第二部:第三十五章 闇に染まるグレオス
神殿の扉が開かれた瞬間、空気は一変した。
冷たく、重く、息苦しいほどの闇が、奥からじわじわと滲み出てくる。
直哉と麻希、ナディア、ラウラ、そしてグレオス――
誰もがその圧に息を飲み、しばし足を止めた。
「……あれが、“黒いささやき”の核……!」
ラウラが目を見開く先、神殿の中心にぽっかりと空いた巨大な空洞。
その底から吹き上げる黒煙のような魔力――それは生き物のように蠢き、グレオスへと吸い寄せられていく。
「やめろッ! もう、あんたには十分伝わったはずだ!」
直哉が叫んだ。
けれど、グレオスは振り返らなかった。
背中で、静かに呟いた。
「私は……今さら、何も残っていない。貴様らのように、愛を語れる資格もない……」
その声は、どこか哀しみに染まっていた。
そして次の瞬間――
“黒いささやき”が、グレオスを飲み込んだ。
轟音。爆風。
神殿の天井が軋み、崩れかける。
そして姿を現したのは、黒い霧を纏い、血のような光を宿すグレオスの“変貌体”。
「……まき、下がってろ。今度こそ……俺が止める」
「ダメ。わたしも行く。あの人に“声”が届く場所が残ってるなら、諦めたくない……!」
麻希は、自分の恐怖を押し殺し、直哉の横に並んだ。
「あなたが隣にいてくれたから、わたし、ここまで来られたの。今度は、わたしがあなたの支えになる番――」
「……そうだな」
直哉が、彼女の手をそっと握った。
闇に包まれる寸前の世界の中で、その手だけは温かかった。
「絶対に、戻ってこよう。どんなに深い闇でも、お前となら――抜けられる」
「うん……! 一緒に!」
◆
戦いが始まった。
グレオスはもはや、人とは思えぬ速度と力を持ち、神殿を疾走する。
空間を裂くほどの魔力が、次々と直哉たちに襲いかかる。
「今……右に! 直哉、反撃して!」
麻希の“調律の声”が響くたびに、直哉の剣がわずかな隙を突く。
けれど、闇に取り込まれたグレオスの力は尋常ではなかった。
ナディアが苦しい呼吸の合間に言う。
「このままじゃ、みんな……!」
そのとき。
麻希の中に、再び何かが“響いた”。
――ちがう、これじゃない。
わたしたちがこの場所まで来た意味は、“倒す”ことじゃない。
「直哉ッ……お願い。わたしに時間を稼いで!」
「えっ、でも……!」
「いいから。……今なら、きっと“届く”気がするの!」
麻希は両手を胸に当て、全身から魔力を解き放つ。
彼女が叫んだ。
「グレオスさん……! あなたは本当は、“世界を救いたい”と思っていた人でしょう!? 帝国の民を守りたかった! ただ、それだけだったでしょう!?」
変貌したグレオスの目に、一瞬だけ“迷い”が生まれる。
その瞬間――
「直哉ッ! 今っ!」
「おおおおおおおっ!!」
直哉の剣が、グレオスの鎧の中心を正確に貫いた。
黒い闇が砕け、爆ぜる。
神殿の奥に、静寂が戻る。
◆
崩れ落ちたグレオスは、今や瘴気も消え、ただの人間の姿に戻っていた。
「……なぜ……なぜそこまで……」
彼の問いに、麻希はそっと跪いて、その手を握った。
「あなたの中にも、“誰かを想う心”が残っていたからです」
グレオスの瞳に、ほんの一滴、涙が浮かぶ。
「……私にも、まだ戻れるだろうか……」
「もちろんです。心がある限り、あなたは変われる」
そのとき、直哉がそっと麻希の背に手を当てた。
「やっぱり、すごいな。お前の声って」
「え……?」
「ただの力じゃない。お前の優しさが、ちゃんと人の心を動かしてる」
その言葉に、麻希の胸がまた、熱くなった。
「じゃあ……直哉の剣も同じ。わたしの声が届いたのは、あなたが信じて戦ってくれたから……」
「……じゃあ、これからも。ずっと一緒に、信じてこうぜ」
「……うん」
ふたりは手を重ね、ゆっくりと立ち上がる。
崩れかけた神殿の奥――そこには、まだ“本当の封印”が待っている。
けれど、今のふたりなら。
どんな闇でも、もう恐れることはなかった。
――恋が導いた、最後の扉が、静かに彼らの前に開かれようとしていた。




