3、ノベルの生活
ノベルと千恵のふたりは、リンフィーナが「洋服を取ってくる」と言って出て行き、さてどうしたものかと思っていた。
「私、片付けちゃいますね」
「……あ、ああ、俺がやるからいいぞ」
「いえ、やりますよ。ノベルさんは少し眠ってください」
千恵は、ノベルが自分を一晩中看病してくれたのだろうと察して、少しでも彼を休ませたいと申し出た。
「俺のことは心配すんな。昼夜逆転なんて日常茶飯事だからな」
「それって探偵さんっていう職業柄ですか?」
千恵はカチャカチャと洗い物をしながら、振り返らずに問いかける。
「ああ、そうだ。一晩中張り込みなんてこともあるし、三日寝ないなんてザラだ」
ノベルはソファにドサッと腰を下ろし、タバコに火をつけた。
「それじゃ身体、壊れちゃいます……本当に大丈夫なんですか?」
「まあ、慣れっこだな。もう二十年近くこんな仕事やってるからな」
ふう、とタバコの煙を天井へ向かって吐き出すノベル。
「失礼ですけど……ノベルさん、おいくつなんですか?」
「俺はいま三十九だ。つれあいはいねえ。家族もいねえ。ここは事務所兼自宅だ」
千恵が聞きたそうにしていることを先回りして語るノベル。けれど、核心には触れない。
「そう……ですか。あの……」
「わかってるよ、住む場所だろ? 外に出てから話そうと思ってたんだ」
ノベルは、千恵の気持ちを見透かしたように、なるべく気を遣わせないように話す。
「そうなんですよね……私、どうしたらいいんでしょうか」
「とりあえず宿を探そうと思ったが、まずお前、その顔立ちじゃ不審がられる。この辺じゃ見ないタイプだからな」
千恵の、やや独特な容貌についてノベルは口にした。
「顔立ち、ですか? そんなに珍しい顔、してます?」
「ああ。ちょっと変わってる。いや、変って意味じゃねえぞ」
「まあいいです……で、変わってると、どうなるんですか?」
「目立つってことだ。黒髪だし、その赤みがかった白い肌も珍しい。つまり注目を集めやすい」
ノベルの言うことは、千恵にもなんとなく理解できた。日本でも外国人が一人で歩いているだけで目立つ。ましてや挙動不審なら、警戒されて当然だ。
「なるほど、そうですよね……全然、自分のことわかってませんでした」
「わかりゃいい。で、思ったんだが……お前さんは、ここにいてくれ。俺は適当に外で過ごす」
「え? まさか、そんな……。それにここ、お仕事の事務所なんですよね?」
「気にすんな。張り込みや出張で帰らねえことも多い。綺麗な寝床じゃねえが、ここにいれば俺も安心できる」
一度関わった以上、見捨てるわけにはいかない——ノベルのそんな思いが、言葉に滲む。
「でも……それじゃ悪いなぁ」
洗い終えた食器を拭きながら、千恵はノベルに向き直り、その気遣いが心苦しくて視線を落とした。
「いいから気にすんなって。そのうち俺の仕事と生活が理解できっから」
ふと千恵は、室内を見渡す。ノベルの言う「仕事」と「生活」。
床はさほど散らかっていないが、灰皿は山、食器は洗われているが雑然としていて、ソファはボロボロ、カーテンは茶色くくすみ、よく見ると洗濯物も山積みになっていた。おそらく仕事関係の書類も、ところどころに散乱している。
「……あの、ノベルさん。お洗濯とか、どうしてるんですか?」
「あ? ああ、たまに家政婦呼んでやってもらってる。月に一回くらい」
「えぇ? じゃあ……今着てる服は?」
「……一週間くらい着てる……」
千恵は一瞬、クラッとした。これはダメだ、と頭を抱える。
「……わかりました。ノベルさん、私を家政婦として、ここで養ってもらえませんか?」
「はぁ? なに言ってんだ。そんなことできるわけねえだろ。仮にも男と女だ。それに雇えるほどの金もねえ」
「お金はいりません。しばらく置いていただけるだけでありがたいです。それに、命の恩人には逆らえませんので」
千恵はまっすぐな眼差しでノベルを見つめた。その決意は、少女のものとは思えなかった。
「……んなわけにはいかねえだろ。それに仕事っつうのは、無償じゃ成り立たねえ。それが一番やっちゃいけねえことだ」
「わかってます。私、中学の頃からアルバイトしてましたし。でも今は、そんなこと言ってる場合じゃないんです。お願いです、ここにいさせてください」
千恵は食い下がる。過去に少しだけ触れたが、核心には、やはり触れない。
「は〜……」
やっぱり厄介ごとになっちまった。ノベルはそう思う。最初に出会ったとき、こうなると予感していた通りだ。
「……ごめんなさい。やっぱり、厄介ですよね……私なんて……」
千恵もノベルの表情とため息から、それを察したのだろう。申し訳なさで胸が締めつけられる。
「いや、そうじゃねえ。厄介とか……思ってねえ。なんつうか……とにかくお前のことが心配なんだよ」
千恵は俯いたままだ。
「俺にはまだ、よくわからねえ。お前がどっか違う世界から飛んできたってのは、たぶん本当なんだろうし、今どんな気持ちでいるかも少しはわかるつもりだ。だからなるべく寄り添ってやりてえけど……」
