13、チェス
水曜日
お昼になる時間、ノベルと千恵は事務所から外出し、いつものマーケット街へと足を運んでいた。
千恵は賃金のほかに、ノベルから生活費として数日分の食費を受け取っており、これからは本格的に自炊を始めるつもりだった。そのため、パスタや小麦粉のような保存の効く食材、塩・砂糖・胡椒といった基本的な調味料などを中心に買い揃えようとしていた。
「冷蔵庫がほしいですね〜」
「なんだその冷蔵庫ってのは」
千恵は冷蔵庫の説明を始めた。形は単純だが、仕組みや構造は少し難しい。彼女は本で得た知識を交えながら、懸命に説明する。
「へぇ、そんなもんがあったのか。日本ってのは便利だったんだな」
「そうなんです。そういう時代や文化のギャップに、今は苦しんでます」
千恵は、日々の暮らしの中で感じる不便さに、改めて戸惑いを覚えていた。
「リンの魔法でなんとかならねえかな」
「リンちゃんは炎の使い手ですよね?」
「その炎の力を反作用できるんじゃねえか?」
「私、理科は苦手で……」
そんなやりとりを交わしながら、二人は買い物を楽しく過ごしていた。
ーーーーー
「こりゃうめえ」
「えへへ」
ノベルと千恵は、ちょっと遅めの昼食を摂っていた。今回は、パスタにタマゴ、ベーコン、チーズ、牛乳を使って、千恵がカルボナーラ風の一皿をごちそうしていた。
「こんなうめえの……ムシャムシャ……ひさしく食ってねえ……もぐもぐ」
「ノベルさん、食事はいつもどうしてたんですか?」
「酒と缶詰だ」
「ええ!? だからそんなにガリガリなんだ……」
「別に、これまで生きてこれたから問題ねえ」
いまさらながらノベルの食生活に驚く千恵。自分がこの世界に来ていなければ、この人はきっと早死にしていたんじゃないか——そう思いながらも、口には出さなかった。
食後、千恵がコーヒーを出すと、ノベルはありがたくそれをすすり、タバコに火をつける。
「この、食後のコーヒーにタバコ、最高だな……」
その日、千恵は自室の片付けに加え、少しだけ家具を移動し、模様替えもしていた。一人がけのソファを窓際に置き、そこをノベルの喫煙スペースとしたのだ。
ノベルはそのソファにどかっと座り、足を組み、気分よくタバコをくゆらせる。
千恵は片付けを終えた後、そのそばのソファに座り、革製の手帳になにかを書き込んでいた。
「なにやってんだ?」
「えっと……日記みたいなものです」
「そっか」
ノベルはまたタバコを吸い、ポポポと煙の輪っかを吹き出して遊ぶ。
しばらく穏やかな時間が流れた、そのとき——。
「お邪魔しますわ!」
リンフィーナがバンッと扉を開け、大声で登場した。
「リン、おめえはノックっていう概念はねえのか?」
「急ぎだったんですのよ」
「こんにちは、リンちゃん」
「いてよかったですわ。ご機嫌いかがですか? おふたりとも」
挨拶もそこそこに、リンフィーナは部屋へ入ってくる。
「さ、お入りなさい」
リンフィーナの後ろからは、おずおずとした、少し引っ込み思案そうな少女がもじもじと姿を見せた。
「ん?」
「あれ? リンちゃんのお友達?」
ノベルと千恵は、その少女に視線を向ける。
「今日はおり入って相談がございますの。わたくしの幼馴染のことですわ」
ノベルは「ふぅん」と横目で千恵とリンフィーナの方を見たのち、またタバコをくゆらせ始める。今回は自分には関係ない、とでも思ったのだろうか。
リンフィーナとその少女は、千恵に迎え入れられてソファに座った。
「さ、リロ。ご挨拶なさい」
「は、初めましてなのです……リゼロッテ・フリージアと申しますのです……」
「わあ……素敵なお名前ですね……」
千恵はリゼロッテの名に思わず魅了された。
「そ、そんなっ、そんなっ」
あせあせと汗を飛ばすリゼロッテ。その少女はメガネでくりっとしたまん丸の目、三つ編みのふたつおさげのリンフィーナの友人にしては割と地味目なほうだ。
千恵も自己紹介を済ませ、ノベルは遠くから軽く名乗るだけだった。
