15、特訓
木曜日
千恵がリンフィーナの依頼によるリゼロッテの特訓を請け負った翌朝。
彼女はいつものように部屋の片付けをし、掃除や洗濯に勤しんでいた。
「今日からお風呂、使えそうですよ」
ようやく風呂が使えそうだと、千恵は少し嬉しそうにノベルに声をかける。ノベルは書類整理の佳境に入っていた。
「そうか。俺は特に不便してねぇんだがな」
「私はもう、そろそろ髪をざぶっと洗いたいんですよ」
「川にでも行ってこい」
ノベルのずぼらな生活にはだいぶ慣れてきたが、千恵自身はそろそろ限界だった。
これまでは手ぬぐいを濡らして身体を拭いていたが、やはり温かい風呂に浸かりたい。
「お湯を出すことってできるんですか?」
「ああ。外にある湯沸かし装置に火を入れてもらうんだ。一回ごとに金を払うがな」
日毎に使える量が決まっていて、だいたい一日で燃料が尽きるらしい。
「じゃあ、それをお願いしに行ってきますね。ついでにお買い物も」
「んじゃ、俺も行くか」
こうして二人は、マーケット街へと出かけていった。
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「次のお仕事って、入ってないんですか?」
道すがら、千恵が探偵としての本業について尋ねる。
「ああ。こないだの事件は棚ぼただったしな。そろそろ依頼が欲しいところだ」
基本的に『待つ商売』である探偵業。依頼がなければ当然仕事はなく、かといってこちらから営業をかけて「調査しますよ」などと声をかける探偵も存在しない。
むしろ、『草の者』的な一面を持つ職種でもあった。
「じゃあ、そういう時期のためにも節約して、お金を貯めておかないとですね」
「俺自身はそれほど金はかかってねえぞ。酒と缶詰とタバコぐらいだ」
「これから私にかかるお金をなんとかしないと……」
生活費がどのくらいかかるのか、千恵は内心で胸算用していた。基本的な生活は食費や水道、魔道エネルギー代、いずれは学校へ通うための学費、制服代、普段の洋服やカバン。そして最終的には独立して一人暮らし……など、口にこそ出さずに考えていた。
「あんま気にしなくていい。そこまで困らねえ程度には毎月、なんだかんだで仕事がある」
「そうですか……でも、やっぱり私もアルバイトを探してみます」
「ま、それも悪くねえかもな」
そんな会話を交わしながら、『魔導商会』に立ち寄り、ノベルの家の湯沸かし器の火入れを頼み、その足で食材の買い出しにも向かった。
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昼食を終えて、片付けを再開してしばらくした頃。
「おじゃましますわ!」
リンフィーナがやってきた。今日は幾分、扉をあける強い勢いがない。
「穏やかに開けたら勝手に入っていいってわけじゃねぇぞ、リン」
「細かい殿方は嫌われますわよ、ノベル」
「こんにちは、リンちゃん」
挨拶もそこそこに、連れの者が後から入ってくる。
「こんにちはなのです。おじゃましますなのです」
「いらっしゃい、リゼロッテさん……と、あれ?」
「ご、ご機嫌いかがでしょうか千恵様。突然の訪問、失礼いたします」
マルスも同行していた。
「こ、こんにちはマルスさん。この間はありがとうございました。ちゃんとお礼言えてなくて、すみません」
「いえいえ!とんでもございません!わたくしめが勝手にしたことでございます!」
手のひらをブンブンと振るマルス。どうやら千恵のことになると、調子が狂うらしい。
「まったく……マルスったら、わたくしたちの特訓の話をしたら、どうしても自分も連れてけとうるさくて困りましたの」
「そうなんですか? マルスさん、チェスできるんですか?」
千恵がマルスに向き直って訊ねる。
「はい。わたくし、幼少のころよりチェスやリバーシに親しんでおりまして、それなりに自信がございます」
「そうなんですか!それだったらお手伝いしてもらえるのかな?」
千恵が小首をかしげてマルスに伺う。
「あぅっ!!なんと可愛らしい仕草……! あ、いえ、ゴホン、失礼。ええ、ぜひともリゼロッテ様のお相手は、この『マルス・ヴィクトラクト』にお任せくださいませ!」
