10、追跡
昼食を終えたノベル、千恵、リンフィーナの三人は、今日の収穫をシドに伝えるため、警察署へと向かった。
通されたのは、捜査本部が設置された一室。そこでシドと面会し、情報の共有を行う。
ノベルたちが話を終えると、シドはすぐさま鑑識に連絡し、被害者の後頭部周辺の毛髪を調べさせた。そして、間もなくその検査報告が上がった。
「鑑識の結果が出ました。仰る通り後頭部打撃痕の毛髪から微量の小麦粉とチーズ片が検出されました」
「せがれでほぼ間違いねぇだろうな。逮捕状か?」
「一旦、私が精査したのち、本部で最終判断となります。おそらく、明日の未明には被疑者宅に出向くことになるでしょう」
「わかった。んじゃ、頼んだぜ」
これにて、ノベル探偵事務所からの協力は一段落を迎えた。
三人が席を立とうとしたその時、シドが千恵に目配せを送った。千恵もそれに気づき、シドに向き直って口を開く。
「わんちゃんに……会うことはできますか?」
千恵は手を前に組み、指を少し絡めながら、控えめにそう尋ねた。
「はい、できますよ」
シドは一瞬だけ口角を上げ、わずかに頷いて答えた。
それを見ていたノベルは、鼻から息を抜きながら、八の字に眉を寄せて片頬を持ち上げた。
「ワウワウ」
あのときの犬が、警察署の遺失物保管庫のすぐ入口近く、動物用の大きなケージに収められていた。タグはつけられているが、まだ名前は与えられていない。
「わあ……元気そうでよかった」
大きな犬は千恵が近づくと、尻尾をブンブンと振りながら、ハフハフと嬉しそうに鳴いた。
「えらいね、わんちゃん。きみが案内してくれたから、事件も解決できそうだよ」
千恵はケージの隙間から手を入れ、犬の顔や身体を優しく撫でていた。
「なるほど……そうですね」
シドは腕を組んだまま、片手で口元を押さえ、なにかを思いついたように独りごちた。
ーーーーー
その晩。事件はまだ解決には至らないものの、三人で糸口を掴んだことを祝って、ささやかなディナーが開かれることとなった。
三人でマーケットを巡り、ノベルもいつもより少し良い酒を買ったものだから、千恵も食材をちょっとだけ奮発することにした。
やがてとっぷりと日は暮れ、事務所へと戻ると、ノベルは今回の事件の書類を整理しはじめた。普段はあまり手をつけていなかった過去の書類も、千恵に頼まれたこともあって手をつける。
香ってくる千恵の料理の匂いに、ノベルの片付けの手も自然とはかどっていった。
一方リンフィーナは、一度屋敷に戻っていた。最近は屋敷で食事を取らないことが多く、家族への説明のためだという。夜道を一人で歩くわけにはいかないので、従者を一人伴って戻るとのことで、千恵はその従者のためにも、もう一人分の食事を作ると張り切っていた。
「まったくリンのやつ、こんなボロ屋に貴族様の従者なんて連れてくるのか?」
「自分でボロ屋って言っちゃった……まあ、いいじゃないですか。私、リンちゃんが本当に“貴族様”なんだって、今さらながらというかなんというか」
「わかるぜ。住む世界がちいっと違うよな」
「うん……でもリンちゃん、すごくいい子で、私なんかのためにいろいろしてくれて……本当に嬉しく思ってます」
「なんかアイツ、千恵のことになると、急に人が変わるよな」
「えへへ。そうですよね……でもちょっと、嬉しいな」
そんなふうに、まるでリンフィーナがくしゃみでもしそうな話をしていたら、千恵がふと何かに気づいたように声を上げた。
「そうだ、塩がなかったんだ。忘れてた!」
「塩か? 俺が買ってきてやるよ」
「あ、いえ、大丈夫です。せっかく整理に気が乗ったんですから、そのままお願いします。私は今、手が離せますので」
そう言って千恵はエプロンを外し、小走りで再びマーケットへ向かった。
ーーーーー
「戻りましたわ」
「失礼いたします」
リンフィーナは予告通り、一人の男性従者を連れてノベルの事務所に帰ってきた。
「おう、入ってくれ」
ノベルは片付けの手を止めず、咥えタバコのまま二人を迎えた。
「紹介いたしますわ。当家、わたくし専属の剣士でございますの」
「マルス・ヴィクトラクトと申します。突然の訪問、誠に失礼いたします」
「ノベルだ。よろしくな」
「あら、千恵が見当たりませんわね。どこに行ったんですの?」
「ああ、さっき塩を買いに出たんだが、もう戻る頃だろう」
千恵を除いた面々は挨拶を済ませ、リンフィーナとマルスはソファで待機。ノベルは引き続き片付けに精を出していた。
ーーーーー
「〜♪」
千恵はマーケットまで足を運び、雑貨屋で塩と鰹節を見つけた。ポケットからお札を取り出し、二つとも買えるか確認していたときだった。
「あれ……? あの人は、たしか……」
千恵が見つけたのは――事件の最重要人物、『ジョン・スターキー』だった。
その男は一人でふらふらと歩き、どこか遠くを見つめるような視線で、ただ黙々とマーケットを横切っていた。
「……どうしたんだろ……」
千恵は胸の奥に、じわりと不安を抱いた。もしかすると――このまま、また第二の犯罪が起きてしまうのではないか。
自分でも理解しがたい衝動に突き動かされるように、千恵はその男のあとを追った。
ーーーーー
「……それにしても遅いですわね……」
