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ささやきの運命  作者: 乾為天女


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第二部:第一章 目覚めの地

 ひんやりとした草の感触が頬に伝わる――。

 はじめに意識が戻ったのは、黒髪の青年・直哉なおやだった。彼はうつ伏せの状態からゆっくりと体を起こし、周囲を見回す。どこまでも広がる見知らぬ大地。空気の匂い、吹き抜ける風の涼しさ、そして見上げれば幾重にも彩る淡い雲。自分がどこにいるのか、なぜこんな場所で倒れているのか、まるでわからなかった。

 そっと頭に触れると、痛みはあるが血の気はない。気づけば、少し離れた場所に誰かが倒れている。女性だ。

「大丈夫……ですか?」

 直哉は少し緊張しながらも、恐る恐る近づいてその女性の肩に手をそえる。

 ――浅い呼吸。

 ――かすかに震えるまつげ。

 声をかけると、彼女はうっすらと目を開けた。セミロングの髪が風に揺れ、透明感のある瞳がこちらを見つめる。

「……ここ、どこ……?」

 彼女の名は麻希まき。自分の置かれた状況がわからず混乱している様子だが、直哉の声で我に返り、ゆっくりと体を起こした。

「えっと……俺も正直、わかんない。気がついたら、ここで倒れてて……。怪我はない?」

「うん……多分、大丈夫。」

 麻希は少しおそるおそる立ち上がり、少しずつ辺りを見回した。見知らぬ草原、そして見慣れないほど澄んだ空。そして自分の内側に、何か妙なざわめきがある。

 ――ささやくような、声。

 それはぼんやりと雑音のようでもあり、何かを呼びかけるようでもある。はっきりした言葉にこそなっていないが、確かに麻希の耳に、そして直哉の耳にも届いていた。

「ねえ……直哉、さん、だっけ?」

「うん。あ、呼び捨てでいいよ。それより、もしかして――君も変な“声”聞こえてたりする?」

 麻希の瞳に驚きが浮かぶ。同じ現象が起きているらしいとわかり、二人はようやくお互いの存在をはっきりと認識し合った。まるで脳の奥底に直接かかってくるようなこの声は、いったいなんなのか。

「とりあえず、ここでじっとしてても仕方ないよな。周りを少し探してみよう」

「うん……。私もこのまま怖いから……お願い、ついていかせて。」

 麻希が少し不安げにそう言うのを聞き、直哉は頷いた。見ず知らずの女性だが、どこか守らなきゃという気持ちが湧いてくる。微かに胸が高鳴るのを感じながら、直哉は麻希の手を取った。

「立てる?……ほら、手を貸す。」

 そのまま彼女をそっと支え起こす。麻希は少し戸惑いつつも、その手に自分の手を重ねた。まだ逢ったばかりだというのに、こうして触れ合うだけで心臓がうるさく跳ねているのがわかる。

「……ありがとう。なんか不思議な感じ。私たち、さっきまでどこにいたんだろうね。」

「俺も記憶が曖昧なんだ。でも、もしかしたら同じ理由でここに呼ばれたのかもしれないな。」

 言葉少なに、それでもお互いを支え合うように足を踏み出す。見渡せば遠くに木々が並んでいる。その向こうに、わずかに人の生活を感じさせる煙のようなものが上がっているのを見つけた。

「村か何か……人がいるかも。あそこに行ってみようか。」

「うん……うん、お願い。」

 軽く息を整え、麻希は握られたままの手に意識を向ける。まだほとんど何もわからないけれど、この世界で最初に出会った青年に、不思議なほど安心感を覚える。それが、先ほどから耳元で囁く“何か”のせいなのか。あるいは、彼自身の優しそうな雰囲気のせいなのか。

 どちらにしても、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 小高い丘を下り、林を抜けた先に、規模は小さいが家屋がいくつか並ぶ集落を見つけることができた。年配らしき村人が目に留まると、驚いたような顔で二人を見つめてくる。