片腕を折り、すっと優雅にお辞儀をするマルス。千恵は一瞬固まったが、すぐに気を取り直し、「では、どうぞ」と部屋の中へと案内した。
ノベルは相変わらず書類整理に没頭していたが、他の面々はテーブルを囲み、チェスボードと将棋盤を準備し始める。千恵は皆のために飲み物を用意する。
「今日はお菓子をお持ちしましたのよ」
「うわわっ!すごい! これ……工芸品か何かかな?」
リンフィーナが持ってきたお菓子があまりにも美しく、まるで芸術作品のようで、千恵は思わず感嘆の声を上げた。
「これはグロリアーナ家のパティシエに作っていただいたものですの。遠慮なく召し上がってくださいませ」
もったいな~い、とか、いつ見てもリンフィーナ様のお菓子は素敵、とか、千恵、リンフィーナ、リゼロッテの三人で、ちょっとした女子会のような空気が広がっていた。
「まったく……ここは女どもの溜まり場じゃねえっつうの……」
ノベルがぼやく。事務所が暇なせいもあり、いつの間にか女子高生の憩いの場と化しているのが、どうにも気に入らないらしい。
「ノベル殿、今日はこれをお持ちいたしまして」
マルスが大きな包みの中から、きらびやかなボトルのブランデーを取り出し、ノベルに差し出す。
「うほっ! こりゃすげぇ……もらっていいのか?」
「ええ、もちろん。お嬢様がいつもお世話になっておりますから、このくらいは当然です」
マルスはキリッとした眉に、紫色の澄んだ瞳の爽やかな笑顔で、ノベルにそう答えた。
「わりいなぁ。そんじゃ遠慮なくいただくぜ」
ノベルはすっかり上機嫌になり、それ以降は一切文句も言わず、書類整理に専念するのだった。
「わあ、素敵なチェスのセットですね」
「千恵の力作もたいしたものですわ。これが『将棋』……この文字、不思議な形ですわね」
「なんだか神秘的なのです。文字に『魂』が宿っているようなのです」
リンフィーナとリゼロッテは、初めて見る『漢字』に大いに興味を示した。
「急いで作ったから、本物の書体とは程遠いけど……とりあえず説明するね」
千恵はリンフィーナとリゼロッテ、そしてマルスに、将棋とチェスの違いやルールを解説し、まずは試しに一局ずつ対局することにした。
「わたくしは少し見学いたしますわ。到底、あなたたちには敵いませんもの」
リンフィーナは、こうした頭脳戦が苦手らしい。
「では、わたくしがまず千恵様と対戦いたしますのです。よろしくお願いしますのです」
そうして、千恵とリゼロッテの対局が始まった。
もちろん千恵の実力が圧倒的ではあるが、彼女は徐々に戦法を教えながら、定跡を交えてリゼロッテの理解を深めていった。
「すごいのです、千恵様。とてもじゃないけれど、今のわたくしでは到底及ばないのです」
「そ、そうかな……」
まだまだ自分のもつ力の半分もだしてない、と思う千恵だが口には出さない。
「もう千恵の凄さはわかりましたわ。ではマルス、一度千恵とチェスをしてみては?」
「は、はいっ! それでは恐縮ながら、わたくしマルスが、一局お手合わせ願えますでしょうか!」
「わかりました。かなりの腕前とのこと。私も楽しみです」
千恵も、この辺りで少し本気を出そうと心を決めるのだった。
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「えっと、ノベル殿! コーヒーのおかわりはいかがでしょうか!」
「お、すまねえ、サンキュー」
「お嬢様、お紅茶がよく蒸らされております」
「ありがとう。いい香りね」
「千恵様! リゼロッテ様!」
マルスは忙しく給仕に立ち回っていた。
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やがて日が暮れようとする夕方。
「今日はこの辺にしておきましょう。次のリーグ戦は、明後日でしたわね、リロ」
「はいなのです。土曜日の朝、王都の楽劇館で行われますのです」
「じゃあ明日も特訓して、万全の状態で臨まないとですね!」
こうして、今日の特訓は幕を閉じ、また新たな明日へと続いていくのだった。