ノベルはトーンを落として語りかけた。だが——
「……」
千恵の頬に、ぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
張り詰めていたものが切れたのだろう。どうしようもないこの状況で、ノベルとの会話で少し先がみえたのか、不安と悲しさが千恵のなかで弾けた。
「お、おいおい……泣くんじゃねえよ。わりい、俺の言い方が——」
ノベルが立ち上がり、千恵を慰めようとした、そのとき——
「お待たせしましたわ!」
やはり初回登場と同じく、バァン!と大きな音を立てて、扉が開く。リンフィーナだった。
だが彼女が見たのは、まさしく大人の男が、うら若き少女を泣かせているという“現場”であった。
「……は……?」
しばし、場は凍りついた。だがその沈黙を破ったのは、リンフィーナである。
「……の〜〜ゔぇ〜〜るぅ〜〜〜!!!!」
「いや違うんだ、これは誤解なんだ! な、千恵!」
「なにが誤解ですの!? 今まさに千恵が涙を流してらっしゃるではありませんの!」
何も聞く耳を持たないリンフィーナ。大きな風呂敷をドサッと床に落とすと、魔法のタクトをシャキッと取り出し、その切っ先に炎を灯した。
「うわぁあああ! 待て待て! 話を聞けって!」
ノベルが宥めようとするが、すでに火のついたリンフィーナは止まらない。
「え?」
ようやく、リンフィーナのヤバさに気づく千恵。
「覚悟なさい! ノベル!」
「あああっ、待ってリンちゃん!」
「待ちません! ……え?」
その瞬間、リンフィーナのタクトから炎が飛び出した。
「「「うわあああああ!」」」
なぜかリンフィーナまで一緒に叫ぶ。炎の玉は咄嗟に威力こそ抑えられたものの、部屋へと飛び込んでいく。
「「「ぎゃああああああ!」」」
ーーーーー
「……まったく……最後まで話を聞けっての……」
「も、申し訳ございませんわ……だって、千恵が泣いていたんですもの……」
「リンちゃん……ちゃんと話を聞こうね」
幸い小さなボヤで済んだが、三人で懸命に部屋に水をかけ、そのビショビショになった床や家具を雑巾で拭いて回っていた。
「ま、とにかく誤解が解けてよかったぜ」
「そ、そうですわね……わたくし、千恵の気持ちを考えていませんでしたわ」
「私も、ごめんなさい」
「いいんですのよ、千恵。いきなり異世界に来て、いきなりこんなボロ屋に連れてこられたんですもの。不安になるのも当然ですわ」
「ボロ屋で悪かったな」
そんな軽口を交わしながら掃除する3人。
「新しい家を探したらどうですの?」
「いやダメだ。商売ってのは立地が命なんだ。簡単には引っ越せねえ」
「あら、ここがいい立地だと? わたくし、この探偵事務所を探すのに苦労したんですのよ」
「うぐっ……ま、まあいろいろあるんだよ、ここには」
ノベルは言葉を濁すが、リンフィーナの言うことも一理ある。
「わたくしのお屋敷にいらっしゃるのはどうかしらね」
「わぁ……それは嬉しいし、ありがたいけど……」
「貴族様の屋敷なんて住めるわけねえだろ」
「まあそれもそうですわね。使用人たちにどんな目で見られることやら、ですわ」
「だから、知恵はここにいて、俺は外で暮らすよ」
「そんな……」
やはり申し訳なさを感じ、千恵はまた俯いてしまう。
「いいではありませんか。千恵が家政婦になると言っているのです。なにが問題なのです?」
「こんな、他人のおっさんと若い女が一緒にいたら、なにがあるかわからねえだろうが」
「あら、あなたはそんなことをしそうには見えませんけど?」
「買いかぶりすぎだ」
ノベルとリンフィーナは、当の千恵を置いて議論を交わす。
「……私、思ったんですけど」
ふと千恵が口を開いた。ふたりは同時に、彼女に目を向ける。
「私、ノベルさんの秘書兼助手兼家政婦になるってどうですか?」
ノベルとリンフィーナは、同時に口をあんぐりと開けて千恵を見つめた。
「この部屋の片付けやお掃除、お洗濯をして、書類整理、ノベルさんが留守のときは受付対応。あと、お仕事に同行してメモを取ったり……」
千恵はスッとポケットから革製の手帳を取り出した。
「これ、持ってこれてよかった」
手帳を見つめ、ほっとしたように笑う。
「……いやいや、さっきも言ったじゃねえか。そんな賃金なんて出せねえって」
ようやく我に返ったノベルが、しぶい顔で言った。
「これからお仕事を増やせばいいじゃないですか。私も、暇なときはアルバイトを探します」
「名案ですわ。でも千恵、あなた学校はどうするのです?」
「そうだね……いずれは通いたい、かな。そのためにも、学費を稼がなきゃ」
グッと両手の拳を握る千恵。吹っ切れたように、考えもまとまり始めていた。
「……わかったよ。んじゃその方向でいくか。千恵、まあよろしくな。あまり無理すんなよ」
「ありがとうございます、ノベルさん。はい、無理せず頑張ります!」
「よかったですわね。ではさっそく、わたくしのお洋服を見てくださいませ!」
そうして、千恵のファッションショーが始まり、しばらく楽しいひとときを過ごすのだった。