第二部:第三十三章 山越えの険路
夜明け前の空に、微かな明かりが差し込んでいた。
封印の神殿は、そびえ立つ“カリュア山脈”の頂――“神の座”と呼ばれる場所に眠っている。
険しい尾根道。雪と氷に閉ざされた標高三千を越える峠。
だが、四人の足取りは止まらなかった。
直哉、麻希、ナディア、ラウラ。
彼らの心にはもう、迷いはない。ただ、“黒いささやき”を封じるという強い意志だけが、身体を突き動かしていた。
「……吹雪が来るわ。気をつけて」
ラウラが小さく杖を振ると、周囲に薄い魔力の障壁が展開された。
その一方で、麻希は前方の足場を見つめながら“声”に意識を集中させていた。
「この先……岩雪が崩れそう。少し左に、それて……」
「了解」
直哉がすぐに前方に出て、ナディアとラウラの導線を整える。
こうして、四人の連携は自然に噛み合っていた。
だが、山はやはり厳しい。
昼過ぎ、激しい雪崩が斜面を襲い、彼らの道を完全に断ち切った。
「くっ……ここで立ち止まるわけには……っ」
ナディアが歯を食いしばる横で、麻希の体がぐらりと揺れた。
「麻希っ……!」
直哉がすかさず彼女の身体を抱きとめる。
「ご、ごめん……ちょっと、目が……くらんで……」
「無理するなって、言っただろ」
その声は、怒っているのではなかった。
ただ、心から彼女の身を案じていた。
麻希は直哉の胸にしがみついたまま、小さく言った。
「……怖いんじゃないの。ただ、わたし、あなたと一緒に……この山を越えたいの」
「……なら、一緒に越えよう。俺が……お前の手、引くから」
そのとき、雪の静けさの中で、ふたりの間にだけ温かな空気が生まれていた。
「……なんであなたは、そんなに優しいの」
「それ、お前にも言ってやるよ」
顔が近づいた。
息が触れそうな距離で、互いの瞳が見つめ合う。
ふと、麻希の睫毛に雪が一粒、そっと降りた。
「……取って」
そう甘えるように言う麻希に、直哉はふわりと笑いながら、指先でそっとそれを払った。
「取った。……でも、俺の心臓の鼓動は……どうしてくれる?」
その一言に、麻希の頬がぱっと紅く染まる。
「ずるい、そういうの……っ」
「お返しに、お前の鼓動も……聞かせてくれよ」
麻希は胸元を押さえ、そして――直哉の腕の中で、静かに寄り添った。
雪の中の凍える空間で、ただそのぬくもりだけが確かだった。
◆
日が傾きかけた頃、ようやく小さな洞窟を見つけ、四人はその中で一夜を過ごすことにした。
焚き火の炎が、冷えきった身体をじんわりと温めてくれる。
直哉と麻希は、並んで座りながら、お互いの毛布を一枚に重ねていた。
「ねぇ、今……すごく幸せだなって思ってるの、わたしだけかな」
「……俺も。こんなふうに、ただお前の隣にいられるだけで」
火の揺らめきが、ふたりの影を岩壁に映していた。
世界の命運を背負いながらも、今だけは――ただ“好きな人と一緒にいる”という、何より贅沢な時間。
「……いつか、この旅が終わっても……こんなふうに、肩を寄せて眠れる日々が続いたらいいな」
「叶えるよ。絶対に」
直哉の言葉には、一片の迷いもなかった。
「そのために、この世界を救う。お前と一緒に、未来を守る」
麻希の指が、そっと直哉の手に重なる。
「わたしも、一緒に……」
ふたりの体温が、やさしくひとつに溶けていく。
――雪の夜、世界が凍えるなかで。
――ふたりの恋だけが、確かに燃えていた。




