16、心の友達
土曜日
リゼロッテのチェス大会予選リーグの当日、ノベルと千恵は『王立歌劇座』へ向かっていた。
昨日までの特訓に付き合ってきた千恵は、当然その雄姿を見届けなければならないし、ノベルもノベルで、気になることがあるのだろう。
千恵は、この三日間でリゼロッテの対戦相手として、十分な手応えを感じていた。
「わあ、こんなに素敵なところなんですねぇ」
王都に入ってからというもの、街の中心部を歩く千恵は、感動を隠しきれない様子で、キョロキョロと王都の街並みを眺めながらつぶやいた。
「ここ『センチュリオン王国』は、もともと軍事国家だった。だが、とある革命をきっかけに、外国の文化を積極的に取り入れるようになったんだ。いまじゃこの王都『ミンチェスティ』は、観光が主な国家資源になってる」
ノベルは端的に千恵に説明する。
「なるほど……じゃあ、あそこにある大きな建物も観光地なんですか?」
「ありゃ有名な芸術家が設計した『大聖堂』だ。王の祖先である『唯一神』を崇めるためのもんらしい」
などとノベルは解説を交えつつ、千恵を案内しながら王立歌劇座へと歩を進めていくのだった。
「あ、いましたよ。おーい、リンちゃーん!」
「あなたたちは、いつも遅いですわ」
「悪いな、ちょっと寄り道してたんだ」
劇場前でリンフィーナと合流し、三人は特別観覧席に案内される。
チェス大会の行方を見守るためだ。
最終的に、予選リーグで勝ち越した者がトーナメントに進み、さらにその優勝者が国際大会へと出場することになる。
二日間の大会で、初日は予選リーグ、二日目がトーナメント戦だ。
初日である今日は午前と午後で、それぞれ四試合が行われる。
リゼロッテは現在、三勝四敗と負け越しており、トーナメント進出のためには、残りの三戦すべてに勝たなければならない。
「千恵、これをお使いなさい」
リンフィーナから双眼のオペラグラスを手渡され、千恵は受け取る。
「ありがとう。よかった、すごくよく見えるよ」
そして――チェスグランドマスター予選会が、ついに幕を開けた。
「リロの試合が始まりますわよ。リロ、勝てるといいのですけど……」
「きっと大丈夫だよ」
『私が特訓したから』というわけではない。教えられることは、すべて伝えた――千恵は、そう胸に思っていた。
「俺にゃ全然わかんねえ」
ノベルはそう言って、頭の後ろで腕を組む。
第一試合。リゼロッテは順当に勝利した。
対戦相手にも恵まれ、得意な戦法がうまく機能した形だった。
だが、リゼロッテはなぜか浮かない顔をしている。
「千恵、どうしたんですの?」
「うん? ん〜……リゼロッテさん、なんだか納得してないのかなぁ」
リゼロッテが、ほんのわずかだが俯き、影を落としたように見えた。千恵の目には、その微かな違和感が確かに映っていた。
少しの休憩の後、第二試合が始まる。
この試合でもリゼロッテは勝利を収めた。
だが、千恵の目には再び、同じく浮かない表情が読み取れた。
「リゼロッテさん、どうしたんだろう……」
リンフィーナにも聞こえないような、小さな独り言を呟いた千恵。
そうして二十分ほどの休憩を挟み、第三試合が始まる。
ここで、千恵は確信を得た。
「まずいね」
「どういうことですの?」
リンフィーナは、その声のトーンと、千恵らしからぬ言葉の選び方にわずかに驚き、思わず横顔を覗き込んだ。
「リゼロッテさん、負けるよ。これは無理」
「相手がお強いんですの?」
「ううん、違う。リンちゃん、次の休憩でリゼロッテさんに会えるかな?」
「ええ、二十分ありますわ。係の者に伝えて、呼び出してもらいましょう」
わずかに空気を変えた千恵を、ノベルは静かに、そして黙って見守っていた。
そして第三試合が終了し、二十分の休憩時間に入ると、三人は劇場の地下ロビーへと降りていき、呼び出してもらったリゼロッテと対面する。
(負けた直後とは思えない顔をしてる……)
千恵はリゼロッテの様子を見て、そう感じた。
なぜ呼ばれたのか分からず戸惑うリゼロッテだったが、千恵と視線が合うと、わずかにその目を逸らす。
その仕草を、千恵は見逃さなかった。
