第二部:第二章 小さな村での休息
村人たちの厚意で、直哉と麻希は一軒の家に身を寄せることになった。そこは村の中心にある、小ぢんまりとした造りの家だったが、休むには十分なスペースがある。暖炉の温もりと、質素ながら温かい食事――それは二人の心をほっと安堵させてくれた。
案内してくれた村長は、見るからに人の好さそうな老人だった。白い髭を蓄えているが背筋はしっかり伸び、どうやらこの村の実質的な統率者でもあるようだ。
「最近な、妙に物騒な噂が広まっておるんじゃよ。近隣の村々でも魔物の出現が増えているとか、帝国がどうとか……確かなところはわしらにもわからんが。まぁここは辺境にある村じゃから、直撃はないだろうと思ってたんじゃが……」
そう言って憂いを帯びた表情を浮かべる村長。
「不穏な気配、ですか……」
「二人も、どこからか旅をしてきたのか? その様子だと、ケガこそ軽いが相当に疲れているように見えるぞ」
村長の問いに、直哉は少し言葉に詰まる。正確には“どこから来たか思い出せない”のだ。何やらこの世界とは違う場所にいた記憶が朧気にあるものの、そんな話を唐突にすれば相手を戸惑わせてしまうかもしれない。
「ええっと、ちょっと道に迷って……。村長さんたちに助けてもらえて、本当に助かりました」
「しばらく休ませてもらえますか? 体を整えたいというか……」
麻希が遠慮がちにそう告げると、村長は深く頷いた。
「もちろんじゃよ。この村は小さいが、困っている人を放っておく理由もない。とりあえず体を休めなさい。あとで温かいスープでも用意させよう」
優しい村長の言葉に安堵し、二人はおとなしく部屋へ戻った。素朴ながら落ち着く部屋で、麻希はとりあえず荷物代わりに持っていた小さな袋――そこには、なぜか見覚えのある小物が入っているくらい――を床に置いて、ゆっくりと座り込む。
――それにしても、体は休まったはずなのに、どこか胸がざわついている。
先ほどよりも少しだけ強く、“ささやき”が耳元でくぐもるように聞こえるのだ。ずっと頭から離れないこの囁きが、麻希にはどこか不気味に思えた。なにかに呼ばれているような、追いかけられているような、落ち着かない感覚。
「麻希、大丈夫か?」
隣に座った直哉が、少し心配そうに顔を覗き込む。
「……うん。ごめん、なんか頭がぼうっとしてて……変な声も聞こえるし……」
「やっぱり、俺も聞こえるんだよな。“ささやき”……。何なんだろうな、コレ」
そう言いながら、直哉もまた額に手を当てる。もやがかかったような不安と、いつ何が起きるかわからない緊張感。さらに、自分たちがどうしてこの世界へやってきたのか分からないという焦燥も相まって、気が休まらない。
その不安が、麻希の目にもはっきり浮かんでいた。
「怖い……ね」
「正直、怖いな。でも、ここで自分たちが何者かわかるまで、諦めないしかないだろ」
直哉はあえて軽い口調で言う。自分自身が不安なのは本当だが、それを口にすれば麻希まで余計に心細くなるかもしれない。だからこそ、ここは前向きな姿勢を崩さないようにと努めていた。
しかし、そんな彼の意図を察したように、麻希がふっと言葉を漏らす。
「ありがとう、直哉……。私、ほんとにどうしようもなく不安で……。でも、あなたがいてくれるから……」
言いかけたところで、声が掠れて震える。言葉にしようとすればするほど、胸の奥から甘く痛いような感情がこみ上げてくる。何かに縛られるような恐怖と、初めて感じるような頼もしさが入り混じっていた。
「……麻希」
優しく名前を呼ばれると、堪えきれず麻希の目に薄っすら涙が浮かんでしまう。自分自身でも驚くほど、彼女は弱音をこぼすようなタイプではなかったはずなのに――なぜか、この世界に来てからは直哉の存在がとても大きく感じられた。
すると直哉は、おずおずと手を伸ばし、麻希の肩にそっと触れる。驚くほど温かい、その体温。
「大丈夫。俺がいる。……何が起きても、きっと何とかなる」
その一言に、麻希の胸が思わず跳ねる。ドクンドクンと、うるさいほど鼓動が早まるのが自分でもはっきりわかる。涙が頬をつたうまま、彼女は小さく頷いた。
「……ありがとう。そう言ってもらえると……私、ほんとに救われるんだ」
しばし沈黙が降りた部屋には、二人の呼吸だけが聞こえる。気まずいような、でも心地いいような空気に包まれる中、直哉は思わず目を逸らしそうになるが、それでもしっかりと麻希の瞳を見据えた。
――不意に、また耳に“ささやき”がこだまする。
その声はまるで、二人がさらに近づくことを促すかのように。しかし何を言っているのか、あるいは何を求めているのか、よくわからない。それでも――。
「う……んと、落ち着いたかな」
「うん……ごめん。変な空気になっちゃったよね」
麻希が慌てて少し距離を取ろうとするが、直哉が笑顔でそれを制するように言った。
「いや、そんなことないよ。俺も正直、不安でいっぱいだけど……麻希の存在に助けられてるって感じてる。だからさ、気にしないで」
その言葉に、麻希の不安は少しだけ薄れていく。自分の気持ちを言葉にするのが下手な直哉だけれど、その分、まっすぐな思いが伝わってくるのがわかるから。
「……そう言ってもらえて嬉しい」
そう呟いた瞬間、コンコンと戸をノックする音が聞こえた。
「お客人、失礼しますよ。村長がスープを持ってこられました」
出入り口から現れたのは村の若い女性で、木のトレイには湯気の立つ二つの椀がのっている。ほのかな香草の香りが食欲をそそるスープだ。
「わぁ、いい匂い。ありがとうございます!」
麻希と直哉は顔を見合わせ、ほっとしたように笑みを交わした。奇妙な世界と状況の中で、こうして人の優しさを感じられるのは何よりも救いになる。
「二人とも、まだ疲れが抜けてないでしょう。温かいものを食べてゆっくり休んでくださいね」
村の女性がそう言い残し、出て行くと、室内には再び二人だけが残された。熱いスープを一口すすると、じんわりと体の芯が温まっていく。
「ん……おいしい。落ち着く味……」
「うん、ほんとだ……。こういうのも久しぶりな気がするな……」
何気ない会話がふと途切れたところで、麻希がそっと直哉の方を見やる。胸の高鳴りはまだ完全にはおさまっていないけれど、少しずつ前を向こうという気持ちが芽生えていた。
(わからないことばかりだけど……きっとこの人となら、乗り越えられるかもしれない)
その思いはまだ形にならない。だけど、麻希の心をやわらかく、そしてどこか切なく震わせる。
こうして二人は、小さな村で束の間の休息を取りながら、再び動き出そうとしていた。己の中に根付いた“ささやき”の謎を解くために。そして、まだ名前すら知らない大きな運命に立ち向かうために――。
それは、新たな旅立ちへの一歩となる、ほんのわずかな平穏の時間だった。




