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12、千恵の異世界生活

水曜日

 昨日までの事件――『ブルーウッド公園殺人事件』が解決し、一夜明けたノベル探偵事務所では、今朝もまた、千恵がせっせと掃除や洗濯に励んでいた。


 途中で中断はしたものの、ノベルの書類整理もわりと捗っていて、そろそろ棚やデスクもすっきり片付きそうな様相を呈していた。千恵は大事なものと不要なものをノベルに仕分けてもらっていたので、不要なものをゴミの日にまとめて出す。近くのゴミステーションで待っていれば、大きな荷車で回収してくれる行政の仕事があるという。


「ふう……やっとここまで片付いたぁ。これでおふとん置けるかな?」


 千恵は広々とした部屋を見渡した。ノベルの家は一軒家とはいっても平屋の住宅で、お世辞にも大きいとは言えない。ただ、片付けが進むにつれて、デスクの配置や散乱していた書類・本が棚に収まっていけば、思いのほかスペースは生まれた。


 日本の感覚で言えば、約二十畳ほど。半分が事務所、もう半分が居住スペース。キッチンと洗面台、手動の洗濯機、風呂とトイレも備わっている。水道が通っていて、浄化槽もあり、想像以上に近代的な生活ができる場所だった。


 その中でも千恵が気になっていたのは、男の一人暮らしにしては家財道具が意外と揃っていることだった。事務所を兼ねているため、客用の食器やソファ、椅子、コーヒードリッパーなどがあるのは自然だが、この間キッチンの棚の奥から見つけたサイフォン式のコーヒーメーカーや、大小のフライパン、パスタケースなど、どうにもノベルが使っているようには思えない品もあった。


「彼女がいたこと、あったのかな……?」


 千恵は独り言のように、ぽつりと疑問を口にした。まあ、それほど気にすることでもないし、女の一人や二人くらいいたっておかしくはない――そんな風に考えながら、また片付けに戻っていた。


 気づけば、昼前の時間になっていた。


 ノベルは「いろいろやってくる」とだけ言い残して、彼にしては珍しく早めに外出していた。


 そして、そのノベルがようやく帰ってきた。


「戻ったぜ」

「あっ、お帰りなさい。早かったですね」

「ああ、今回はすんなりことがすんだ」

「どこに行ってたんですか?」


 千恵が思い切って尋ねると、ノベルは不敵な笑みを浮かべて、気持ち悪い横顔を千恵に向けた。


「へへ、聞きてえか」

「いえ、言えないことならいいんです」

「まあそう言わず、ちょっとそこに座れや」


 ノベルは千恵に掃除の手を止めさせ、ソファに座るよう促した。そして向かい合う形でノベルも腰を下ろす。


「な、なんでしょう……」


 千恵は一抹の不安を覚えた。まさか何か悪いことでもしてきたのか――そんな考えが頭をよぎり、胸の動悸が速まる。


 そんな彼女の不安をよそに、ノベルはいつも被っているボルサリーノ風の帽子をテーブルに置き、背広の内ポケットからなにやら分厚い封筒を取り出し、ドサリと音を立ててテーブルに置いた。