「リゼロッテさん。さっきの第三試合、わざと負けましたね?」
リゼロッテは、ハッと目を見開く。
リンフィーナは思わず顔を青ざめさせた。
「そんな……千恵、それはあんまりですわ。勝負は時の運と申しますでしょう?」
「違うよ。さっきのは明らかに『わざと』だった」
千恵は確信を持ってそう言い切った。
ノベルはその様子を静かに見守っていた。千恵がそう言うのだから、きっと何かある、そう思っていた。
リゼロッテは俯いたまま、スカートの裾を強く握りしめている。
「リロ、それは本当ですの……?」
信じたくないリンフィーナ。しかし、千恵の言葉もまた信じたいーーふたつの思いが胸で交錯していた。
だが、リゼロッテはなおも沈黙を守ったままだった。
「リゼロッテさん……」
千恵は一歩、彼女に詰め寄る。その少ない言葉が、『師匠』としての重みを持って、リゼロッテの心に響いた。
やがて、観念したようにリゼロッテが口を開く。
「あはは……千恵様には、やっぱりバレてしまいましたのですね……」
その声には、どこか重たさが滲んでいた。
「……わたくし、この大会で優勝して国際大会に進めたら、そのまま『留学』することになっていたんです」
普段とは違う、素の口調で話し出すリゼロッテ。
「そうだったんですの? それはすごいことですわ、リロ。でしたら、ぜひ次の試合も勝って、明日のトーナメントに」
「――違うんですっ!」
リゼロッテの悲痛な叫びに、リンフィーナも千恵も、そしてノベルまでもが驚いて身体をのけぞらせた。
「わたくし……留学なんてしたくないんです!」
「な、なぜですの? それほど素晴らしい機会は、他にありませんでしょう?」
リンフィーナには、その気持ちが理解できなかった。
「リンフィーナ様……ごめんなさい。……わたくし、あなたと離れたくないんです」
ぽつりと紡がれたその一言は、リンフィーナの胸を深く打った。
「なんということ……リロ、それはどうしてですの? 留学しても、また帰って来ればよいだけではありませんか」
リンフィーナは理解しきれず、リゼロッテの言葉の真意を探るように問いかける。
三人はロビーのソファに移動し、静かに腰を下ろす。
そしてリゼロッテは、訥々と胸の内を語り始めた。
「……わたくし、小さい頃からずっとリンフィーナ様に憧れていました。商人の家に生まれたわたくしにも、リンフィーナ様は分け隔てなく接してくださって……その優しさと、聡明さと、思いやりに満ちたお姿に、ずっとずっと惹かれていました」
リンフィーナは、その想いを静かに受け止めるように見つめ返す。
「わたくしは特に取り柄がありませんでしたが、チェスだけは得意でした。両親もその才能に気づいて、応援してくれて……でも、まさか『留学』なんて話になるとは、夢にも思いませんでした」
うつむいたまま、リゼロッテは淡々と続ける。
「こんなことになるなんて。……わたくし、本当は、リンフィーナ様と同じ大学に行って、一緒の時を過ごしていきたかったんです」
彼女は踵を少し上げて、膝の上で組んだ手を、ぎゅっと握りしめた。
「わたくしはリンフィーナ様と一緒にいたい。……外国なんて行きたくありません」
そう言って、スカートにひとしずく、涙を落とした。
隣に座るリンフィーナは、そっとリゼロッテの肩に手を置き、語り始めた。
「リロ……わたくしは、あなたが思っているような立派な人間ではありませんの。まだまだ未熟で、学ぶべきことは山ほどあります。きっとこれから、さまざまな出会いがあり、経験を通して、人は少しずつ成長していくのですわ」
リゼロッテは俯いたまま、静かにその声に耳を傾ける。
「時に、自分が思っていた道とは違う道を選ばなければならないこともあります。……自分の意志で決められないこともある。けれど、それもまた、わたくしたちに与えられた『使命』なのですわ」
リンフィーナは、自分の『貴族』としての生き方を、そこに重ねていた。
「いかに過酷な環境であろうと、わたくしには選択肢などありません。それを悲しみ、自由とは何か、学びが何の役に立つのかと嘆いたこともございます。……けれど、それを『運命』だと教えてくれたのは、千恵だったのです」
