第二部:第二十七章 グレオスの決断
戦の幕が一時的に降りたルセリアの夜。
瓦礫の残る街に、ようやく静寂が戻りつつあった。だが、その静けさは決して安堵ではなく――次に訪れる嵐を、誰もが直感していた。
帝国軍は、唐突に撤退した。
理由は不明。ただひとつ確かなのは、グレオス本人が、前線に現れなかったということ。
その沈黙に、ラウラは口を固く結んだまま言った。
「……“黒いささやき”が、グレオスの心を揺さぶっている可能性があるわ」
ナディアが震える声で言葉を重ねる。
「彼は……“誰かを守るために、力に呑まれようとしている”。そんな気配がします」
麻希は黙って、拳を握りしめていた。
“誰かを守るために堕ちる”――それは、どこか、かつての自分に重なる想いだった。
――もし直哉が同じように“力”に呑まれようとしたら。
(……わたし、絶対に止めたいって思う)
そして、彼女ははっきりと気づいた。
想うということは、守るだけじゃなく、共に立ちたいと願うこと。
◆
その夜。
直哉と麻希は、再び塔の屋上にいた。
遠くの山の稜線に、かすかに赤い炎が揺れている。撤退していく帝国軍の痕跡だ。
「……なんで、引いたんだろう」
直哉が呟く。横にいた麻希は、そっと言った。
「グレオスは、迷ってるんじゃないかな」
「迷う……?」
「きっと、あの人にも“守りたい誰か”がいたんだと思う。だから、“黒いささやき”にすがろうとした。でも、それを全部正しいって信じきれないまま……今も苦しんでる」
風が吹く。
ふたりの髪が舞い、視線が交差した。
「麻希……お前って、優しすぎる」
「そうかな……? でも、わたしは、あなただって優しすぎるって思う」
直哉が少しだけ照れたように顔を逸らした。
「だってさ、お前がつらそうだったら、俺は何も考えずに突っ走っちゃうと思う」
「……うん、知ってる。だから、ちゃんと止める役目は、わたしがするよ」
「は?」
「あなたが無茶しそうになったら、“調律の声”で止めてあげる」
ふふ、と笑う麻希に、直哉は苦笑した。
「……ほんと、隙がないよな。俺がどんな顔しても、ちゃんと見てくれてる」
「だって、あなたの全部が――私の“声”に届いてるから」
言葉のあとの沈黙は、なぜか心地よかった。
ふたりは、無言のまま肩を寄せ合い、風の音に身を委ねた。
麻希が静かにささやく。
「このまま、ずっと隣にいられたらいいのに」
「……なに、急に」
「ごめん……でも、そう思っちゃったの。今が、とても……好きだから」
直哉の心臓が、どくんと鳴った。
その言葉だけで、戦場の痛みも、悩みも、全部が霞んでいく気がした。
「……俺も。お前が隣にいてくれて、よかったって思ってる」
そっと手が重なる。
ふたりの手のひらは、戦いの傷跡でざらざらしていたけれど、その温もりは何より優しかった。
「じゃあ、明日からもまた、一緒に前を見よう」
「……ああ、もちろん」
――同じ想いを胸に。
――同じ光を目指して。
◆
一方その頃、帝国の軍幕内。
ひとり、瘴気の中で膝をつくグレオスがいた。
その瞳に、ほんのわずかに“光”が宿っていた。
誰かの声が、遠く届いたような気がしたのだ。
「……お前たちの想い……届いた、というのか……?」
黒いささやきが囁く中、彼の心は揺れていた。
世界を救う力は、いま確かに“恋”という名の感情の中で、芽吹き始めている。