「じゃーん。今月の報酬です!」


 ノベルらしからぬ浮かれた口調で、千恵にどうだと言わんばかりのドヤ顔を見せた。


「わぁ!すごい! こんな分厚い封筒、見たことない!」


 千恵は純粋に驚いた。彼女のアルバイト代や、祖母の年金では到底こうはならない。


「すげえだろ。これはな、おめえたちの分も入ってるから、分けてやるよ」

「え? 私たち? 私とリンちゃんってことですか?」

「他に誰がいんだよ。そう、今回の事件――『ポール・マトロック殺害事件』の分が入ってるぜ」

「でも私は、なにもしてないですよ? むしろ足手まといで……」


 千恵は、助けられたときの光景を思い出していたのか、肩を落とし、しゅんとしてしまった。


「なに言ってんだ。俺の助手という形とか、情報提供とか、いろいろとおめえらは役に立ってくれたんだ。素直に受け取っておけ」

「ほ、ほんとにいいんですか?」

「ああ、十分な成果だ。たいしたもんだぜ」


 ノベルは、ほんの少し目を細めて、千恵を称えた。


「ありがとうございます。とても嬉しいです」

「まあ、今回はうまくいったけどな。毎回こうもうまくいくとは限らねえからよ」

「そうなんですね……やっぱり、探偵さんは儲からないんですか?」

「“やっぱり”ってなんだよ。まあ、大した仕事じゃねえときは、さっぱり儲からねえのが現実だ」


 ノベルの暮らしぶりから見ても、彼がそれほど浪費するタイプではないと千恵は感じていた。だからこそ、儲からないときはちゃんと節約しているのだろう、と自然に思えた。


「ちょっと聞いてもいいですか?」

「なんだ」

「探偵さんのお給料って、どうやって決まるんですか?」

「今回はいわゆる公的な仕事だ。『警察との契約』ってやつな。他は民間の依頼。浮気調査とか、人探し、素行調査がほとんどだ。それによって成果報酬が決まる」


「なるほど。じゃあ今回は『警察との契約』ということで、私たちのお給料はどうなってるんですか?」

「俺は基本的な額があって、そこに活動費や諸経費を申告して上乗せ。怪我や事故があった場合は特別給付、それから成果報酬。そして情報提供料だ。おめえたちは、その“情報提供料”が今回の分ってことだ」


「結構、細かく決まってるんですね」

「わりとな。納得のいく額になるように設計されてる」


 千恵は「ふむふむ」と頷き、探偵業や警察の仕組みだけでなく、社会の成り立ちそのものに触れたような気がして、メモを取る手がサラサラと走った。


「よし、んじゃまずは分け前を分けてっと……」


 ノベルは封筒から札束を取り出し、千恵の分とリンフィーナの分を取り分ける。念のために枚数を数え、中に同封された明細と照らし合わせながら、千恵と一緒に確認していった。


「わあ……ありがとうございます。嬉しい……」

「こっちの世界に来て、初めての収入だな」

「はい。こんなに早く社会貢献できるとは思いませんでした」

「だな。んじゃあとは、俺のタバコ代と酒代と……あとこれは当面の生活費だ」


 ノベルは、わりと少なくない額の札を、ひょいと千恵に渡した。


「あ、はい。食費ですよね」

「それだけじゃねえ。おめえも人並みに生活するための金だ。俺なんかより、よっぽどやることが多いはずだ」


 ノベルはタバコに火をつけ、ふうっと天井に煙を吐き出す。


「えっと……それはありがたいんですけど……」


 千恵は、なにか遠慮する理由があるようだった。


「なんだ。はっきり言っていいぞ」


「じゃあこの際だから全部出しちゃいます。正直、このままノベルさんにお世話になりっぱなしでは申し訳ないと思ってます。この世界で暮らしていくにも、やっぱり働かないといけないし、学校にも通いたいし……でもどうしていいかわからない、でもこのままわからないままノベルさんに頼って暮らすのも悪い気がして……」


 千恵はそこまで一気に語った。ノベルも、それが返ってくることを少し予感していたのだろう。相変わらず、ノベルはタバコをくわえたまま、斜め上を静かに仰いでいた。


「……まあ、そうだよな」


 ノベルは口を開く。


「千恵が独立したいと思うなら、そうすればいい。だが俺は、乗りかかった船だと思っておまえをここに置いてる。そこに理由なんてねえ。情けをかけてるつもりもねえ。来るべき時がきたら、おめえが決めればいい。それまではここにいてくれてかまわねえ。俺のスタンスは、最初っから変わんねえ」


 ノベルは、まくし立てるわけでもなく、ただ穏やかに、千恵に語りかけた。


「ほんとに……迷惑ばかりかけて、すいません」


「迷惑だなんて思っちゃいねえって。千恵をあの時拾ったことに、まったく後悔なんてしてねえし、今もそんなこと思ってねえ。むしろ、いろいろやってくれて感謝してるぜ」


「……ほんとですか?」

「ああ、ほんとだ。それより千恵は、日本ってとこに帰りてえんだろ? それは全面的に協力するぜ」

「あの、そのことなんですけど」

「なんだ」

「実は、日本に帰ることって、それほど強くは思ってないんですよ」

「なんだと? 帰りてえって最初、言ってたじゃねえか」

「『帰れるなら帰りたい』って、たしか言ったはずです。でも今考えると、それほどでもなくて……おばあちゃんも亡くなっちゃったし、帰れたとしても叔父夫婦のところか、一人暮らしなので……」


 千恵は、そこまで言って口を閉じた。そして横を向いたまま、部屋の隅を静かに眺めていた。


「……なるほどな」


 ノベルは灰皿に火種を弾き、シケモクを缶に戻す。


「よし!」


 ノベルは急に膝をバンと叩き、立ち上がった。千恵は少し驚いてノベルを見上げる。


「買い物でも行こうぜ」


 千恵は、そのノベルの屈託のない笑顔に、なにか救われたような気がした。


 そして元気よく答えた。


「はいっ! マーケットに行きましょう!」

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