第二部:第九章 帝国ガルザーンの影
ルセリアでの調査が進む中、ラウラの研究室には一通の封書が届けられた。封蝋には、重厚な鷲の紋章――それはこの大陸西部で勢力を拡大するガルザーン帝国のものであった。
ラウラが眉をひそめて封を切ると、中から現れたのは外交文書らしき文面と、もう一枚の薄い羊皮紙。そこには、こう記されていた。
“ささやきの力を持つ者、所在確認。名は直哉と麻希。交渉の余地を持ちたい。
送付者:将校グレオス”
「……これは、まずいわね」
ラウラはため息をつきながら、奥の書斎から出てきた直哉と麻希を呼び寄せた。
「ガルザーン帝国が、あなたたちの存在を察知したみたい。しかも、力を利用しようとしてる可能性が高いわ」
「力を……利用?」
麻希が不安そうに声を上げる。
「“ささやき”は、感情と深く結びついた力。その深層を引き出せば、世界を変えるほどの干渉力を持ちうるの。もちろん、正しい使い方をすればの話だけど……帝国は、それを兵器にしようとしてる可能性があるわ」
直哉の表情が引き締まる。
「つまり、俺たちを“使える存在”として見てるってことですよね」
「そう。うまく取り込めば良し、手に負えなければ――排除する、かもね」
ラウラの言葉に、麻希の手が無意識に震えた。直哉はそれに気づき、迷いなく彼女の手を取った。
「……大丈夫」
その一言に、麻希は一瞬、目を見開く。そして次の瞬間、胸の奥が高鳴る。
(この人は、どんなときでも真っ直ぐで……こうやって私の不安を吹き飛ばしてくれる)
「……うん。ありがとう」
麻希は小さく微笑み、手をぎゅっと握り返した。繋いだ手の温度が、彼女の心にじんわりと染み込んでいく。
ラウラはそんな二人の様子を、どこか微笑ましく見守っていた。
「……やっぱり、“ささやき”は想いに共鳴する。二人が近づくほどに、力は強まっていくかもしれないわね」
「でも、それって……逆に狙われる理由にもなるんじゃ……」
「ええ、だからこそ注意が必要。でも同時に――」
ラウラは、机の上にあった一冊の記録を二人に差し出した。
「あなたたちが“ささやき”を制御する方法も、見つかるかもしれない」
麻希はそっとその本を開きながら、小さく息を呑んだ。そこには、かつて紗江が記したとされる言葉が載っていた。
“心を重ねたとき、声は静かに溶けてゆく”
(……心を、重ねる……)
どこか恥ずかしさと、ときめきが入り混じるような言葉。でも、その意味を、今なら少しだけ理解できる気がした。
その夜、ルセリアの宿舎。
直哉と麻希は、星空を見下ろせる塔のバルコニーに並んで立っていた。
「……麻希。怖くないか?」
「うん。……ちょっと怖い。でも、それ以上に」
麻希は隣を見上げ、やや遠慮がちに言葉を続けた。
「……あなたと一緒にいるのが、嬉しいの」
頬が熱い。言葉にした自分に驚いて、思わず視線を逸らした。
直哉はそんな麻希をじっと見つめ、ゆっくりと手を伸ばした。
そっと、肩に触れる。驚いた麻希が振り向いた瞬間、まっすぐに彼女の目を見た。
「俺も……同じ気持ちだ」
どちらからともなく、静かに距離が縮まる。
肩と肩が触れる。頬が近づく。けれど、ただの勢いじゃない。言葉がなくても、伝わるものがある。
今、この瞬間だけは、余計なものが何もなかった。帝国の影も、世界の危機も、忘れてしまいそうになるほどに――。
「……麻希」
「……なに?」
「俺、絶対にお前を守るよ」
「……信じてる」
重なる視線。かすかに震える手と、微かに触れた額。唇は触れない。ただ、想いだけが重なる。
その静かな時間の中で、“ささやき”は不思議なほど静まっていた。
まるで、二人の鼓動に寄り添うように。
――帝国の影が忍び寄る中で、二人の絆は確かに深まっていった。
そしてその想いこそが、やがて世界の運命を左右する力になることを、まだ誰も知らない。