「リロはとても優秀ですの。彼女は多才なのですが、特にチェスの腕前は相当なものでして」
千恵の指がピクっと動く。やはり気になって二人の方を向いていたノベルは、その動きを見逃さなかった。
「ところが今、開催されている『チェス・グランドマスター選手権』の予選会リーグ戦で、リロは現在負け越しているんですの」
「へぇ……すごいね。グランドマスターって国際大会ってことなのかな?」
「そうなんですの。その予選を勝ち抜けば、本戦に出場できるのですわ」
「そうなんだ……それで、今回の相談ってなぁに?」
「ノベルと千恵にぜひ、リロのチェスの相手を探していただきたいのですわ。ノベルはどなたかご存知ありませんの?」
「知らねえな。チェスがうめえやつなんて、その辺にゴロゴロいるんじゃねえか?」
「まったくリロの相手にならないんですの。ちょっとやそっとではリロには勝てませんのよ」
リンフィーナは、自分のことのように誇らしげに胸を張る。
「なんでおめえがドヤってんだよ。まあ、そう言うことなら探してやってもいいぜ。な?」
ノベルはそう言って、一人の少女へと目を向け、水を向ける。
その者はうつむき、なぜか小さく震えていた。
「あら、千恵。あなた、もしかして」
「……うーん、黙ってようと思ったけど、ノベルさんにはバレちゃったかぁ」
千恵はちょっと照れたようにして、頭をかく。
「私、実はボードゲームが得意で、おばあちゃんに色んな種類のゲームを教わってよく対戦してたんだ」
「そうでしたの。以前もお聞きしましたが、千恵のお祖母様は本当に素晴らしい方でしたのね」
「うん。でもチェスよりも私は『将棋』っていう、少し似てて、でも違うゲームのほうが得意なんだけど」
「そうなのですか? その『将棋』をというものを教えていただいてもよろしいですか?」
リゼロッテが丸い瞳をさらに見開き、ほんの少し身を乗り出す。
「えっとね、まずマス目が9×9の81マスで、コマの種類が8種類で合計20個 、歩9、香車2、桂馬2、銀2、金2、角行1、飛車1、王将1、で、戦法が独特なものがたくさんあって、取った駒を再利用できて、それでね、将棋に使う盤が榧っていう貴重な木材でこれがシナモンみたいな良い香りがしてね、将棋の駒は御蔵島っていう島で採取できるこれがまた貴重な木材で『本つげ』っていう素材ですごく音が綺麗で虎斑っていう縞模様もとても美しくてね、駒には文字が書いてあるんだけどその書体が何種類もあって大きくわけて人気なのは四種類あって私は特に『菱湖』っていう書体が大好きで」
「も、もうわかりましたわ千恵。その辺にしていただいてもよろしくて。ねえリロ——」
千恵のマシンガントークに圧倒されたリンフィーナは、リゼロッテに助けを求めて視線を向けたが——。
「はぁ……なんて熱い語りなのでしょう……」
リゼロッテは、千恵の爆熱トークにむしろうっとりと惚れ惚れしていた。
「こういうの、同類項とでも言うのかしら……わたくしにはさっぱりわかりませんわ」
「俺にもわかんねえぜ。でも、こんなに目が輝く千恵も悪くねえな」
千恵の新たな一面を目の当たりにしたノベルとリンフィーナは、それぞれに異なる反応を示していた。
「ご、ごめんなさい。つい我を見失っちゃって……」
「そんなにその『将棋』が好きなのですね。わかりましたわ。それなら千恵も相当な腕前なのでしょう?」
「えっと……おばあちゃんには勝てたことないけど……友達とか、学校の先生には負けたことないよ」
そのとき、千恵の瞳に何か赤いものが灯ったように見えた。
「チェスでもよろしくて?」
「うん、大丈夫だよ」
「では千恵様……お手合わせしていただいてもよろしいでしょうか?」
「うん、わかりました。ぜひぜひ!」
「では、千恵様。お願いしますなのです」
リゼロッテのメガネがキランと光る。
こうして千恵とリゼロッテは、紙で作った即席のチェス盤で、対戦を開始することとなった。