「お、おい、大丈夫かい! そんな薄着で……この辺りで倒れてたのか?」

 快活な声とともに駆け寄ってきたのは、村の男たちだ。驚きや警戒の混ざった視線を向けながらも、倒れていた二人を放っておけないといった善良さがうかがえる。

「助けてもらえませんか……。どこから来たか思い出せなくて……」

 麻希の訴えに、村人たちは顔を見合わせると「そりゃ大変だ」と率先して家に案内してくれた。薄暗いが暖かな室内に通され、椅子に座って簡単な手当てを受ける。

「すみません、ありがとうございます。俺たち、何もよくわからないままで……」

「まあ、焦らず落ち着いて。少し休んでから状況を話してくれればいい。ここは小さな村だけど、最近いろんな噂話があるからな……。ま、心配ならしばらく休んでいくといい。」

 “最近、不穏な気配が広がっている”――そんな村長の話を耳にしたのは、二人が一息ついてからのことだった。魔物が以前より活発化してきたとか、どこかの大国が領土を狙っているとか、詳細は定かでないが不安を煽る情報ばかりが耳をかすめる。

 そんな中、直哉も麻希もどうにも聞きなれない言葉を繰り返し耳にするようになる。

――ささやき。

 例えるなら、誰かが耳元で囁いているような感覚。

(この声はいったいなんだ? 直哉……と私……何をしようとしてるの?)

 麻希は一人、与えられた部屋の片隅で抱え込むように思考を巡らせていた。自分の人生を振り返ろうとしても、何か断片的で曖昧。確かに名前や家族のことはうっすら覚えている気がするのに、この世界に来た経緯はまったく思い出せない。

 コンコン、と扉をノックする音。

「……麻希? 入っていいか?」

「うん、どうぞ。」

 扉を開けて姿を現した直哉は、どこか落ち着かない表情をしていた。ここ数時間で急展開すぎる出来事に、そりゃ混乱しないほうが不思議だろう。

「どうしたの?」

「大丈夫かなと思って……。その、さっき村長さんに話を聞いてきたんだけど、最近ほんとにいろいろ物騒らしい。俺たちも巻き込まれる可能性があるかも。」

 そう言われると不安はより一層強くなるが、ここまで一緒に行動してくれた直哉の存在が、麻希にとっては支えになっているのも確かだった。

「怖い……けど、ひとりじゃないから……まだ平気。ありがとう、直哉。」

 不意に素直な言葉がこぼれ落ちる。麻希自身、どこか気が張っていたせいか、こうして相手に思いを伝えるのは初めてかもしれない。

「いや、俺だって助けられてるよ。初めて会った時、あのとき倒れていたのが俺一人だったらって考えると……たぶん絶望してたと思う。」

 二人の目が合い、気まずいようなくすぐったいような沈黙が訪れる。わずかに頬を染める麻希に、直哉は言葉を探しあぐねる。

 ――ドクン。

 心臓の音がはっきりと耳に届く。何かに導かれるように、そっと直哉が麻希の肩に手を置いた。驚きに瞳を見開く麻希。

「大丈夫。俺たち、きっとどうにかなる。まだわからないことだらけだけど……一緒にいれば、何かを掴める気がするんだ。」

「……うん。」

 その瞬間、胸が高鳴りすぎて苦しくなるほどだった。まるで言葉にならない感情がささやくように、彼女の中で弾ける。緊張ともときめきとも言えない、でも確かに甘く熱いもの。

(……この人となら、何かが変わるかもしれない)

 はっきりした理由はない。けれど、そう信じたくなる不思議な温度がそこにあった。

 今はただ、小さな安堵とともに、二人は静かなひとときを共有する。

 “ささやき”はまだくぐもるように耳奥で響いている。だが、見知らぬ世界の戸惑いと不安の中で、ほんの少しだけ心が温かくなる瞬間――それこそが、互いにとっての唯一の救いだった。

 こうして、直哉と麻希の冒険は、淡く揺れる“胸の高鳴り”とともに幕を開ける。


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