6、ノベルの過去
「うう……頭いてえ……」
「ノベルさん、飲み過ぎですよ」
翌朝、千恵に早くから起こされ、ノベルは見事な二日酔いに襲われていた。早朝に事務所の扉をノックする音があり、千恵が応対に出ると、昨日の刑事が立っていたため、そのまま中へ招き入れていた。
「ああ……安酒は飲むもんじゃねえな……」
「ノベル警部、おはようございます」
「あ? ああ、シドか。なんども言ってるが、今の俺は警部じゃねえぞ」
「そうでした。失礼しました、警部」
千恵にとっては、やや不可解なやりとりから始まった朝だったが、ここで深掘りするのも野暮だと判断し、さっさとコーヒーを準備して二人にブラックを出した。
「警部、昨日も思ったのですが、彼女ができたんですか?」
「ブーッ!」
思わずコーヒーを吹き出すノベル。
吹きかけられた“シド”と呼ばれた刑事は無表情のまま、内ポケットから手拭いを取り出し、顔を丁寧に拭った。
「バカ言ってんじゃねえ。助手だ助手。昨日も言ったろ」
「しかし警部、一緒に住まわれているじゃないですか」
「いや、まあその……んなこたぁいいんだよ。で、何かわかったのか? 昨日の件だろ」
話題を無理やりにでも切り替えようとするノベル。
シドは頷き、胸ポケットから手帳を取り出すと報告を始めた。お茶の給仕を終えた千恵も、ノベルの隣に腰掛け、革製の手帳をポケットから取り出してメモの準備を整える。
「被害者の名はポール・マトロック。無職、年齢は七十五歳。住所は昨日お話しした通り、ブルーウッド地区三番地。商店が並ぶ賑やかな通りの一角にある一軒家です。ご存知の通り、同居人は一匹の犬のみ」
「被害者の特徴は?」
「特にありません。近所の評判も普通で、恨みを買うような人物でもなさそうです」
「家族はいねえのか」
「戸籍を調べたところ、妻は五年前に他界。子供はいないようです」
「わかった。今日は家の周辺で聞き込みでもしてくるわ」
「お願いします。こちらからもまた、追ってご報告に伺います」
「よろしくな」
そうしてシドは、千恵にも軽く会釈をしてから足早に出て行った。
「おつかれさまでした」
千恵はコーヒーのおかわりと、きれいになった灰皿をノベルの前にそっと置いた。
「ああ、サンキュー。これ飲んで一服して、少ししたら出かけてくるわ」
「聞き込みですか? 私も行きますね」
「千恵は置いてくぞ」
「えっ、なんでですか。私も行きますよ」
「なんでもなにも、聞き込みってのは地道で地味で、根気のいる作業なんだ。おまえにはまだ早え」
「二人で手分けすれば、その作業も二倍の速さです」
「いいや、ちょっとした情報を聞き出すにもテクニックってもんがあるんだ」
「そういうの、教えてくれれば助かります!」
押し問答がしばし続き、千恵のやる気に根負けしたノベルは、ついに折れた。
「……まあ、しょうがねえ。連れてってやるか」
「ありがとうございます! 準備しますね〜!」
こうしてしばらく後、ノベルと千恵はブルーウッド地区三番地へと聞き込みに向かった。
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「ところでノベルさん、“警部”って呼ばれてましたけど……?」
「ああ、そのうち話そうとは思ってたが、ちょうどいい。歩きながら話すか」
二人は石畳の坂道を並んで歩く。ノベルは心を落ち着かせるようにタバコに火をつけた。
「俺は昔、ロイヤルポリスっていう機関で働いてたんだ。王直属の王都警備隊、つまり軍属だ。わかるか?」
「なんとなく。日本にもきっと似たような組織、あったと思います」
「俺の若え頃は、まあ、正義感ってやつに燃えてた。でも、組織ってのはそう単純なもんじゃねえ」
咥えタバコをくゆらせながら、ノベルはどこか遠くを見つめる。
「上とも下とも、うまくいかなくてな。俺はこの通り、口下手だろ」
「そうですか?」
「今はちったぁマシになったかもな……まあ、どうでもいいか。その頃ちょうどいろいろあってな。三十になる頃だった」
ノベルはタバコの火種を指先ではじき、シケモクをタバコ缶に戻した。
