第二部:第十七章 密偵との遭遇
王宮での滞在が一週間を過ぎたある日。
直哉と麻希は、ナディアと共に王都の中央街に向かっていた。名目は“視察と巡回”――だが、その裏にはもう一つの目的があった。
帝国ガルザーンの密偵が、王国に潜入している。
ラウラの古い記録から、そしてナディアの勘から、それは確信へと変わりつつあった。
人で賑わう市街地の石畳を踏みしめながら、直哉は周囲を警戒していた。
「……空気が妙に張りつめてるな」
「うん。笑顔が少ない。誰かが“見張ってる”みたいな、そんな感じ」
麻希の感覚は、以前より鋭くなっている。特に“ささやき”が騒ぎ始めるとき、彼女の勘は異常に冴えた。
そのときだった――。
小さな衝撃。麻希の胸の奥が、ギュッと掴まれるような不快感を訴えた。
(来る……!)
「直哉、右の路地!」
麻希が叫ぶのと同時に、三人の黒ずくめの男が影から飛び出した。ナディアが瞬時に詠唱を始めるが、男たちは異常な速度で間合いを詰めてくる。
「離れて!」
麻希が直哉を突き飛ばした瞬間――刃が風を裂き、彼女の肩をかすめた。
「麻希!!」
血の匂いが広がる。
怒りに目を燃やした直哉が、即座に飛び込んだ。
「この野郎っ……!」
剣を振るい、黒衣の男の腕を切り裂く。麻希はよろめきながらも立ち上がり、“調律の声”を解き放つ。
「みんな、隊列を崩して! 囲まれないでっ!」
王国の護衛兵たちが駆けつけ、戦況は一気に逆転する。黒衣の男たちは形勢不利と見るや否や、煙玉を残して姿を消した。
静けさが戻った路地裏――。
「麻希っ……大丈夫か!?」
直哉が血相を変えて駆け寄る。麻希の肩には切り傷が走っていたが、彼女は無理やり笑ってみせた。
「大丈夫……これくらい」
「全然大丈夫じゃねぇよ!」
怒鳴るような声と同時に、彼の手が彼女の肩に触れた。震えている――それは、傷の痛みではなく、彼の怒りと不安が入り混じった“想い”だった。
「麻希、なんで自分から前に出た!? 俺を庇うとか、勝手に決めんなよ……っ」
「……だって……」
麻希の声がかすれる。唇を噛み、言葉を探すように、視線を彷徨わせた。
「だって、あなたが傷つくの……怖かったの」
静まり返る空気の中、その一言が、すべてを貫いた。
直哉は絶句し、やがてぎこちなく、しかし確かに麻希の肩を抱き寄せた。
「……俺の方が、怖かったよ」
耳元で落とされた声。優しさと、怒りと、何より“大切に想う気持ち”がこもっていた。
「もし、お前に何かあったらって考えたら……俺、本気で、自分を抑えられなくなる」
麻希はその胸の中で、まぶたを閉じた。
(……ああ、またこの人に甘えてしまう)
でも、それでもいいと思った。
「……ありがとう、直哉」
「お前こそ……バカだな」
優しい叱りのように囁いて、彼は傷口に手を当てた。魔力はなかったが、その温もりは、不思議と麻希の痛みを和らげてくれた。
指先が重なり、頬がふれ合いそうになる距離――。だけどそれ以上は進まない。ふたりはただ、静かに想いを確かめ合っていた。
“好き”という言葉すら必要ないほどに、心がつながっていた。
ナディアは少し離れた場所でその様子を見守り、静かに目を閉じた。
(……この絆。もしかしたら、神託の記された“真なる共鳴”に……)
けれど、喜びよりも不安が先に立つ。
この力があまりにも“純粋”であるがゆえに、狙われる理由になる。
その夜、王都の空には月が昇りきらず、曇ったままだった。
光と闇が交錯する王国の中で――ふたりの絆はさらに深まったが、同時に、危機の足音が確かに近づいていた。