千恵は、自分の名前が唐突に出てきたことに驚き、思わず顔を上げる。
「詳しくはまだ言えませんが、千恵は――ある場所から飛ばされてきた存在です。……あなたもうすうす感じていたでしょうけれど、この『センチュリオン王国』の人間ではありませんのよ」
リゼロッテも顔を上げ、千恵とリンフィーナの両方を見つめる。
「千恵は、わたくしたちとは全く異なる知識や価値観を持っていて……その話は本当に興味深く、そして、楽しいものでした。もちろん、その境遇を思うと胸が痛みます。けれど、今のわたくしにとって、千恵はかけがえのない友人です。そして――」
リンフィーナは、そっとリゼロッテを抱き寄せた。
「リロ、あなたも、わたくしにとってはとても大切な幼馴染で、かけがえのない親友です。あなたが選ぶ道でも、そうでない道でも、わたくしは全力で応援いたします。そして、どんなに離れても、どんな環境になろうとも、心だけは決して離れませんわ。……未来永劫、ずっとずっと、友達でいましょう」
そう言って、リンフィーナはその腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
リゼロッテは、彼女の胸の中で、涙を流していた。
ーーーーー
そして、迎えた次の試合
リゼロッテは、静かに敗れた。
これで予選リーグ敗退が決定し、今年のグランドマスター大会への道は閉ざされた。
だが、彼女の顔はどこか晴れやかだった。
清々しさすら感じさせる表情で、負けを悔いる様子はなかった。
まるで、すべてを受け入れ、やり切った者だけが見せる穏やかな笑みだった。
千恵は、そのリゼロッテに静かに拍手を贈る。
そして優しく、その背中を見つめていた。
帰り道――
「千恵、……あなたのおかげね」
「えっ?」
思いもよらない言葉に、千恵は目を丸くしてリンフィーナを見上げた。
「あなたがいてくれたから、リロはきっと、立ち直れたのですわ。……わたくし一人では、あの子を説得することはできなかったと思います。本当に、感謝いたしますわ、千恵」
「わ、わたし? な、なんにもしてないよ!」
千恵は思わず首を振る。
「むしろ……あんなふうにリゼロッテさんに言えるリンちゃんのほうがすごいと思ってた。……あんなふうに、誰かのことをあんなに想って言葉をかけるなんて、私にはできるかわからないなって、考えてたくらい」
彼女は、リンフィーナの人としての深さに、改めて感嘆していた。
「あなたを引き合いに出してしまって……しかも、出過ぎたことを申し上げましたわ。……本当に、ごめんなさい」
リンフィーナは、千恵の『出自』に関わることを口にしたことを詫びた。
「いやいや! 誤魔化してたわけじゃないけど……ぼかしてたのは私の方だし」
千恵はふっと微笑む。
「……今度、リゼロッテさんにもちゃんと説明するね」
そう言って二人は、自然と歩調を合わせながら、ぽつぽつと互いのことを話しつつ帰路についた。
ーーーーー
三人はそのままマーケット街に寄り道し、晩ご飯の買い出しをしてから事務所へと戻った。
そして、その玄関先には――
「……あら、マルス。どうされたのですか?」
「はっ! 本日もご帰宅が遅くなるとお聞きしまして! お嬢様のお帰りを護衛すべく、先回りしてここで待機しておりました!」
マルスはいつものように、背筋を伸ばして言い放つ。
「ふふ、ありがとう。……千恵?」
「うん、大丈夫だよ。……マルスさんも、一緒に晩ご飯、食べていこ?」
「はうっ! わ、わたくしめも……頂いてよろしいのでしょうか!? 千恵様の手料理……ご、ごくり……!」
ノベルは後ろでやれやれといった表情を浮かべていたが、つい先日ブランデーをもらった手前、何も言えずにいた。
こうして、リゼロッテのチェス特訓はひとまずの幕を閉じ――
その夜は、今日一日の出来事を語り合いながら、にぎやかで温かい夕食の時間となったのだった。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
秋ごろ再開します。




