメーカーに水を入れて火を点け、豆を挽き始めた。
「なんだ、そんなもんどうした」
「棚の奥にあったんですよ」
「よく使い方知ってるな」
「おばあちゃんがよく使ってました。これ、楽しいですよね。さっき試したら、美味しかったですよ」
そんな会話を交わしているうちに、コンコン、と扉を叩く音が響く。
「はーい」
千恵が扉に向かい、名乗ったシドを招き入れた。
「おはようございます、警部」
「警部じゃねえけどな。まあ、座れや」
予定調和の流れを今日も繰り返すように、シドは苦笑まじりに応じる。
そこへちょうどいいタイミングで、淹れたコーヒーを千恵が二人に差し出した。
「ありがとうございます、千恵さん」
シドが礼を述べると、千恵もぺこりとお辞儀で返した。
「香りがいいですねぇ」
シドが思わず感嘆の声を漏らす。
「ありがとうございます。昨日マーケットで生豆を買ったんです。今朝焙煎したばかりなので、香りが強いですよね」
「へぇ……千恵は、おもしれぇことやってんな」
「これも、おばあちゃん仕込みです」
穏やかな空気のなか、千恵はノベルの隣に座り、ポケットから革製の手帳を取り出す。
「んじゃ、はじめっか」
「はい。では、まず時間が特定しました。事件があったのは、遺体発見の前日の深夜。現場はその発見場所です。足跡などから、言い合いや軽い揉み合いがあったことが分かりました。目撃者は現在おりません。そして次に、義理の息子が判明しました。亡くなった妻の連れ子です。名は『ジョン・スターキー』、年齢は四十五歳。職業は自営業で、ブルーウッド地区二番地でケーキ屋を営んでおります」
「なるほどな、そういうことか。元妻は再婚だったわけか。で、そいつに事件のことは知らせたのか?」
「はい、驚いてました。が、ちょっと変わった様子でした」
「なんだ?」
このやり取りを、千恵はすかさず手帳に記録していく。
「簡単にいうと、“親子の縁は切っている”とのことです」
「へぇ……まあ、義理の関係じゃギクシャクもするわな」
「そのような感じかと」
「んじゃ、とりあえず俺もあとで事情を伺ってみるか。他にはなんかあったか」
「昨日からの変化はそのくらいです。ただ——」
シドは手帳をパタンと閉じ、背広のポケットにしまうと、千恵の方へ身体を向けた。
「千恵さん」
「は、はいっ!? はい?」
突然呼ばれ、千恵は驚いて声を裏返す。
「例の犬をお引き取りになりませんか」
「ええっ!? な、なんでですか?」
「いえ、昨日千恵さんのお顔を拝見して、そのように感じたまでです」
「おいおい、うちじゃ犬なんて飼えねえぞ」
「やはり、千恵さんとご一緒に住まわれていると——」
シドがきっぱりと指摘する。
「ブフッ! あ、あのな、こいつは助手だっつってんだろ」
「助手だろうがなんだろうが、ご一緒に住まわれているのは事実では?」
「おいシドてめえ、その辺にしとけよ。あまりプライバシーにぶっ込んでくるんじゃねえ」
「失礼いたしました。では千恵さん、この話は無かったことに」
「あ、あの!」
千恵は、勝手に話が流れていくのを慌てて止めようとする。
「あの……その、わんちゃんを飼うのは難しいと思ってます。昨日もノベルさんとリンフィーナさんで、そのことについてお話しました。それで、自分でも考えたんです。私は、目の前の命が簡単に奪われてしまうことに慣れていないだけなんだって。世の中はそういうものなんだって。これからは、簡単にいろんなものに関わらないことも、大事なんだなって思ったんです」
千恵は、途切れながらも思いを紡いだ。ノベルとシドは、黙ってその言葉に耳を傾けていた。
「千恵さん」
「は、はい……」
短い沈黙ののち、シドが口を開いた。