「ほんと、いろいろあったんだよ。んで、嫌になって辞めた。たまたま資格があったから探偵事務所を開いた。──ってわけさ」
少しおどけた調子で話すノベル。具体的な事情は濁したが、千恵にはだいたい察せられた。
「私には、ノベルさんの過去に何があったかなんてわからないし、知る権利もないと思います。でも──いま、こうして探偵さんをしていなかったら、私はノベルさんに出会えてなかったかもしれない。それを思うと、今すごく感謝しています」
千恵の声にふと翳りがさす。人との出会いは一期一会であり、運命めいたものがあることはある。千恵はその“なにか”を、今この瞬間に感じていたのかもしれない。
「まあ……そういうことになるのかもな……」
ノベルはちらりと千恵に目をやり、再び正面の空を見上げた。どこか遠くへ思いを馳せながら。
ーーーーー
「そういえばマトロックさん、義理の息子さんがいらっしゃったはずよ」
そう話してくれたのは、被害者ポール・マトロックの近所に住む、クリーニング屋の女将だった。手当たり次第に聞き込みをしたが、シドが言っていた通り、目立った異変は見つからなかった。そんな中、ようやくつかんだ一つの手がかりだった。
「ありがとうございました。また伺わせていただきますね」
千恵は丁寧に挨拶し、ノベルと共に店を後にする。
「あの女将さん、最初とは違う感じで答えてくれましたね。これがテクニックってやつですかね!」
千恵は自分が聞き出せたことに、グッとガッツポーズを見せて誇らしげな表情をうかべた。
「なんかおめえ、いきなり板についてきやがったな」
「えへへ、そうですか? ノベルさんの真似して、口調を丁寧にしただけです!」
「へっ、俺はどうせ口が悪いですよ。まあやるじゃねえか」
言わずとも伝わることを、つい悪態のように吐くノベル。しかし聞き込み調査が煮詰まってきたところで得た一筋の糸だった。ここは素直に千恵を褒める。
「義理の息子か。どこにいるんだろうな」
「そうですね……おじいさんの家に、なにか手がかりがあるかも」
「そうだな。シドの連絡を待つか」
二人は近くのサウスタウンパークへ足を運び、ベンチに腰を下ろす。
「はい、これ」
「なんだこりゃ、いつの間につくったんだ?」
「昨日の残りをパンに挟んだだけですよ。余り物で作ったサンドウィッチですけど、どうぞ」
「こりゃありがてえ。いただくわ」
ノベルの食事といえば缶詰と酒が定番。昨夜の千恵の手料理に続き、久々の“まともな食事”だった。ノベルは上機嫌で、サンドウィッチを頬張った。
「水筒も持ってきましたよ。お水ですけど」
「なにからなにまで、悪いな」
「どういたしまして。──ところで、ノベルさんのお給料ってどうしてるんですか?」
「ゴフッ!!」
「わあっ!」
「いきなり男の収入聞くんじゃねえよ、ゲホゲホ……」
「はい、お水どうぞ。ごめんなさい、いきなり変なこと聞いちゃって」
「まあいいけどよ。さっき話した警察の件な。俺は今、委託みてえなもんで、ときどき捜査の依頼が民間の探偵に来るんだ。公にはできねえ案件とか、いろいろある。だから収入は不安定さ」
「なるほど。浮気調査とネコちゃん探しが主な業務って言ってましたもんね。それだけじゃ……生活は厳しいですよね?」
「たまには、でけえヤマが入ったりすんだよ。そういう時の分をちゃんと貯めてる。……つもりだ」
ノベルは、なんとなく千恵に導かれるように自分のことを語っていた。サンドウィッチの魔力もあったのかもしれない。
「シドさんは、その頃の部下さんなんですね」
「そうだ。ヤツは唯一、俺を理解してくれてた仲間だった。いまでも“警部”って呼びやがる」
「慕われてるんですね」
「んなこたあねえよ。警察だって一枚岩じゃねえ。誰につくか、誰につかれるか。岩が転がるようにコロコロとな。ま、組織ってのはそんなもんさ」
ご馳走様と言い、ふう、と食後の一服に煙をくゆらせるノベル。
その横顔を見つめながら、千恵はふと考える。自分はかつて何者だったのだろう。これからどこへ向かうのだろうと──また静かに、胸の奥で思いを巡らせていた。