「ノベル殿、千恵様はいつ頃お出になったのでしょうか?」
リンフィーナとマルスは、どこか居心地の悪さも手伝ってか、千恵の帰りが遅いことを気にしていた。
「まあ、そうだな……三十分前ってとこか」
相変わらずノベルは片付けの手を止めることなく、その問いに答える。
「おかしいですわね。マーケットまでは五分足らず。塩ならすぐに買い求めて、また戻ってくるのに合わせても十分もかかりませんのに……三十分は長すぎますわ」
「はいお嬢様。わたくしもそう思います。少々様子を見てまいりますので、千恵様の特徴を教えていただけますか?」
「え、えっと……綺麗で艶のある黒髪、顎くらいまでのまん丸いボブ、つぶらな瞳に、カワウソのような……か、可愛らしい顔立ちよ」
「おいリン、なんだそりゃ。褒めてんのか馬鹿にしてんのか、さっぱりわかんねぇな」
「よ、よろしいではございませんの! わたくしカワウソが大好きでございますの!」
「かしこまりました、お嬢様。すぐに行ってまいります」
マルスはそう言うと神速の魔法を発動し、まさに光のごとき速さで駆け出した。
そしてほんの一瞬の後、マルスは戻ってきた。
「お嬢様。千恵様が見当たりません」
―――――
千恵は、ジョンの後ろをつけていた。
ふらふらと不安定な足取りで歩くその姿は、まるで心がどこかに置き去りになっているようだった。
千恵はそんなジョンの背を、ただひたすらに追っていた。
やがて辿り着いた先は、つい先日、ノベルとリンフィーナと三人で訪れた『ブルーウッド王立公園』だった。
ジョンはそのまま公園を突っ切り、さらに奥の森林ゾーンへと足を踏み入れていく。
「ここは……殺害現場の近くだ……!」
千恵はハッとした。ノベルの言葉が蘇る。
『犯人は三日は普通だ。それ以降、情緒が乱れる。例外はあんまねえ』
日本にいた頃にも聞いたことがある。
犯人は、犯行現場に必ず戻ってくる――と。
なるほど、まさにその通りだった。
ジョンは、いったい何を考えて、またここに現れたのだろうか。
千恵がそんなことを思っていた、その時。
「パキッ」
枝を踏んでしまったのだろう、大きな音が森に響く。
ジョンがハッと我に返り、振り返る。
そして音を立ててしまった千恵を見つけ、言った。
「おまえ……探偵の後ろにいた女だな……」
「え……あの……その……」
千恵は狼狽える。
生まれて初めて向けられた、あまりに強烈な悪意。
ジョンの冷たい眼差し、鋭い眼光に気圧され、千恵の足はすくんで動かなくなってしまう。
ジョンは腰に差した木製の棒を抜き取り、右手に構えた。
「……もうこうなりゃおまえも道連れにしてやる……俺はもう終わりなんだ……」
「あ……あぅ……たすけ……」
千恵の体はガクガクと震え、迫るジョンの視線をそらそうとしても、蛇女のように鋭く強いその目から逃れられない。
「あぅ……あぅ……ノベルさん……ノベルさん……」
声を出そうにも出せない。喉の奥が何か大きなもので塞がれているような、息苦しさが込み上げる。
「こっちに来い。おまえも殺してやる。そして俺も死ぬ。道連れだ」
ジョンが千恵に向かって手を伸ばし、腕を掴もうとした――その瞬間。
千恵の体がふわりと宙に浮いた。
「ジョン・スターキー。拐取罪の現行犯、及びポール・マトロック殺人の疑いで逮捕する」
どこからともなくシドが現れた。
ジョンの腕をそのままムンズとつかみ、手錠を片手にかけると、彼の体を前に押し倒し、後ろ手に両手錠をがっちりと嵌めた。
同時に、千恵は大きな手にやさしく抱きとめられ、シドとジョンの大立ち回りに背を向けるように、視界がくるりと反転した。
リンフィーナの従者マルスが、リンフィーナの指示とノベルの助言を受けて高速で千恵を探し回り、この公園へと辿り着いていたのだ。
「千恵様、ご無事ですか」
紫の瞳に見つめられ、力強くもやさしい、温かいその腕の中で、千恵はふっと気が緩み、そのまま意識を手放した。
「はぁ……はぁ……やっぱ……ここか……」
「どうやら……間に合ったようですわね……」
ノベルとリンフィーナもようやく到着し、安堵の声をもらす。
マルスの腕の中で気を失っている千恵を見て、一瞬顔色が青ざめたが、マルスの「大丈夫です」の言葉に胸を撫で下ろした。
―――――
「うーん……」
「お、やっと気がついたか」
「千恵! 大丈夫ですの!」
三人は警察署の救護室にいた。
ベッドに横たわる千恵を、ノベルとリンフィーナが囲んでいる。
「あ……うん……平気みたい……」
千恵は自分の身体をさすりながら、ゆっくりと半身を起こした。
「まったく……マジで生きた心地しなかったぜ……」
「ノベルの言う通りですわ……なかなか帰ってこなくて、従者に探しに出かけたらマーケットにもいなくて……」
「探してくれたんだ……ありがとう……ごめんなさい……」
千恵はこみあげる感情の中、なんとか声を振り絞る。
「いえ、謝らなくていいんですのよ」
「ああ……悪い条件が重なっちまった結果だった。俺も一人で行かせて悪かった」
珍しく殊勝に謝るノベル。
その後、ノベルとリンフィーナがことのいきさつを千恵に説明し、三人は揃って部屋を出て、シドのいる捜査本部設置室へと向かった。