「私も刑事であります。人の死に何度も立ち会ってきました。ですが“目の前の命が簡単に奪われることに慣れた”なんて思ったことは一度もありません。救えるものなら救いたい。そう思って私は仕事をしています。ノベル警部も過去、私にそう何度も教えてくれました。……千恵さん、できるなら、救ってあげてください」
シドはまっすぐ千恵の目を見据えて語った。
千恵は胸に手を当て、黙ってその言葉を受け止める。ノベルは腕を組み、咥えタバコのまま静かに見守っていた。
「シドさん、ありがとうございます。私、今、自分で何かを決めることができないんです」
「大丈夫です、千恵さん。警部は、なんとかしてくれますから」
珍しくシドは目を細め、目尻に皺を寄せて微笑んだ。
「おーい、勝手に決めんじゃねえぞ」
「でもこれ以上厄介者が増えたら、ノベルさんのお給料が……」
「だからさ、お前はなんですぐに俺の収入を気にすんだよ。それに金の問題じゃねえんだ。わかんだろ?」
ノベルは、怒るでもなく、静かに言い聞かせるように語った。
「……わかりました」
千恵はぐっと堪えて、声を殺して答えた。
「犬の保管期間は……おそらく一週間くらいかな」
メモを再びポケットから取り出しながら、シドが独り言のようにつぶやく。それは残酷な告知なのか、それとも——。
「さてと、今日はこのくらいか。んじゃ、少ししたら俺らも出かけるぞ」
「はい!」
千恵は気持ちを切り替え、なんとか元気に返事をした。
シドは署へと向かい、ノベルと千恵は被害者ポール・マトロックの妻の連れ子、ジョン・スターキーの営むケーキ屋がある、ブルーウッド地区二番地へと向かった。
ーーーーー
二人はジョン・スターキーの店の前に到着し、扉を開けた。
「いらっしゃい」
ジョンは、ごく普通のトーンで二人を迎えた。こちらをあまり見ることもなく、開店直後だからか、今朝仕上がったばかりのケーキをショーケースに並べる作業に集中していた。
「わぁ、美味しそう。チーズとりんごが重なってる」
千恵は甘いものに目がないようだ。
「おい千恵」
今日は目的が違う。すっかり忘れている様子の千恵に、ノベルは短く注意する。
「ごめんなさい」
千恵はすぐに謝り、ノベルの半歩後ろに下がった。
「悪いな。お前がジョン・スターキーか。ちょっと話を聞かせてくれ」
ノベルは胸の内ポケットから『捜査関係従事証明書』をチラリと取り出す。それは『捜査補助証』『探偵業務適性検査合格証』『魔法法令知識証明書』の三点を兼ね備えた、民間警備の証明書。つまり、警察手帳に類するものである。
「……昨日の夜、警察にお話ししましたが」
「すまねえ、多分、毎日来て話を聞かせてもらう」
「容疑者の一人ってことですか」
「そうなるな」
ジョンはしぶしぶながら二人を裏の勝手口へと案内し、そこで話をすることになった。
「義父は厳しい人でした。俺がこの店を開業するときも、えらく反対したんです」
「なんでだ?」
「義父は公務員だったんです。価値観がまるで違ったんです。商売なんてやるもんじゃない、と」
「なるほどな」
ノベルの代わりに、千恵が革製の手帳にさらさらとメモを取っていく。もはやその作業は、ノベルにとって当たり前の光景となっていた。
「親子の縁を切った経緯もそんなところか」
「まあ、そんな感じです。もともと別居でしたし、俺には特別な親子の感情はありません」
「わかった。また来るぜ」
「は、はい」
少しあっけなく終わったと思ったのか、ジョンは横にそらしていた視線をふと正し、ノベルを見た。
千恵もメモを取る手を止め、脇に挟んでいたカバンを持ち直し、ジョンに小さくお辞儀をしてノベルの背中を追いかけた。